養老猛『バカの壁』を読み直す
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バカの壁 (新潮新書)養老 孟司新潮社このアイテムの詳細を見る |
昨日。ふと目についた養老猛『バカの壁』(新潮新書、2003)を読み直す。この本は出たときに読んだのだが、言ってることは面白いような気がしたのだけどどうもなんだかぴんと来なくて、気になるまま放置していたのだが、昨日ふと読み直してみて実はかなり自分にとっていろいろな意味で重要なことが書いてある本だということがだんだんわかってきた。
本質的な部分で私は勘違いしていたのだが、この本は何か面白いことが書いてある雑学の本なのではなく、現代の日本社会におけるいくつかの根本的な問題点を指摘している、問題提起の本なのだ。問題といっても一つではないから、問題群の提起、といった方がいい。その提起された問題に対する著者の答えはそう明確に書いているわけではない。たとえば、養老は二酸化炭素が地球温暖化の原因だとする現在有力な説に疑問を呈している、というか否定的な見解をいろいろなところで示しているけれども、この本では二酸化炭素原因説が一つの説であるということを明確にしようとしている。この考えが「事実」ではなく「説」だということをはっきりさせないと危ないというのは、これが「事実」だと考えてしまったらほかに原因があるのではないかということを考えなくなるし、もしこの説が間違っていたことが判明した場合に国の政策として整合性に問題が出てくる、ということだ。そういうところで思考停止に陥ってしまうこと、そういう思考停止の原因になることはいくつかあるわけだが、そうした思考停止が立ち上がってしまうことを「バカの壁」と表現しているわけだ。
養老はいろいろな思考停止の実例について述べているのだが、その中には私が感覚的にはおかしいなと思いながら思考ではあまり詰めてなかったことがいくつもあり、読みながら私は自分が思考に対する姿勢が甘いところがあるということに気づかずにはいられなかった。
私は、思考と感覚(あるいは感性)では感性の方が信じられる、あるいは信じるべきだ、というテーゼをもっている(ということはこのテーゼが自分にとって人工的な側面があるということでもあるのだが)。そのこと自体が悪いわけではないのだが、ものごとに違和感を持ったときに感覚的な納得の行かなさで止まってしまって、それを思考によって詰めていくということを怠る、むしろ積極的に詰めないようにするところがある。感覚を優先するために、思考で違う結論が出てしまうことを無意識のうちに避けているのだ。
しかし実は、そうしていたために、そういうところが自分を曖昧にしてしまう、見えない壁、見えない国境のようなものを作ってしまっていたのではないかと読みながら思った。つまり本来なら、思考と感性の結論が一致するまで詰めるべきところを、いくら思考しても感性の結論に近づかないために、(感性とか直感とかが結論を変えることはあまりない、というかそれが変わってしまったらまずい、しかしそれが揺らぐことが多いことが自分の自我の危うさに繋がっているということもあるので)思考の方を放棄することがままあった。自分は本当は思考型の人間だということはよくわかっているので、違和感と思考の結論が相違してしまった場合、非常に苦しむことになり、苦し紛れにどちらかを選択して失敗してしまったことがかなりあるからだ。
しかし、感性・感覚を重視することと、思考をとことん推し進めるということは本来別のもので、両立するはずなのだから、焦って結論を急がない方がいいことは確かなのだが、納得するまで考えた方が得るものが多いということを改めて考えさせられた。(そのためには上手に心の中で棚上げしたりペンディングしたりする技術が必要なわけで、それは若い頃に比べればだいぶできるようになってはいるが、なかなかうまく行かないことは今でもよくある)
しかし養老が提起しているそれらの問題はかなり根本的なもので、私もちょっとびっくりするくらい大きな問題に行き当たって戸惑っている面もある。
私は基本的に、科学でも何でも無前提にすべてを信用してしまうようなものは信じられない。宗教ならば、信仰優先だからそういうふうに考えるんだね、と人の信仰を許容することはできる。しかし自分がその信仰を受け入れることは出来ない。神の存在を実感として感じたことが自分にはないからだ。神社などで、「何か居る」ということを感じることはあるけれども、たとえば造物主のような抽象的なものになると実感が湧かない。神社だって何がいるのかまではわからないが、何かいる感じのものが神様と呼ばれているんだろうというふうに自分では納得している。
