「星三つ!」とか「騙された!」とか/女が生き生きしている時代小説
Posted at 09/10/31 PermaLink» Comment(2)» Tweet
昨日、仕事は比較的暇だったので9時半過ぎに終わり、帰宅して夕食、入浴、就寝。寝たのは12時前。今朝起きたのは5時半ごろで、だいぶ元気なのかなと思ったら腹が下っていたり。まあ余分なものを排出するのはいいことなのだけど、どうも頭の集中が遅く、また腹に力が入らない感じがあり。
今読んでいるもの。吉川英治『鳴門秘帖』、プラトン『リュシス』、松岡正剛『多読術』の三冊を並行して。何冊か並行して読み始めて、途中から一番面白いものに集中する、ということがよくある。
多読術 (ちくまプリマー新書)松岡 正剛筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
松岡正剛はまだ数ページしか読んでないが、彼のサイト『千夜千冊』などに書かれている文章は「批評」ではなく「読書体験記」だ、という記述に我が意を得たり、という気がした。私も、自分が書くものは大上段にその本をぶった切る書評とか批評とか言うものではないし、単なる感想、というのとも違う。その本について書いているうちに触発されてきて、その本とは直接関係のないことをとうとうと書いたりしている。それは、その本の評価を読みたい人にとってはうざったいだろうけど、私自身にとってはその本を評価することにあまり意味を感じない。だってもう読んでしまったんだもの。もう読んでない自分には戻れないんだし、時間も費やした。面白くても面白くなくてももはやそれまでだ。だから、その本について書いていても、基本的にあまり貶す気にはならない。自分が深く読めてない部分に本当はすごいことが書いてあるかもしれないし。どうしても貶したい、という本もないことはないが、そう言うときはまず自分の精神状態を振り返った方がいいかもしれないし。
だから、なんと言うか私の書いていることは、そんなにパブリックなものを目指しているわけではない。まあ私が重々しく「星三つ!」とか叫んでも誰も聞いてないだろうしね。だいたいああいうのけっこううざいしね。評価する自分が評価されてる、ということもあるが、「埋もれているけどすごくいい本」とか「売れているけどこれはダメだと思う」という本でない限り、デジタルな評価は出来ない。アナログならできるかというとやはり定量的な批評はあまり意味を感じない。全然知らない分野だと多少参考にすることはないとはいえないけど、やはり批評の意味はその批評文を読むことそれ自体にあり、定性的なものだと思う。
その本を、たとえばこの著者はこういう系統の学問をやったこういう人で、とか今までこういう作品を書いてこういう評価を受けて、ということはある程度参考になるし、新聞書評というのはそういう部分を読んでいることが多いのだけど、まあそういうググればわかることについてあえて自分が書くこともないかなと思ってしまう面もある。それより本の中身について、読んでいて分析をしたくなれば分析をしてしまうし、ただただ感想を述べたくなることもあるし、もう誉めまくりたいときもあれば、本をそっちのけで自分語りに没入することもある。そういうのもひっくるめて読書体験だ、という気がする。だいたい本というのは、たいていの場合、読んだら何かを書きたくなるものなのだ。映画を見たらやはり友達と話し合いたいのと同じで、本を読んだら何かを語りたい。まあ語るのに難しい本も当然あるけど。
まあしかし、そういう極私的なエロリアリズム、じゃなかった極私的な体験というものから何か拾えるものはあると思うし、そういう意味ですべての個人的体験はパブリックな側面を持つとも思う。特に読書の体験というのは、そのように共有していくことに意味があることだと思うし、だからこそ読書ブログが花盛りなんだと思う。
で、やはり人の読書ブログを読んでいて思うが、私はたいていの場合、人と同じ感想を持っていない。なんだかよく考えてみると変かもしれないと思うようなことをいろいろ書いている。これはわざとではなくて(わざと書いて面白ければ書くかもしれないがだいたい外す)自然に変なことを書いてしまう。ということは頭の中身が変なんだろう。自分に共感してくれるとうれしいが、むしろ何か変わったこと書くなこの人、特に面白いわけじゃないけど、みたいに思われてるんじゃないかという気がする。
