『ローマ人の物語 最後の努力』読了/本当に幸せだから/情報と人間とか、生きる意味とか

Posted at 09/09/10

信州は、朝夕がだいぶ寒くなってきた。今朝の気温が11度。9月上旬とは思えない気温だ。日中はそれなりに気温が上がるのだが、寒暖の差が激しい。このところよく晴れているので、昨日は放射冷却が起こったのだろう。空気もだいぶ乾燥してきていて、季節の変わり目の風邪を引いている感じの人をよく見かける。

ローマ人の物語〈37〉最後の努力〈下〉 (新潮文庫)
塩野 七生
新潮社

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塩野七生『ローマ人の物語』35~37巻「最後の努力」(新潮文庫、2009)読了。

この巻は、ディオクレティアヌスの統治とコンスタンティヌスの統治、その間のコンスタンティヌスが権力を獲得していく過程について書いている。ディオクレティアヌスは引退後の悲惨な状態がすごく印象的だが、コンスタンティヌスのマキャベリスト的ななりあがり方も面白い。また、コンスタンティヌスがキリスト教ヨーロッパを築き上げる上でかなり決定的な役割をしたということもよくわかった。キリスト教にこれだけ熱心な皇帝はローマ史上初めてだし、彼はもうローマ皇帝ではない、という主張もわかる気がした。彼は最初の中世人だとも言われているそうだが、確かに彼のあたりでメンタリティの変換が起きているのだなあと思う。

こういう専制君主的なメンタリティがどのようにして形成されてきたのか、そしてそれがディオクレティアヌスの先例があるとはいえどのようにして受け入れられていったのか、ローマは時に応じてその政体を変えていったけれども、この変化が適切なものだったのか、それとも時の流れが否応なくそうしたものなのか、いろいろ難しいというか、考えさせられるところがある。

いくつか面白い点があるのだが、一つはディオクレティアヌス以降、コンスタンティヌスに至るまでの幾人かの皇帝がみなイリリア、ダルマチアの当たりの出身だということ。ゴート族とかの侵入に対抗するバルカンの兵士群がその当時最前線の優秀な軍人たちの供給源になっていたということだろうか。これは、南北朝時代の中国の北周・隋・唐の皇帝やその支持基盤がみな山西の武川鎮軍閥の出身だった、という話を思い起こさせる。中世帝国を作る人材の供給源が、わりとよく似た場所だというのは興味深い。古代が滅び、いまだ新しい秩序が成立していない時期の人材は、こういう周縁あるいは文明と野蛮の最前線から輩出するということだろうか。

ディオクレティアヌスは主人公にした小説を書くのはわりと難しそうではあるが、(晩年の悲惨はある意味想像力が膨らみそうだが)コンスタンティヌスは面白そうだと思った。
***

昨夜はよく寝られた。いつもはねる前に何か読みたいという気持ちが強く、なんだか残っている興奮をクールダウンするのに手間がかかるのだが、昨夜はそういうのがなく早く寝たいという気持ちになっていて、けっこう自然に深く眠れた。12時前に寝て6時前に目が覚めているから睡眠時間がそう長いわけではないけど、寝たりないという感じがなかったから自然に寝るのはいいことなんだなと思う。「やりのこしたことがある」感じなしで寝て、「やりのこしたことがある」感じが次の日に引き継がれないで起床するということがよい睡眠なのだと思った。

『ピアノの森』についてぼおっと考えると、子ども時代のカイ、日本で自活しているときのカイに比べて、ワルシャワに来てからのカイがなんだかいい子過ぎるなという印象が最近あったのだけど、それはカイが今、本当に幸せだからなんだと思った。光生が脱線気味だったり雨宮が苛々したりアン兄弟がナンパしたりしているのに比べると、カイはただピアノに真摯に向かっている。雨宮に言った、「俺たち、ここまで来られて本当によかったな」という言葉が今のカイの心境を素直に表しているんだろうな。

今日はモーニングとビックコミックの発売日なので、電気代を払ったり職場の不燃物を処理したりするついでにコンビニに出かけて買ってきて、すでに読んだ。今週は「ピアノの森」が掲載されていて、パンウェイの過去が明らかになる。ピアノとの出会い、そして阿字野のピアノとの出会い。明らかに天賦の才だが、おそるべき地獄にいたパンウェイにとって阿字野のピアノの存在は…ネタバレなのでそれはここまでに。しかしよくここまで深いストーリーが書けるなあ。そしてこの絵。阿字野に認められたい雨宮、阿字野に育てられたカイ、阿字野に福音を見たパンウェイ。そしてパンウェイのピアノを目を閉じて聞く阿字野自身は。

…次号を待て。

……カッコいい。

そのほかいろいろ面白い。「ジャイキリ」はなるほどこういう展開かという感じ。「太陽の黙示録」もなかなか興味深い展開になってきた。「誰寝」は選挙ネタ。シモヤナギさんが笑えるが、こういうネタはまあどう扱っても普通に面白いな。昨日のスーパージャンプは「王様の仕立て屋」はわりと面白かったが「バーテンダー」が救済されているのに涙を飲んだのだが、モーニングとビックコミックは特段の休載がなく、大体堪能した。

