約束を守ること/「教養」はなぜ衰えたか/子どもに読ませたい一冊
Posted at 09/10/27 PermaLink» Comment(2)» Tweet
きのうは台風で、地下鉄に乗って出かけるのは億劫だったので夕方少し地元を散歩したくらいで家に戻った。それでもだいぶ傘は骨がおかしくなってしまったのだけど。最近の傘は安いのはいいが、いまいち丈夫じゃない。まあ仕方ないことなんだろうけど。
地元の文教堂まで歩いて、ネットやパソコン関係の書棚をあれこれ立ち読みしてみる。そういえば、本格的にネットをはじめた1999年にはいろいろ基本的な本を買ったけど、数年前にXPに変えたときにはOSのティップスみたいな本はもう必要ない気がして買ってなかった。でも、立ち読みしていろいろ読んでみると、XPが妙に遅いのも多少は手の打ちようがあることがわかった。Windows7が出たことだし、そろそろ新しいのに買い換えようか、でも金がないしな…と思っていたけど、もう少し粘れるかもしれない、と思った。結局その本も買わなかったのだが。大体今こちら(信州)で使っているノートは2001年に買ったWindows98なのだ。だいぶ騙し騙し使っている。
精神力 強くなる迷い方 (青春新書INTELLIGENCE)桜井 章一青春出版社このアイテムの詳細を見る |
で、結局買った一冊の本は、桜井章一『精神力』(青春新書、2009)。桜井の本はいろいろ出ているけど、最近出ているいろいろな新書は、ゴマで出た単行本に比べると工夫があるのが多い感じがする。編集者に力があるんだろうなと思う。この本の特徴は、彼に寄せられるさまざまな質問、悩みに対し桜井が答える、という形式になっていて、その具体性のある答えが魅力的だ。今42/252ページ。今までの桜井の本のなかで、一番彼の人柄とか考え方が伝わりやすい、わかりやすい本なのではないかという気がする。今まで彼のいろいろな本を読んでいるから、こういうふうに答えるだろうなと予測のつくものもあるんだけど、「伝えたい」と彼が感じていることの重点の置き方が、とてもいい。
たとえば、こんな文章。「自分で決めたことや人との約束事を守れないのは、普段の生活のなかで守りを固めて生きているからですよ。一般的に「守る」と表現するけれども、私が思うに、「守る」というより「約束との闘い」とか「約束への攻撃」といったほうが正しい。」これは確かにそうで、自分で決めたことを守る、というのはただ漫然と思っていてもできることじゃない。「守りきる」「やりぬく」と決意して気合を入れていなかったら守れない。私は割と自分の決めた決め事、「毎日これをやる」とか言うのをやり続けるのは得意な方なのだけど、確かにそれはただ漫然とやるのでなく、「やりぬく」「守りきる」と自然に思っているからできるんだということに、言われてみて気がついた。
そんなこと当たり前だ、と自分では思っているのだけど、むかしから期限までに通信添削を出せない人、の話を聞いていて何故出せないのか不思議でしょうがなかったのだが、そう言う決意が自然にできるかどうかの違いなんだなと思う。私はそういうことに対してはハードルが低い人なのだけど、別のことに対してはとんでもなくハードルが高く感じてしまうところがあるから、人を批判したりするようなことはできないけど、まあ逆に言えば自分でも出来てるところはあるんだなと思ってもいいんだろうと思う。まあたいしたことではないのだが。
つまり一見受身に見えること、消極的に見えることでも積極的な決意とか覚悟みたいなものがないと出来ない、ということを言っている。これはまあそうだろうと思う。新しいことにトライすることに決意を持ちやすい人もいれば、約束を守ることに決意を持ちやすい人もいるわけで、その辺はそれぞれなんだけど、見かけの積極性とか受動性とかが大事なのではなく、心に秘めた部分、あるいは自分自身でさえそう意識しているとは限らない部分での生きる姿勢、そう言う意味での積極性が肝心なんだということだと思う。
私などは、前に出て行く積極性よりも、むしろ向うからやってくるものを受け入れたり楽しんだりする意味での積極性の方が自分にとって重要なのではないかと最近思うようになって来た。自分探しというけれども、どこにそういう心の姿勢を持てるかということが多分一番肝心なことなんだと思う。
別のところだが、『漢とは何か』というところで、「漢は道楽を正当化しない」というフレーズがいいと思った。というか自分が何か言われている気がした、というべきか。
まだ読みかけ。
