光と闇の芸術家/やりたいことと歴史的使命が一致すれば
Posted at 09/12/01 PermaLink» Tweet
今日から12月。少し冷え込んでいて、思うように手が動かない。少し活元運動をして、といっても誘導運動をしただけだが、体を動かす。多少は動くようになる。
FMでベートーベンのピアノコンチェルト『皇帝』がかかっている。ピアノとオーケストラの掛け合い、今まであまり面白いと思ったことがなかったのだけど、いま聞いていると面白いなと思う。クラシックって聞けば聞くほど、それに関する書籍も読めば読むほど、つまり勉強すればするほど面白さがわかって来る、というものなんだなと実感する。
このピアノコンチェルトでも、聴いていると、ベートーベンがどんな闇の中を歩いているのか、そしてそれを突き抜けたときにどんな光の中を歩いているのか、ということが思われてくる。以前ベートーベンの弦楽五重奏がずいぶん好きなときがあって、それもなんと言うか彼の闇の深さと、それを突き抜けたときの安息のようなものを感じたのだけど、ベートーベンと言うのはそういうコントラストの強さみたいなものが彼のテーマのようなものだったんじゃないかと思う。何を聞いても光を感じるし、光のなさも感じる。ピアノソナタ『月光』なんていうのは本当にそうだなと思う。
だからベートーベンの跡を継ぐ人たちは、その強烈なコントラストをどう受け継いだらいいのかわからなかったに違いない。コントラストが強くてもそこに深みがなければベートーベンは超えられない。結局、多くの人たちはコントラストでなくニュアンスという方向に重点を移していったのではないかと思う。
カラバッジオとかレンブラントとか、絵画でいえばそういうコントラストの強さ。時代が違うから題材は全然違うけど、というかベートーベンは共和主義者だしある意味近代人だから17世紀の人たちとは同列に語れるはずがないが、光と闇の芸術家という点では同じだ。いや、そうか、17世紀の画家たちは芸術家というより魔術師なんだな。ベートーベンは明らかに芸術家だ。というか、ダヴィドやアングルのように、初めての「自覚的な芸術家」だと言っていいのではないだろうか。
自ら「芸術家」たらんとした(つまり貴族から独立した芸術そのものに奉仕する存在として)第一世代はモーツァルトやプーシキンなのだが、彼らは天才なので、姿勢そのものがフレキシブルだ。しかしベートーベンは頑固な共和派なので、ときに貴族社会と対立したりする。彼が楽聖といわれたのは、多分そういうことも関係しているのだろう。そして音楽家で彼ほどその姿勢を貫いた人は、19世紀にはなかなかなかったに違いない。
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松岡正剛『多読術』を読了したのだが、どうもこの本について感想を書く気にならない。この本だけでなく松岡の本はどれも感想を書く気が起こらないし、松岡の本を本当に最後まで読んだのもあまりなくて、この本以外にどれだけあるか。面白そうなテーマを扱っているので何冊も持っているのだけど、たいてい途中で面白くなくなって読了せずじまいということになる。
この本をぱらぱらめくりながら思ったのだが、松岡と私は方法論的着目点や関心の行く方向は似ていても、もともと求めるものがぜんぜん違うという感じがしてしまうからなんだなと思った。松岡は幅広い「知の世界」の構築みたいなものを目指しているし、本もそういうつもりで読んでいる。端的にいえば、「広く浅く」を目指している、ように思える。しかし私は好きなものを熱中して読む、いわば「狭く深く」を目指している。私自身のもともとの資質は松岡と同じく「広く浅く」の方だと思うのだけど、どうもそれでは満足できない自分がいる。若い頃はとにかく何でも興味をもち何でも読み漁った、私の本棚の講談社現代新書の膨大な冊数はそれを物語っているのだけど、結局それは広大な知の世界の自分なりの編集、という方向には結実しなかった。というか、松岡の仕事を見ていて、そういう仕事をする人はここにいた、よかった、という感じはする。自分がやらなくてもいい、というか、もちろん自分がやったら多分全然違うように結実するとは思うけれども、なんだかそういうのも面倒くさいと思うようになってきていたので、そういう仕事をやっている人が別にいるならお任せしよう、という気がする。