ありがたいことに、私のブログを読んで取り上げた本を買って読んでくれる方が大勢いらっしゃって、それでその方々も面白く思ってくれればいいのだけど、ときおり「騙された!」という反応が返ってくることがある。うーん。弱ったな。特に勧めたわけでなくても、これは面白い、と力説したらやはり反応はあるので、その面白さが誰にでも受け入れられるものではないことも当然あるのだけど、まあそういわれるとゴメンナサイというしかない。
まあだから、これは読書「体験」記なのですよ、ということを強調しておくということは必要かもしれない。通販番組の、「※これは個人の感想です」みたいな逃げ、みたいな気もするが、でも実際そういうものでしょう。
信頼できる書評家というか、水先案内人みたいな人を、私も何人か持っていて、その人がいいと勧めているもの、取り上げているものはやはり読んでみようかなという気になる。でも当たり前だが、その人が取り上げているもののすべてが面白いわけではない。特に白洲正子はそうで、白洲の文章で表現されるとものすごく面白そうに感じる小説が、そのものを読んでみるとちょっと私にこの文章の読了は無理だ、と思うことがけっこうある。小林秀雄などは心底惚れてるような作品でもある程度距離を持って表現していて、読む前にこのくらいの面白さかな、と測れるようなところがあって、そういう気持ちだけどでも読んでみよう、という気にさせる。そういうふうに考えてみると、やはり批評家としては小林の方が優れているんだなと思う。白洲は白洲の文章を読むのが一番気持ちがいい。身体の中をさらさらと水が流れていくような感じがする。
他に信頼している人といえば、呉智英。この人は大学生の頃劇団の主宰の人に紹介されて、それ以来全くはまってしまった。今でも彼の本で出版されたものは全部持っている。雑誌に載せられたものまではフォローしきれないけど。だいたい、最初に読んだのが『読書家の新技術』という本で、まさに本の読み方、読書ノートのつけ方、読むべき本を紹介したものだった。小谷野敦など、私の世代の人たちの本読みの中に、彼の影響を多大に受けている人たちはたくさんいるが、ご多聞に漏れず私も強い影響を受けた。ジュニアの時代はいろいろ迷っていたけれども結局西洋史に進んだのも、彼の本で紹介された『中世の風景』という中公新書が一つの決め手になった。
でもやはり、いつかそういう存在と、自分との違いというものはわかって来るし、昔とても面白く感じた文章が年とともにあまり魅力を感じなくなる、ということは残念なことだけれどもある。呉智英も、昔ほど面白いとは思わなくなった。
だから今は、「この人!」というような羅針盤は、ない。だけど自分で張っているアンテナはやはり偏りがあるし、知らない分野の面白いものは、なかなか飛びつけなかったりする。だから、そういう意味ではオープンマインドをもって、いろいろな人の紹介してくれるものを読むというのは自分にとってよい訓練だなと思った。やはり、心を閉ざして自分自身の中に沈潜するよりも、思い切って心を開いて広い世界を感じた方が建設的なことが出来るんだなと思う。
読書サイトを作る、というのはそういう意味で、自分自身がある種の羅針盤になろうとする、ということだ。でもその羅針盤を自分の思いだけで示せるほど、自分が世界の何もかもを知っているわけではないから、オープンマインドであることはある意味必須なんだろうと思う。
私の体験が誰かの新たの体験のために何か役に立てば、それでこのサイトの目的は、達せられたことになるのだから。
鳴門秘帖〈1〉 (吉川英治歴史時代文庫)吉川 英治講談社このアイテムの詳細を見る |