***
きのうは鳩山首相の所信表明演説を見ながら寝てしまった。ずいぶん長大だったなあ。夜、『テレビタックル』を見たが、全般にみんなまだ民主党に対して長い目で見てやってるんだなという印象。まあ実際そんなものなんだろう、一般国民の実感としては。夜、進路に関する相談の電話がかかって来てしばらく話す。受身になって向うから来るものを受け入れる、とか言ってたらどんどん来る来る。まあ人の役に立つことを少しでもするのが自分を向上させることでもあるというのは確かだ。
***
昨日も早く寝て、今朝は6時前に起きた。だからいろいろ何でも出来る気になっていたのだが、あっという間に時間は過ぎ去り、結局ブログが更新出来ないまま出かけることになった。
しかしわりと急いだせいか東京駅で少し時間が出来たので、丸善に寄って本を物色してみた。一階の特集の書棚で「読書本」特集をしていて、いろいろな本があった。私も読書サイトを再構築することを計画中なので、こういう本もいろいろ読んでみるといいかなと思った。勝間和代が推薦しているアドラー/ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫、1997)、宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書、2006)などを手にとってみたが、結局松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書、2009)を買った。アドラーはかなり本気になって取り組まないといけなそうであること、宮崎はちょっと本人の好き嫌いが出すぎている感があること、が難点か。まあ読書本というのは別にそれでもいいのだが、もう一度読書に対する考えを再構築するときに、最初に読むものとしてはどうかなという感じがした、といえばいいか。
多読術 (ちくまプリマー新書)松岡 正剛筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
松岡は私にとって、いつも面白そうだと思いながら途中で読まなくなってしまうことが一番多い作家、なのだが、逆に言えば読書本なら最後まで読めるのではないか、というふうにも思って買ってみた。私はわりと、「編集者が書く本」というのは苦手なんだな。何でだろう。よい編集者というのは本に対する考え方を当然ながらかなり強烈に持っていて、それを作者や装丁家、営業などとぶつけ合いながら本を作っていくのだと思うけれども、そう言う考え方というものと読んで面白いものがかけるかということとはちょっとずれがあるのではないかと思う。本を読む面白さを一番知っているのが編集者だ、編集者は第一の読者なのだから、また本を作る面白さを一番知っているのも編集者だ、というのは確かだと思うのだけど、それをよく知っているからといってよく書けるわけではない、のだと思う。演出家が舞台に立ったから、映画監督がカメラの前に立ったからといっていい演技が出来るかというとそんなことはないわけで、役者や作家はある意味バカにならないといいものは書けない。編集者はバカになりきれないところがある気がする。かといって学者のような専門的な強みがあるわけではない。編集者の書く本がいまいちつまらないというのはそういうことなのではないかという気がする。いや、私にとって、ということに過ぎないけれども。
でも本に関する本という意味では彼らはプロなので、多分彼らにしか書けないことがあるはずだ。まあいちおうそういう期待で読んでみようと思ったわけだ。中身はまだちら見しかしていないけど。
中央快速線で新宿に出、10時発のスーパーあずさに乗る。ずっと携帯でツイッターをしながら座っていたら、思いがけなく面白いことになってきた。
宮崎哲弥の本は買わなかったのだけど、竹内洋『教養主義の没落』に対する書評のところで、教養というものがある特定の歴史的条件下においてのみ成立するものだ、というテーゼが述べられていて、それが心に残っていた。確かに、いわゆる教養主義はアプリオリに成立するわけではない。教養を必要とする人々と、教養を評価する人々、教養を提供できる人々がいて初めて成立する。 つまり、教養というものを重要だということがある程度以上「社会の常識」になっていなければ成立することは出来ない。そういう常識というものは旧制高校という制度によって一般化した、ということが竹内の本には書いてあったように覚えているが、逆に言えば旧制高校の廃止とともに教養主義もまた廃れていく運命にあった、ともかいてあった気がする。
しかし、そういう人びとを中核としてではあるが、教養というものが人間のバックボーンにとって重要であり、人間の修養にとって不可欠のものだ、という認識はある程度以上時間が経過しても正しいものとして一定の範囲には受け入れられていたと思う。