昔は、ゼネラリスト指向がかなり強かった。今思い出したが、高校のころ友人に、自分はレオナルド・ダ・ヴィンチのような万能人になりたい、なれなかったらなんでも適当にできる器用貧乏な人でもいい、と言っていたのだけど、結局万能人はもとより、器用貧乏にもなかなかなれないしそういう一面はやっぱり貧しくて満足できない、ということもわかってきた。自分のゼネラリスト指向というのも一つには一つのものに集中できない、という面からきていることも確かにある。今でもいろいろなものに関心がないことはないが、昔に比べるとだいぶふるいにかけられてきた感じがする。それは一つにはある種の極限状態にあるからかもしれない。本当にやりたいことしかできないというか、やらないと死んでしまうようなことしか出来ない状況の中にいるということもあるんだろうと思う。
私はずっと、自分の歴史的使命は何だろう、ということを考えてきたのだけど、なんだか少しわかったのは、私自身はまだ歴史的使命を云々するようなところまできていない、まだまだ精進が足りない、ということだ。歴史的使命というのはぱっと与えられることもあるけど長年の精進の結果いつのまにか与えられているというものでもある。人間個々を見れば、それほどのものは与えられていないということもあるし、家族や地域の中といったもっとミクロな人間関係のなかでの使命であることもある。今私は確かに父や母を支えるという使命がある。職場を支えるという使命もあるが。
「やりたいこと」というのは、「使命」と一致したときにこそ、本物になるのだと思う。IT業界の人たちを見ると、こちらが首をひねりたくなるようなことでも彼らは自分の「やりたいこと」を「歴史的使命」と自覚してやっている場合が多い。そういうコメントは最初、ただ自己アピールのようなものだと思っていたけど、実は本当にそう思っているんだろうと思うようになった。そりゃあ楽しいだろうし、ストイックに頑張ってお金も入ってくるし、まあそういうものなんだろうと思う。もちろんコケることもあるけど、それはそれなりの意味での歴史的使命に違いないんだろうと思う。ホリエモンとかも、陳勝呉広的な意味で歴史的使命を果たしたんだろうと思う。本当はまだまだ大きな使命があるのかもしれないけど、彼の哲学を聞いているとやっぱり陳勝呉広クラスかなという気はする。孫や三木谷の方がやはり器は大きいだろう。でも日本で言えば信長的なものといえなくもないか。まだ歴史的評価には早いだろうけど。
そんなことを考えていて、おぼろげながら思ったのは、私は割と自然というかナチュラル思考はあるのだけど、本質では人のつくった闇の中をろうそくを片手にこつこつと足音を立てながら何かを探して歩き回るところに宿命、あるいは使命があるのではないかということだった。人が生きるというのは、誰でも本質的にそうなのかもしれないが、自然のままでもないし、すべてが人工のものでもない。アポロン的な明晰な世界だけではなく、ディオニソス的な暗い情念の世界だけでもない。無為自然ということは大切なことだと思うが、人はけだものではなく、物理的な世界だけでなく心の世界が作り出したものの中にも住んでいる。
その世界はおそらく明晰な闇でもあり、真っ暗な光明でもある。その双方は多分誰でも持っていて、心も体もそれに応じた形で存在しているのだと思うのだけど、それをどんな形で自分が感じ、また創造に結び付けていくかはそれぞれなんだと思う。いろいろな文学を読んだりしてもぴんとこないことが多いのだけど、ズラウスキ――マンシェット――セリーヌの系譜――自分にとってであって本当はその逆から書くべきなんだけど――は丸ごと自分にそういうものを提供してくれる感じがする。それから、クラシック音楽。むかしはモーツァルトやバロックばかり聞いていた。それは多分心の闇的なことを避けてたという部分もあるんだろうと思う。あるいは20世紀のサティとか、「アートに流れた」感じのもの。
でもベートーベンなりショパンなりを聞いていると、本当に光と闇を感じるし、そこにこそ自分が聞きたいものがある、という感じがする。スペインバロックやカラバッジョが好きだったのも、同じようなところがある。レンブラントはうますぎる。スルバランの少し超越的な明暗が一番心に刺さる。ムリーリョやベラスケスで安心したい自分の方がむかしは強かった。
でもスルバランでは納得できないというのは、やはりスルバランは素朴すぎるんだろう。中世人的でもあるし。
だいぶ向こうまで言ってしまった。そろそろ「禿山の一夜」のように夜明けの鐘が鳴りそうだ。アルゲリッチのマズルカを聞きながら、この世に帰ってこなければと思う。
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