教養があるのに攻撃的な人に感じる違和感/など

Posted at 09/11/20

最近まともな内容のあるブログを書いてないなあと思う。状況が状況なので仕方がないのだけど、書けるときにはもう少しきちんと書ければいい、と思うのだが、「書く」ということに集中するのはやはりそれなりにパワーがいることなんだなと書こうとしてみて思う。なんとなく無駄にネットを見たり、それについて書くかどうかわからない本をぱらぱら読んだり、行く当てのない思考を繰り返してみたり、そう言うことの結果、全然関係ない内容の文章が出来たりするわけだけど、そういう全然関係ないことを考えたり読んだりすることが相当必要なことなんだと思う。ツイッターでつぶやいていることも、ブログをちゃんと書いているときといまのように本当に断片的になっているときとでは内容がかなり違う気がする。

いくつか読んでいる本もあるのだけど、それに対する感じ方も、割と表面的になっている感じがする。その背後には何があるのか?と言うことを普段なら考えないと読んでも納得できないのだけど、いまは文字面から受ける印象以上のことを考える作業が停止状態になっている。こういう時は「深い考察」みたいなことは全然出来ないので、書いても印象批評でとどまってしまう。深く突っ込む萌芽みたいなものは全然たくさんあるのに、それを突っ込んでいく方にパワーが配分されてない、という心と体のバランスになっている。ツイッターものの書籍がいま一番論じるのに旬なのに、そういうことが出来ないのはちょっと残念だ。

香山リカと勝間和代とどちらに共感するか、という話があったが、そういう二分法が出てくること自体があるパラダイムに支配されてるんだろうなと思う。私にとっては勝間の方が新奇な感じがして面白いが、ほんとうに話しこんで面白いのは香山の方だろうなとは思う。まあそれは共有されているものが彼女との方が多いだろうと感じるだけのことなのだと思うけど。思うけど、まあそれがどれだけ重要なことか、というのを感じるのもその人次第なんだよな、とも思う。

われわれの時代までは、文系的なペダンチストを標榜することが可能だったけど、最近はそういうものが成立しにくくなってるなと思う。若者の文系教養のある人たちは、逆になんだか被害妄想的になっていて、どうも妙に攻撃的になっていて痛々しい感じがする。昔なら文系教養でモテ実現、ということが可能だったのが、最近は難しくなってるんだろうなとも思う。グローバリゼーションによるパワーゲームの悪影響がこういうところにも出ていると言えるのではなかろうか。

教養があるのに攻撃的、という人はなんだか見ていて胸が苦しくなる感じの違和感を感じる。昔からもちろんそういう人はいたけれども、最近は特に無意味に増えている感じがして、癌細胞の増殖のように感じたりする。

最近の文系の、特に左翼方面の人、の若い学者やその卵たちの発言がなんだか痛くてイヤだなと思うことが多い。右翼方面の人は前から痛い人は多かったけど、無理にそれを真似しなくてもと思う。教養があると言うことは、悠揚迫らざる人格を実現すると言うことと同じであったはずだから、余裕のない「教養」のある人というのは教養人ではありえない。それはただのオタクなのだ。「教養」のある左翼のヒステリックな若手学者(右翼方面もだが)の攻撃性というものは、結局オタクの攻撃性なのだといわざるをえない。

教養人にあって教養オタクにないものは何か、と考えてみると、結局それはユーモアのセンスに代表される余裕だよな、と思う。政治向きで面白いことを書いている人は多いけど、最近の発言者は、特にネットでの発言者は本当に余裕もユーモアも感じられない人が多くて、そのあたりはとても残念だ。それは笑いのセンスがダウンタウン以降変わってしまったことも大きいのかもしれないな。最近の落語ブームと言うのはある意味ユーモアの復権なのではないかと期待してはいるのだけど、実際に最近の落語家の話を聞きにいっているわけではないのでそこまで言っていいのかどうかはよくわからない。

ただ、ユーモアと言うものはどうしても古いパラダイムに依拠している保守的なものが多いので、こういう変化の激しい時代にはなかなか難しいのかもしれない。変化の激しい時代と言うのは、そいう言う意味で殺伐としてしまうのは仕方がないのだろうか。

そうすると世の中の流れから少し距離を置こうという隠者的な志向が出てくる。敢えて言えば、勝間は殺伐もものとせず世の中の渦の中に飛び込むタイプであり、香山はインテリ的に竹林の七賢とまでは行かないが少し距離を置こうというタイプであるということになろう。

私はどういう人間なんだろうと考えてみると、そのあたりが混乱してるんだろうなと思う。当たらし物好きなのでどんどんそういう意味で世の中に飛び込んでいく部分もある一方で、やはり世の中に距離を置いて、本質を凝視したいという志向もある。誰でもそういう二つの部分を持っているのだろうと思うけれども、その引き裂かれやすい自我を統一することは現代に生きるわれわれの大きな課題なんだろうなと思った。

と言うようなことをちょっと考えてみたいなと思う。時間と体力に余裕が出てきたら。

***

『ピアノの森』関連で毎週読ませてもらっているこちらの情報で東村アキコ『海月姫』の第3巻が発売になっていることを知った。最近書店をゆっくり物色している暇がないので気がつかなかった。機会があるときに購入しよう。

海月姫 3 (講談社コミックスキス)
東村 アキコ
講談社

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