だから、教養主義というものが歴史的存在であるとすれば、条件の変わった現在にそれが衰えたことを憂いてもあまり意味がない、ということになる。江戸時代の教養主義が衰えて、明治の実学主義になったころ、人びとは虚学である江戸時代的教養をあまり重視していなかったことは確かだ。それでももちろん、夏目漱石や正岡子規などは漢学も身につけていたし、源氏物語を学んだりもしていた。ちゃんと論語の素読もしていたし、源氏物語的な擬古文を書く練習もしていたのだ。それが近代文学を樹立する上で、バックボーンになっていたと思う。
今の若い人たちの世代にとっては、多分教養といっても意味を感じなくなっている人が多いのではないかと思う。私たちの世代ではまだ、教養というものが自分という人間を形成する上で、つまり「修養」上、重要なものだという意識はそれなりにあった。当時の大人の人には明らかに「教養のある人」と「教養のない人」がいて、「教養のある人」はやはり魅力的に見えたからだ。誰にとってもそうかといえばそうではないだろうけど。
そういうことを意識するようになるのは、多分高校生のころだろう。そして親や周囲の人をのぞいて最初に出会う「教養人」は、高校の先生であることが多いだろう。
教養人というのは、子どもにとっては謎の存在だ。多くの場合、わけのわからないことを喋っている。それまで大人は自分たちとは違う大人という種族でしかなかったのが、高校生になるとある意味対等に問い掛けてくる大人がいる。人生とは何か。生きるとはどういうことか。人生における価値とは何か。私は中学生のころは苦しい時代だった。今思うと、教養のある大人、というものがいなかったからだろう。高校に入ると楽になった。小数とはいえ、教養を感じさせる存在が現れたからだ。クラスメートも、そういう話のできる友達がちらほら現れる。
中学のクラスメートは一緒にハードロックを聞いたり一緒にマンガを描いたりする友達はいたが、人生や映画について語れる友達はいなかった。中学生のころ強く印象に残った映画(テレビでやっていたもの)に『旅の重さ』というのがあったが、その印象を中学では割りと成績のいい友達に語ったけれども理解されなかったことをよく覚えている。高校に入ったら、何故それに感動したのか、ということについてあれこれ分析する友達が出来て、いっぺんに学校に行くことが楽しくなった。先生も全共闘崩れというかそういう若い先生がいて、ちょっとだけでも語ったりして、大人というもののイメージが変わったりした。
最近は、多分残念ながらそういう教養のある大人としての教師というものは減っているし、いても理解されない存在になっているのではないかという気がする。昔の高校は余裕があったし、教養人としての生き方をある程度徹底することが可能だったように思う。しかし今の学校は忙しすぎるし、私のように底辺校に配置されたりすると、自分の良いところは全然出せず、自分の不得意なことばかりやる破目になってどうにもならなくなる。そのようにして教養の伝播というものは既に途切れがちになってきたと思う。
教養というのは、全然専門性とは関係のないことなのだ。だからたとえば、「プロの教師」というような言葉があるが、教養人であるためにはそういうものとは違う部分をもたなければならない。しかしそういうものは残念ながら、現場で評価されにくくなってきている。教養人というのは、生徒と同じレベルに降りていくのではなく、生徒が上を目指して頑張る対象でなければならない。易経に「我より童蒙を求むるにあらず、童蒙我を求む」とあるが、そういうことだ。しかし現場では、やはり生徒と同じレベルに降りていくことを強いられる傾向にあり、そのためにその人の個性が減殺される例が少なくないように思う。それは学校としての度量の問題でもあるし、同時に社会の度量の問題でもある。まあ考えてみたら、私が教師を辞めたのは、もうそれに期待できないと思ったから、であるのだが。
教養の魅力というのは、幅広い教養を持つことによって、たとえばものごとに動じなくなる、というようなことにあるだろう。つまり、人間のバックボーンとして重要だということであり、その必要性は本当はあまり減ってないと思う。少しのことであたふたしている政治家などを見ると、もっと修行しろと言いたくなるのは私だけではないだろう。しかし、今のように「教養人」に触れる機会が減っていくと、それに憧れたりそれを身につけることを目指したりする機会もまた減っていく、あるいは失われて行く。
