リオ・デ・ジャネイロ/自己主張バブル

Posted at 09/10/03

昨日。夜は結構激しい雨が降っていたが、10時過ぎに変える頃には小降りになっていた。帰宅して夕食、入浴、就寝。起きたのは5時半頃。モーニングページを書いて、思い立って展望台のある公園に出かける。思ったより暖かい。時々思い出したように小降りの雨。でも大体上がっていた。

展望台から湖を見下ろす。低地の田圃はだんだん色づいてきている。もう刈り取りの済んだ田圃もあるが、まだほとんどは残っている。

帰ってきてニュースを聞くと、2016年オリンピック開催地はリオデジャネイロに決定したとのこと。最初に脱落したのがシカゴで、次が東京。決選はマドリッドとだったが、やはり南米大陸初の、というのが大きかったようだ。ラテンアメリカではメキシコについで二番目だが、ポルトガル語圏でははじめて。南半球ではオーストラリアのメルボルン・シドニーについで3番目と言うことになる。

東京に関しては、正直必要だったのかなという気がする。築地市場移転問題の印象があるので、無理にやることもないんじゃないかと思っていた。一回戦でシカゴが落ちたのはショックだったようだが、二回戦でマドリに負けたのはサマランチへの同情票だろう。オリンピック貴族の仲間意識だろうな。まあリオが一番順当な感じがする。順当な通りに決まるとは限らないのがオリンピックではあるけれど。

自己主張、ということについて少し考えた。最近、自己アピールだのなんだのと、自分をいかに売り込むか、ということがいろいろと取り上げられている。もともと日本はそういう文化ではないのだが、そのためのハウツー本が店先に並んだり、ツイッターやブログなどでもそういう感じの文章がたくさん見られたりして、なんだか少し違和感を持っていた。

昔は、表に出て来る人というのは本当に自信に満ち溢れているナとか、プライドの高い人なんだな、という印象の人が多かったのだが、最近はあんまりそういうものが感じられず、本当はあんまり自信がない人なのに、マニュアル通りにやってうまく目立っているものの、なんだかその人の存在にメッセージが感じられない、という感じの人が増えている感じがする。

いわば「自己主張バブル」のような状態なのではないか、という気がする。

昔の「目立ちたがり」というのは、本当に目立つことが楽しくて、注目されることが生きがいで、その喜びがほしくてやっていると言うほほえましいものがあったのだが、なんだかそういう喜びすら感じられない、目立とうと頑張っているのはわかるが目立ってどうしようというのがわからない、目立ってしまったもののどうしたらいいんだろうと戸惑っている、という人が多くて面食らったりする。

どこが違うんだろうなあと思ったのだが、結局今の「目立ち指向」というのはキャリアアップの一段階だったり、あるいはそれ以前にまず生き残るための手段だったりと、つまりはなんだか世知辛いと言うことにあるんだろうと思う。

目立たないと生き残れない、目立たないと出世できない、という感じはまあアメリカ的なのだが、しかし目立つことへのなんと無しの罪悪感と言うようなものもどこかに引きずっていて、なんだか気持ちよくない、後ろめたい感じがする。それはフランス人が公衆の面前で愛を語っていても爽やかな感じなのに、日本人がやっているとなんだかじと―っとしてしまって、見ていられない気恥ずかしさが爆発するのと似ている。

日本というのはそういう意味で、もともとじとーっとした文化なのだから、目立つなんてことは一部の軽はずみなものがやることで、だからこそ愛嬌があったのだが、生存や出世をかけて目立とうとするなんてのは、芸人ならばともかく、なんだか見ていられないものがある感じがする。

私などは、目立つと言うのは楽しいことだと思うし、基本的に目立ちたがりではあるのだけど、なんだか目立ちマニュアルみたいなのを読んでいるとシオシオのパー、という感じがしてくる。

なんか目立つことを考える前に、まず自分の中身を充実した方がいいんじゃないかと思うんだけど、それでは現代社会では間に合わないのかな。なんだか人ごとみたいなまとめだけどさ。

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