***

人間は情報でない、生きるシステムであり、常に変化するが、言葉は情報であり、不変のもので、人間が情報に向かって疎外されている現象が個性偏重思想なのだ、という『バカの壁』に述べられている養老猛のテーゼは非常にわかりやすく、応用もきくし、納得も行く。

結局今まで一番わかってなかったのは、言葉や情報が普遍のもの、つまりもう変化しないもの、変化しないということはすなわち死んだもの、生命のないものだ、ということだったのだと思う。それが生命力を持つのは、見るほうや読むほうの生命力を喚起することによってであるということ。人間と作品とはそこが根本的に違う。

変化のしないものだからこそ、人は作品を納得の行くまで仕上げなければいけないということだ。井伏鱒二みたいに書きあがった作品を何度も手直しして、全集を編むときに「山椒魚」の最後の場面をカットしたりするのにはたまげたが、(あれは私が中学生の頃だったかな、既に読んでいたから)あれもある意味誠実とはいえるし、迷惑ともいえる。情報のバージョンを増やすことによって情報が曖昧化し、読み取りの手間が増える。しかし、そのように書き換えたということ自体がまた情報でもあるのだから、より豊かにしたという見たかもできるんだよな。バリエーションがたくさんあってバージョンがたくさんあることは「研究者」にとっては面倒な面もあるだろうけど、本当はそういうバージョンがあるということ自体がいろいろなことを意味しているわけで、そこから読み取れるものは多い。

作者の真意に近いものはどれか、というのも実は結構難しい話で、作者の真意だって時によってうつろっていくだろうから。ショーペンハウエルみたいに一つの主著を一生書き直しつづける人だっているのだし、結局「真意を探る」というのもある意味「自分探し」みたいな、青い鳥はここにいました、みたいなものかもしれないと思う。これは実は、骨董の真贋などもそんなものかもしれないと思った。青山二郎が骨董の真贋はそう簡単に決められない、と言っていたことを白洲正子が書いていたが、科学的な意味での真贋は骨董屋の丁稚にでも決められる(らしい)が、それが本当に価値があるかどうかの判断は誰にでも出来ることではない、ということなのだという。作者の真意、と科学的に判定できるものが出てきても、それよりももっと価値のある偽の(真意であるとは判定されなかった、という意味で)文章というのはありえるわけで、そのときにどちらをとるかというのはもう採用者の主体的な判断しかありえないことになる。つまりどちらに意味を見出すか、ということだ。

意味といえば話は変わるが、最近野口裕之の身体教育研究所に行ったり、桜井章一の雀鬼塾にいったりする人が多いのは、それだけ人生に意味を求めている人が現代も多いんだなと思う。昔は宗教だったり、あるいは作家だったりしたのだけど、最近はそういう観念的な、頭で考える系ではなくて、もっと身体性が感じられる方に人生の意味を求めるようになっているのだと思う。伝統的な職人芸に弟子入りする人たちが求めているのも、そういう部分なのではないかなあという気がする。農業に参入する人たちもそういう部分があるのだろう。

情報を求める系の人たちがマネーゲームの方に行き、身体性を求める系の人たちがそういうものを求めてそういうところに出入りするようになるのが、最近の傾向なのではないか。

人生の意味というのは、昔はもっと観念的にとらえられていたと思うけれども、それは逆に、自分の身体というものがしっかりとあったからなのかもしれない。今の人は身体がないのでそれを回復することの彼方に人生の意味を感じているのではないかという気がする。自分が野口整体に行くのもある意味そういうことだろう。

情報を求める系の人たちは、昔は科学のほうに行ったのではないか。それは自らの身体性の感じ取るものを情報に変換する理系の学問が気持ちにフィットしていたからだと思う。今の人たちは身体がないから、情報が情報のみで回転するマネーゲームやITの方がフィットするのだろう。

しかしまあ、私が野口整体に行くのは、人生の意味を感じたいから、というのとは少し違うな。しかし、人が生きるということはどういうことなんだろう、ということがわかる、感じ取れるのではないかとは思う。人が生きるということを常に感じ取れる感性を持つことはおそらく、人生の意味を適切に感じ取るのにプラスになる、あるいは必要不可欠のことではないかと思う。

私はどうしても意識の世界に沈潜してしまいがちで、現実の世界に帰ってくるのが億劫なことが多いのだけど、やはり往復運動が必要なんだと思う。意識の世界にいるのは現実の世界にふたたび出て行くためで、現実の世界にいてさまざまなことに向き合っているうちに意識の世界でまたやるべきことが出てくる、という運動。常に自分の立ち位置はそういう意味で動いていて、固定されていない。情報を発するときには、そういうことをきちんと踏まえて表明して、決して原則に基づくだけの死んだ情報を発しているのではないのだということ、逆に言えば生きた現実から出てくる情報は時により矛盾するものでもあるのだということをはっきりさせておかなければならないと思う。矛盾というよりは変化であり、変化であるというよりは進歩であり、それは生きているということであるということをしっかり示せるような、そういう姿勢を見せなければならないのだと思う。


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