吉川英治『鳴門秘帖』まだ1割弱。ようやく主人公(なんだろう)法月弦之丞が出てきた。こういう数十年前に書かれた時代物というのはそんなにたくさん読んではいない。全巻読んだのは池波正太郎の『剣客商売』、子母沢寛の『勝海舟』くらいか。中里介山『大菩薩峠』は7巻くらいまでしか読んでないし、『銭形平次』や『半七捕物帳』なども読んでない。司馬遼太郎の幕末ものは『世に棲む日々』とか『燃えよ剣』、『菜の花の沖』などいくつか読んでいるが、やはり司馬は基本的に戦後のセンスの人だと思う。そういえば山本周五郎の『さぶ』を読んだな、最近でいえば。これも『小説の書き方』みたいな本で紹介されていたもので読んだのだが、これは面白かった。吉川英治はあまりに国民文学という感じがしてちょっと敬遠していたが、『鳴門秘帖』は面白い。濡れ場とか残酷な場面が今のところ出てきてないが、そういうのは避けるタイプの作家なのだろうか。時代ということもあるのだろうけど。ただ労咳の女の情慾の表現とか、間接的なところでさすがだなあと思わせるものがある。女が生き生きしているな。今まで読んだ時代物で女が生き生きしているという印象を持ったものはそんなに多くない。そういう意味では初めての体験。そこから先は。・・・(てんてんてん by阿木燿子)
世界の名著 (6) プラトン1 中公バックス田中 美知太郎中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
プラトン『リュシス』。最初、美少年リュシスに参っている青年ヒッポタレスとソクラテスとの会話が続くが、このあたりは面白くない。途中からリュシスが現れてソクラテスとの会話が始まるが、ここに来ると急に面白くなる。まだ11/37ページだ。本でも映画でも最初の数行、最初の数分見て面白くなければみる価値がない、という話があるけれども、こと古典に関してはそれはダメだなと思った。やはり最後まで読む気で読まなければいけない。新作に関してはそういう哲学でもいいのかもしれないけど、最近の古典離れというのは、そういう新作を読みなれている人が古典の面白さに触れる機会がないということが大きいのではないかという気がした。そういう意味ではそういう言説は罪なものだと思う。
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"「星三つ!」とか「騙された!」とか/女が生き生きしている時代小説"へのコメント
CommentData » Posted by shakti at 09/10/31
松岡正剛は、個人的にはダメそうとおもったことがある。
だって、サイードとかコンラッドとかを論じるときに、後ろの解説に書いてあるようなことを受け売りするような感じだったんだもの。たぶん多読の弊害じゃないかとおもう。
私が池澤批判をブログで書いたのは、一つにはそういう姿勢ね。たとえばロビンソンクルーソーならば、大塚久雄とかWeberとかプロテスタンィズムの精神を具現化した小説だよとやってしまう。ウソだよ、もっとぐじゅぐず思い悩む小説だ。しかし、読まないで誤魔化すテクニックで、そうやってしまう。
しかし音楽評論についていうと、趣味ある評論家が勧める本は当たりだね。といのが私の経験でした。
あと余談だが、僕は内田とむのファンでして、ネットで調べて血槍富士をみて、DVDで借りて「大菩薩峠」を全部と、(吉川英治原作)「宮本武蔵」VOL.1&2をみた。これは最後まで武蔵は見るよ。中村vs高倉の試合まで。見る価値があるはずだ。信じてくれる?(笑)
CommentData » Posted by kous37 at 09/11/01
多読の弊害で受け売りになる、というのはよく分かります。ひとつのことについて深く考えすぎなくなるんだよね。編集者とかに多いタイプじゃないかな。まあその世界での支配的な見方、見たいな物を身につけておかないと商売に差し支えますしね。そういう意味で本当にラジカルなものは編集者出身の作家には書けない、ということはあると思います。そういうのがある意味で彼らのプロ意識であり、また限界でもあるということになるでしょう。その代わり売れる本は作れると思いますが。
音楽は結構ユニバーサルなものだから、自分だけがいいと思う、というような演奏はあんまりないんじゃないかという気がします。だからちゃんとした人が評価したら似たような結果になるわけでしょう。文字ものはやはりそうは行かないと思います。
内田吐夢ですか。私は黒沢以前の日本の映画監督は全然見てなくて、分かりません。小津ですら最後まで見た作品がないので、なんともいえません。