素朴な違和感を思考で何とかするということは、それでも以前はやっていた。しかしそれには膨大な努力がいるということもよくわかった。中学生頃から違和感を持っていた「民主主義」の「正しさ」というものについての考えが自分なりに結論が出たのは、つまり民主主義というのは一つの考え方に過ぎず、それをたまたま多くの国で採用し、比較的上手くいっている、ということに過ぎない、と考えるようになったのは、もう40前になってからだった。
今現在私が違和感を持っているものには、科学絶対主義のようなものや、環境問題に対する人びとの姿勢などがある。上の二酸化炭素の例で改めて思ったが、私が環境問題というものに違和感がある理由は、よくわからないのに地球の終わりのように大げさに騒ぎすぎるというところがある。理由が納得できないのに騒いでいるというのは大体よからぬことがあるからで、なるべくそういうものに関わりたくないという感じがするからだ。
本当はきちんと勉強すればいいのだが、「よくわかる環境問題」的な本というのは主流派的な立場から啓蒙的に説明しているだけで、「環境問題への違和感」という素朴な疑問というものに答えるものはまずない。つまり、人々は環境問題についての知識を得ようと思ってそういう本を読むのであるし、書く側も知識を与えようと思って書くわけだから、そういう違和感を解決しよう、自分の違和感を上手く代弁してくれるものを読みたい、と思ってもそんなものがあるわけはないわけだ。だから当然、それなりに本気で勉強しなければそういうことはよくわからないのだが、正直言ってそんなことを勉強している暇はない。だから違和感だけ持ってることになって、それはそれで面倒なわけだ。
この本で、そう言う問題が解決されているわけではないが、違和感を持つのはなぜなのかということはある程度見当がついてきた。そういう意味で、「それに違和感を持つことは正しい」ということが肯定されるだけでもずいぶん楽になる面があった。
私が科学というものに対して違和感を持つのはどういうところなのか、ということの一つの理由がこれだろうと思ったのは、カール・ポパーの言説を引用している部分だ。ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べているという。このことは以前も読んだことがあったが、読み飛ばしていてこのことについてあまり深く考えてはいなかった。しかしこれはかなり本質的に重要なことで、科学的といわれているものの中にはかなり反証されえないものが実際には含まれている。たとえば進化における自然選択説は、反証しようとして例をあげることは出来ない。そういう時間の経過の中で実際に起こってしまったことをあと付けで理論付けているものの多くは、そういう反証可能性がないものが往々にしてある。
ネットで少し調べたところによると、ポパーは精神分析やマルクス主義、論理実証主義などを批判している。私は精神分析やマルクス主義は科学というよりは文学的なものだと思う。別に科学でないからだめだとは思わないが、科学を標榜するから科学的でなくなり、教条主義に陥るわけで、一つの思想としてワンノブゼムとしてこういう考え方もある、こういうふうに考えて治療すればうまく行くこともある、というくらいのものと見ればいいのだと思う。しかし当人たちにとっては科学という金看板を失うと商売に差し支えるという面はあるのだろうし、影響力も圧倒的に失われるから、逆に批判に対してはたいへん攻撃的になり、どうも辟易してしまう。
しかし論理実証主義を科学的でないと切って捨てられたのはあれれという感じだ。というか、実は私は本当はそう思っていた、いやそう感じていた、のだと思う。私は歴史学を科学と考えるのはどうも以前から納得がいかなかった。歴史学でなされるさまざまな言説も、最近とみに納得の行かないものが多くなっている。科学や論理を振り回せば振り回すほど、その学者のいうことを受け入れられなく感じるようになってきて、それで歴史学をやるのが辛くなってきたという面があるのだと思った。
別に歴史が科学である必要はないと私は思う。もし科学であろうとするならば、言説はすべて、「…である蓋然性が高い」というふうにしかいえないはずだ。しかし、聖徳太子がいたとかいなかったとか、どちらもそれを科学的な言説と考えれば馬鹿げている議論だし、科学でなく人文学と見れば文献に書いてあるものをみだりに否定する情熱はそれはそれとしてそうですかというだけで済ませればいいけれども、正しいとか正しくないとか判定すること自体に違和感がある。
