リパッティに驚く/『バカの壁』再読(終):人生の意味

Posted at 09/09/08

銀座に出かけて、山野楽器でアシュケナージのポロネーズ集を買ったのだが、もう一枚を小品集にするかディヌ・リパッティのワルツ集にするか迷ったのだけど、結局リパッティにした。今聞いているのだけど、これが物凄くいい。最近の他の演奏がなんだか小賢しく聞こえる。ホロヴィッツですら。リパッティは33歳で白血病で亡くなったそうだけど。ミスタッチもあるのだけど、そんなこと問題じゃないな。特に作品34-2のゆっくりした演奏。ちょっと度肝を抜かれた。他のアルバムも、できればLPも、聴いてみたいと思う。

ショパン:ワルツ集
リパッティ(ディヌ)
EMIミュージック・ジャパン

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アシュケナージのポロネーズ集は5番がカッコいい。『ピアノの森』では、ソフィ・オルメッソンもパンウェイもこの曲を選ぶ。CDの解説でも最も男性的な傑作、と書いてあるが、とにかくかっこいい。

ショパン:ポロネーズ集
アシュケナージ(ヴラディーミル)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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バカの壁 (新潮新書)
養老 孟司
新潮社

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養老猛『バカの壁』再読。一応これで終わりにしようと思う。

なんだかいろいろまとめにくいのだが、『バカの壁』が立ち現れる原因は、現状に即した常識的な判断よりも思い込みに近い「理論」を疑わないで適用することによって起こる、ということだといっていいと思う。日本はもともと理論よりも「常識」を重視する社会で、思い込み的な理論に走る人たちを苦笑まじりに見つめる文化だったはずなのだが、最近はいろいろなよく考えると偏りのある理論を無意識のうちに刷り込まれてしまっていて、それがおかしいということにさえ気づかない、気づかないのだからその壁は越えられない、と言うことになっているといっていいのだと思う。

その典型的な例として上げられているのが「個性尊重」の理論で、「個性が大事だ」と思い込まされることによって起こっている弊害について3章で書いているのだけど、4章ではそれが起こる原因について、本来「人間は変化するが情報は変化しない」のに、それが逆になって、人間が「変化しない個性を持っている」と思い込んでしまっているためだ、と説明している。

言葉は意識が共通化や自己同一化をするための現われで、言葉には違うものを同じものと見做す統合機能がある、という指摘はなるほどと思う。つまり意識は、違うものを見て同じものと見做す働きを持っているということだ。これは人間が世界を認識する上でとても重要なことだろう。「同一視」と、それに類した関係性の近さ・遠さを認識する力は、世界をまとまりのあるものとしてとらえる上で非常に重要なものだと思う。そしてそれは言語によって表現することが出来る。言語によって初めて世界は立体的に認識できるといってもいいのだろう。このあたり、KJ法の考え方の根底にあるものが上手く理論的にも説明されているように思った。

また神というものが、そのようにして発達した意識というシステムが、動物だったら入力と出力がほぼ直結しているところを認識から複雑な過程を通って行動に結びつくようになった人間の、その巨大化した処理装置の中で自給自足的な入力と出力の繰り返しの中で生まれて来たものだという指摘も納得できるものがある。

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養老は、『バカの壁』の出現理由について、一神教的なものの考え方に原因の一端がある、と指摘している。一神教と多神教、西欧と日本、という対比は昔からよく読んできたテーマだが、そんなに明確ではないが日本が最近陥っている問題と一神教の問題とが深く関係があるのだ、という指摘を読んだのは初めてではないかと思う。

確かにいつのころからか、日本は変わった、という感じはする。私は本の虫で、だからどちらかというと現実の日本よりも本の中の多神教的な日本の方ばかり見ていて、現実がそうでないことになかなか気づかなかったんだろうなとは思うけれども。教育現場に感じた違和感も、学問の現場に感じた違和感も、基本的にはそういうことだったのだろうと思う。

学問の世界で、といっても歴史学の世界での話しだが、論理実証主義が金科玉条になっているけれども、考えてみれば論理実証主義を実践したくて歴史学をやりたい、という人は基本的にはいないだろうなと思う。やはり、古文書や歴史書に出てくるさまざまな情報が好きだとか、(系図マニアとか、世の中にはいろいろいる。そういうものは私も好きなので、この感覚は私は理解できる)古文書の中に生きた人間が感じられてリアリティがもてて楽しいとか、現代のめんどくさい社会と違って昔の今から見たら面白い時代がわかって楽しいとか、まあそういう純粋に興味の問題で入ってくる人が多い。