そして大きいことの一つは、教養というものが「成功」と結びつかないことが多い、ということだろう。竹内も書いていたが、むしろ「成功」を阻害する要因にさえなる。それがかつてないほど成功至上主義が強くなった現在――それがグローバリズム、あるいはアメリカニズムというものなのだと思うけれども――に教養が魅力あるものに見えない大きな要因だと思う。たとえば欧米のように「雄弁」が、そうした実用的なものが教養の中に組み込まれていたらまた違うとは思うのだが、日本の教養にはそうしたものが少ないし、また大正以降の教養主義の教養は実用に完全に背を向けたようなところがあって、やはりそこにひ弱さがあることは否めない。江戸時代の武士たちの気概や明治人の根性のようなものもまた、古い教養が支えている部分があったはずだが、アカデミズムや反生活主義と結びついた教養主義はやはり何か本来の毒気が抜かれているという部分があるのかもしれない。
ちょっと昼間ツイッターで書きながら考えたこととは違う方向に話がいっているが。
面白かったのは、「今ぜひ子供に読ませたい一冊」という問いかけを(本来は自分自身に)したら、いろいろな方から「これがいい!」という反応があったこと。その内容についてはこちらを見ていただければその一端は伝わると思う。
私が書いたのは、小学生には「ナルニア」のようなファンタジー。「ドリトル先生」とか「みどりのゆび」とか。中学生には「西遊記」や「水滸伝」、「三国史」のような伝奇もの。ルパンやホームズもいい。高校生なら「史記」、「論語」、「唐詩選」などの漢文の古典、中島敦。「嵐が丘」。根気があればドストエフスキー。「月に吠える」、「二十億光年の孤独」などの近代/現代詩。「嵐が丘」以降は私が実際に読んだのはもっとあとだけど。大学生になったら「神曲」、「源氏物語」。現代語訳で構わない。くらいのものだろうか。けっこう偏りはあるが。
漱石、鴎外、太宰、三島、川端などは私は自分があまり人格の形成に影響を受けたと思えないので、公に勧めるというよりこういうのも面白いぜ、みたいな感じで勧めるものという感じがする。このあたりのセンスは多分余り一般的ではないだろうな。書いていて思ったが、私はあまり近代人的なセンスがあんまりないんだと思う。私小説的なものってすごくプライベートに楽しむものという気がしてしまうし。
この辺になってくると、教養とは別の、小説論として考えなければならないな。それはまた別の機会にしよう。
教養って結局、基本的には直接役に立たないことを知ってるということなんだと思う。仕事に役立つわけでもなく、特に好きなわけでもない。でも何かの折りに、自分自身を深いところで支えていることに気付く、そんな読書。自分のなかで支えるものがある人間は強い。今の人間が脆いのは、そういうものが欠けている人が多い、ということでもあると思う。そういう意味では、教養のための読書というのは自分を強くするための読書でもある、ということになる。
今回ツイッターでこういうものを書いていて面白かったのは、こういうことを考えながら書いているうちにどんどんコメントがついて、自分の中の本に対する感覚がどんどん広がっていったこと。自分の中の狭い本に対する印象だけでなくて、こういう感じ方もあるんだなということがあって刺激的だった。こういうのが、ツイッターの醍醐味の一つなんだろうなと改めて認識した次第。
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"約束を守ること/「教養」はなぜ衰えたか/子どもに読ませたい一冊"へのコメント
CommentData » Posted by KEN at 09/11/11
いつもこちらの気分でメールをするのも恐縮ですが・・・
遅れながら、過去のお話を読ませてもらいました。本当によくまとまった内容で、教養人だなといつも感じます。
その「教養が自分を強くしている」という点、一人で立っていることの大変さを感じ始めた私がここ数年、本を読みたがる~特に自分を問い直すメッセージ性の高い本~理由が分かりました。
折れそうな自分の背骨の、補強材を本能的に求めていたのですね。
私はクリスチャンではないですが、10年ほど前によく読んでいた三浦綾子をいまあらためて読んでいます。
最新号を読んでいませんが入院中のようで・・・どうぞ、心丈夫に頑張ってください。二流人物論は図書館にリクエストしてみます。
CommentData » Posted by kous37 at 09/11/12
コメントありがとうございます。
物を考える動物である人間にとって、読書と言うものは人生の指針として大事なものだと思います。自分が芯を持たずに回りの情報に流されないためには、自分の魂がしっかり対話できる古今の文章に触れることはプラスになることだと思います。
それにしても、みなさん本当にそれぞれいろいろなものを読んでいるんだなと感心しきりです。自分の読書範囲の狭さも思い知らされますね。
インターネット読書サークルみたいなものがあっても面白いかもしれないなと思いました。今の状況ではなかなか難しいのですが、やれる状況になったらやってみてもいいかもしれないなと思います。