しかし一方で、論争好きの人の中には、自分の持っている社会観・政治観・歴史観を古文書などを小道具に用いて正当化しようという人たちもまた多い。特に日本史には日本がいかにたいしたことない国だったか、みたいなことを証明したがる人たちがたくさんいる。逆に、日本がいかにたいした国だったかということを証明したがる人たちももちろんたくさんいるのだが、前者の方が勢いが強い気がする。こういう人たちは、結局、論理実証主義というルールに基づいて自分たち同士のケンカをしているに過ぎないので、論理実証主義というルールそのものがおかしいのではないか、ということにまで踏み込む人はほとんどいないし、ポパーがどういおうとそこに踏み込んで議論しようというのは今のところ読んだことがない。

歴史学は科学である必要はない、というのは私の基本的なスタンスなのだけど、それはもちろん歴史というものにたいする日本人の伝統的なとらえ方に一定の敬意を払うべきだという私のスタンスから出ていることなので、それを否定しようという人はますます科学という方面に傾斜していくことになるだろう。いつか、ポパーの理論をちゃんと検討して、歴史学の科学性に関する論文にトライして見るのも面白いかなとは思うのだけど、ずっと面白がれるかどうかはよくわからない。

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学問に王道なし、というが、これは学問に楽な道はない、ということで、しかし学問を身につけるための基本的な道みたいなものはないことはない。一番古い道は、つまり先生につくということだ。つかなければ独学ということになるが、それは古来なかなか厳しい。しかし先生につくとその分独創性が損なわれる、ということも言われたりはする。自由にできない、ということだ。最近は昔に比べ、一般に師弟関係は薄くなっているわけだが、逆に『知の技法』などのマニュアル本が売れるようになって来た。つまり、先生からの学問に対する精神は学ばず、技術だけを身につけようということなのだろう。

私自身が就職してから大学院に行こうと思ったのは、やはり歴史学における方法論、スキルを身につけたいというのが動機だった。自分には学問をするための基本的な何かが欠けていると思っていたし、それは主に技術だと思っていたからだ。実際に大学院に行って見ると、自分に一番欠けていたのは勉強量だった。平凡なことなのだが、もう取り返すのは不可能なことでもあった。修士論文はほとんど寝ないで(働きながら)書いたが、それでも自分で十分に満足の行くものではないし、指導教官の大量の朱が入って初めて何とか形になったようなもので、20代の体力のあったときに集中的に勉強しなかったつけはもうなんとしても払えないということを、最終的には認めざるを得なかった。それでも自分がそれに取り組むことで尽きない喜びを感じられればそんなことは問題ではなかったのかもしれないのだが、やはりどこかに違和感を抱えてやっていたのでそれが体力切れの原因でもあったのだろう。

やはりどこか、私自身も学問というのは技術だ、と思っていた面があり、それはどうにも考え違いだったということは認めざるを得ない。学問というのは精進なのだ、今更言うまでもないのだけど。だから一生それに精進できる、「人生の意味」をそこに見出せるかどうか、ということなんだろうと思う。

アウシュヴィッツでの収容所体験を書いた『夜と霧』の著者であるフランクルは、「人生の意味」について考え続けたそうなのだが、彼が70年代にウィーンの大学にいた際、アメリカからの留学生の60%が人生は無意味だと考えていたそうだ。ドイツ系諸国からの学生はそう考えていた人は25%だったそうで、若い麻薬患者の100%が人生は無意味だと考えていたそうだ。のりピーはどうなのだろうか。

人生をマニュアルで乗り切ろう、という考え方の裏には、人生が意味あるものだという思想があるようには思いにくい。生きてるから仕方ないからせいぜい要領よく生きたもんがちだ、という考え方だろう。楽しければいい、楽ならなばいい、ということかもしれない。

そういう考え方には、やはり危険なものを感じる。自分の人生に意味を見出せなければ、他人の人生にも意味を見出せないだろう。人を簡単に陥れたり、傷つけたりしても痛痒を感じないような気がする。

私自身、人生の意味をよく理解しているとはいえないところがあるが、しかし人生が意味のあるものだということ自体は、恐ろしいほど分かっている感じがある。それは、最近の自分の置かれている状況とも関わりがあるのだが。「人生の意味」とは、つまり、人はひとりで生きているのではない、ということにあるのだと思う。人は仕事をしたりいたわりあったり、あるいは競争したり対立しあったりして、広い意味で助け合わなければ生きていけないし、人間集団というものも存立していかない。人が生きる意味とは、人間集団を存立させていくという意味だろう。それはたぶん、本能的なもの、自分が生きることそのものに意味があるのと同様、人間集団を存立させることに貢献することが人の生きる意味ということなのだと思う。

生物的な再生産を実現することで、つまり親になることで、個体としての生物の義務を果たしたという安心感が生まれる、のではないかと思う。私は人の親になったことはないのでよくわからないが。それは自分としての、個体としての延長を手に入れることでもあり、種としての延長を手に入れることでもある。

そういう生物学的な次元に留まらず、人間にとって、人間集団を存立させることに生きる意味があるのだと思う。つまり、「人のために働く」「人に何かの影響をあたえる」ということだ。もちろんもっと複雑な意味づけがある場合もあるけれども、究極はそういうことなのだろうと思う。生きているだけで、人に生きる意味を考えさせる存在もある。

フランクル自身も、「他人が人生の意味を考える手伝いをする」ことが彼自身の人生の意味である、と考えたのだという。それはなるほどと思う。彼がアウシュヴィッツの生き残りであると言うことはそういう意味である種の特権を持っているとも言えるが、そうでなくても、人に何かを教えるということは、究極的にはそういうことだと思う。

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私はなんだかものを考えることに熱中してしまってなかなか行動に移さないところがあるのだが、それはどうも前頭葉の働きすぎと言うことではないかと第6章を読んでいて思った。前頭葉は行動に対して抑制的に働き、たとえば「キレる」という現象や、衝動殺人などは前頭葉の働きが不十分な場合に起こるのだという。私は考えすぎて前頭葉が機能不全になることがあるような気がするが、基本的には確かにそうだと思う。逆に、なんにでもすぐやる気が出てしまうのは、扁桃体が活性化しすぎている現象なのだそうで、自分の周りにもそういう人はいないことはないので、それはそれでよく分かる。連続殺人を犯すような人は行動を起こさずにはいられないわけで、でも前頭葉は働いているからちゃんとブレーキも使いつつ破綻しないように殺人を続けるのだそうだ。

要するにそういうことは、社会の問題とか教育の問題という面も簡単に否定はできないが、生理的な側面が強いということだ。これは野口整体の体癖の考え方にもつながっていて、前頭葉働きすぎタイプが上下型、働かないタイプがねじれ型、扁桃体働きすぎタイプが前後型と左右型、はたらかな過ぎタイプが鈍感型いうことになろうか。いやこれだけで上手く整理はつかないが。

こういう脳の働き方についても、きちんと調べるべきだというのが養老の意見で、それは一定その通りだと思う。そういうことをタブー視することで、知見が不足している面は確かにある。

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情報が流転して自己は不変だと錯覚するのは一神教的な誤りなのだろう。日本は昔はそうではなかったが、だんだんそういう傾向が強くなっているのだと思う。

「バカの壁」とはある意味「一神教の壁」だと養老は言う。一神教といえば語弊があるとしたら、「一元論の壁」といってもいい。一元論的原則を立てることによってその原則に反するものはだめ、あうものはいい、という短絡的な思考になってしまい、思考停止状態になる。そのことによって生きた現実を見ることが出来なくなってしまう、のだ、という。

他者の考えを理解する、他人の気持ちがわかるようになる、というのは自分の原則(あるとしたら)のほかに、他人の原則も許容できるようになる、ということでもある。そうなると、二元論になる。もっとたくさんの人のことを考えれば多元論、無限に多元論になる。

しかし、人間であればこうだろう、というのがある、と養老は指摘する。それをすべての人の間で構築していくことが出来るか。それはもちろん動的なものでしかありえない。固定したとたんに一元論になってしまうのだから。

情報は不変、動かないが、さまざま矛盾するものも含めていろいろなものがはいってくるから、人はその中で能動的に「判断」し、「決断」することができる。それはもちろんその判断、その決断としては不変の情報の世界に属するようになるが、判断することそのものは何度でも出来る。それはそれが、生き物の世界に属することだからだ。

試合中に作戦に誤りがあったことに気がついたら、なるべく早くなるべく効果的に修正しなければならない。小さな修正ならその場で出来るが、大きな修正なら全員を呼んで判断の修正を徹底する必要がある。試合はやってみなければわからない。人生は生きてみなければわからない。結婚は経験してみなければわからない。

わたしは18のころ、それに近いことを考えていたことを思い出した。人間は分かり合えるかどうか、ということで友達と議論したときに、究極的には人食い人種とでも分かり合える、と私は言った。今はもちろんそんな簡単に言い切れることではないとは思っているけれども、それをある意味での目標にもつことが、いつかは「人間ならばこうだろう」ということで合意できる、それを目指すことが、人生の意味となるのかもしれない。

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y=axという刺激と反応の式で、係数のaがゼロになったり無限大になったりすることが問題が多いと養老はいう、ということは前にも書いたが、それはパレスチナ側が何を言おうとイスラエル人には何の影響もない(係数0)とか、宗教指導者が言うことを絶対的に受け入れるとか、(係数∞)そういうことは確かに一神教の世界、つまり一元論の世界で起こりやすいと思う。

科学と言う業界が不安なのは、というか科学だけでなくあらゆる業界で、いやそうではない、この現代日本社会でそうなのだが、間違った方向であってもそれが一元論的な原則になってしまったら突き進んでしまう傾向を持っているということだ。昔の日本は、常識的に変だと感じられることはブレーキが働いたと思うのだが、それが利き難くなって来ている。反論の出来ない言説を錦の御旗にすることがいかに危険か。個性の尊重然り。

個性が称賛されるのは一神教的な一元論の世界で、そうでない世界では常識豊かな人が喜ばれるのではないか。常識豊かな人、というのは、いろいろな人にはそれぞれ事情があるということを十分に承知し、またそれぞれの事情をなんとなく推察することが出来て、それぞれの人に役に立つことを一緒に考えてやれて、力になってやることも出来る。訳知りと言うと少しスケールが小さいが、歌舞伎で言う捌き役というか、人情味がありながら果断な決断が出来る、そうした常識の豊かさのようなものを持っている人が一番大人物であるとされるのが伝統的な日本社会だった。

不十分であってもそういう人間性を育てていくことが、現代という時代のいびつさを更新し、乗り越えていくために一番必要なことなんだろう。昔の政治家というのは不十分ながらそういうタイプがたくさんいたが、今は全然見られない。

何か、人間にとって役に立つことをしたい。それは、まさに、人生に具体的な意味を獲得することに他ならないのだと思う。そしてそういう姿勢でいることは、既にもう何かしら意味のあることを実践していることでもあるような気もする。

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「学者はどうしても人間がどこまで物を理解できるかということを追究していく。言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に政治家は、人間はどこまで馬鹿かというのを読みきらないといけない。しかし大体、相手を利口だと思って説教してもだめなのです。どれくらい馬鹿かと言うことがはっきり見えていないと説教、説得は出来ない。」

ということばはそうだなあと思った。説教、ということになると、私も相手と話していて、こんなこと言わなくてもわかっていると思うけどなあ、と思うレベルのことを話しているとちょうどいいことが多い。相手の反応が悪ければ、簡単すぎたと思うよりも、もっと簡単なこと、あるいはもっと基本的なこと、もっと原則的なことが分かっていない、伝わっていないと思ったほうがいい場合が多い。こちらにとっては当然の前提となっていることが、相手が理解していないことは意外と多い。

学者の研究と言うのは確かにどこまで理解できるかと言うことを追究することで、それは意識レベルのことだ。学問というのは万物流転の現実の世界を、いかに情報という変わらないものに変換するかという作業だ、というのはその通りだと思う。最近の研究者の中には情報のレベルのものを弄ぶのは得意でも現実レベルに接するのが不得意な人が多い、それは自然に、現実レベルに接することが足りない、それを愛することが足りないからだ、という指摘はそのとおりだし、耳が痛い部分もある。まあその結果理解するのは意識の力で、まあ言えば理解したら終わりなのだから、そういうものを使って人がどのような欲望を働かせるかと言うことにはあまり敏感ではないと言うのも事実だ。

説教する側が相手の現実を把握していないと相手に伝わらないのであるけれども、物を教える側、あるいは説教をする側は、相手の「自然」の部分が十分に分かっていないことがほとんどで、それは説教する側がある種の禁欲を自分に課してしまっているので、それを禁欲していない相手にはなかなか同じレベルでは話が伝わらないということもあるのだと思う。

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この本の内容、何とかまとめようと思って書いてきたが、やはりなかなか一筋縄ではいかない。まあ最初に書いたように問題提起自体がテーマなので、それをどのように受け止め、どのように考えようとしたのか、その足掻きみたいなものを書いたのは、それはそれなりに意味があると思うけれども、まあ何だかあんまり読んで面白かったりよくわかったりする文章には出来なかったなあと思う。今のところ、残念ながらこの本に対する理解度はここまでだということなんだなと思う。

前にこの本を買ったときにどんなことを書いたのか昔の文章を検索してみたが、買ったということは書いてあったけどその中身については全然書いてなかった。そのときは本当にピンと来なかったんだなあと思う。それに比べれば多少はましにはなったと思うけれども。実際この本、なんか大事なことが書いてあるという「感じ」は前からあったのだが何が書いてあるのかなかなか読み取れない、という感じがあった。もともと語り下ろしの形式なので話が前後したり挿入されたりしていて「まとめる」ということ自体が難しい部分もある。結局はある種の思想書なので、この本をまとめようとすることは、「『意志と表象としての世界』を読む」みたいな本を一冊書くのと同じようなものかもしれない。

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