真理は多数決で決まるはずはないのだが、(これも養老の本で書いてあって大いに意を強くした)しかし現実問題として、学界において「何が正しいか」は多数決というか主流派の意見で決まっていく。以前も書いたが、日本の歴史学界では京大系の歴史学と東大系の歴史学があり、京大系が公家や朝廷の役割を重視する傾向が強く、東大系が武家の役割を重視する傾向が強い。それぞれの傾向に反する説を出すと就職に差し支えたりするわけで、こんなものを科学といってもらっては科学の名が泣くというものだ。人文学ならいくら説があったって構わないのだから、歴史は人文学であるべきなのだ。
「私自身は、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰だと思っています。」と養老は書いていて、それは私はとても納得できるのだが、歴史学ではそうはいかない。論文を書けば一つ一つ事実を認定していかなければならないわけで、実は結構そういうことが苦痛だったんだなと思った。論理実証主義というもについて、私は正直言って深く考えないようにしていた。というのは、それを疑ってしまえば歴史学の科学としての成立根拠を疑うことになってしまうからで、無意識にそれを避けていたのだと思う。
だから、それを考えざるをえないという事態に直面して私はやはり戸惑いを感じている。科学を振り回す歴史学者に反感は感じても、それに比べれば遥かに私にとっての問題が大きいからだ。
しかしここで少しひるんでしまうこういう思いの中にも、何か自分にとって大切なものがある気がする。よく考えてみたいと思う。
***
第二章では脳内の入出力ということについて言っている。xという刺激が与えられたらaという係数がかかって、yという反応がなされる、と脳の機能を単純化して示し、脳の役割は y=ax という一次方程式であらわされる、という言い方は面白いと思った。問題はこの a の値であって、これが a=0 であれば反応はゼロになる。つまり、刺激が与えられても反応が起こらない。たとえば、インフルエンザが流行っているから手を洗え、うがいをしろといってもそういうことに対して何のリアリティもなければうるさい人がいるときはやってもいなければ何もしないだろう。逆に、a=∞であれば、どんな刺激でも無批判に過剰な反応をすることになる。これは原理主義だ、と養老はいう。あるいはカルトもそうだ。
ではこのaという係数は一体なにか、と言うと、ここから先はそれを読んで私が考えたことだが、つまりはそのことについてその人が持っているリアリティ、ということになるのだと思う。リアリティというものは、広い意味での学習をすることによってしか身につかない。マッチで火傷をしたことがある子は火の怖さにリアリティを持つが、ない子に理解させるのは難しい。学習というものの本質的な意味は、いろいろなことに対するより多くのリアリティを持つということで、違う言い方をすれば「人の気持ちがわかる」ことだろう。教養ということの本当の意味はそういうことで、ひとの事情により深い理解を持てる人のことを、私たちは「教養のある人」と感じるのだと思う。それはさまざまな直接体験だけでなく、人の話を聞いたり、あるいは文学を読むことによって理解し、一定のリアリティを獲得してた人こそが常識があり、教養がある人であると考えられる。文学の存在することの社会的意味というのは、そういうことにあるのではないか。
養老がいっていることは、この係数が0だったり無限大だったりすると、そこに「バカの壁」が立ち現れるということだ。係数はプラスでもマイナスでもいい。しかしゼロだったり無限大だったりすると、思考停止が起こる。無関心や行き違い、原理主義的な過剰さがなぜ起こるかという説明としては面白いと思うが、その係数をリアリティととらえるとより思索が進むように思う。
***
第三章「個性を伸ばせ」という欺瞞。個性ということについての養老の主張はかなり面白いのだが、いろいろ書いてみたがどうも自分の中で個性に対する考え方が上手くまとまっていない。養老の言うポイントだけ自分なりにまとめると、個性とはいいものとは限らない(石川五右衛門のように泥棒が上手いとか、ゴルゴ13のように殺人がうまいという個性もある・これは私が噛み砕いてみた例だが)のに、そういうものは思考の埒外に置いて「求められる個性」のみを伸ばせというのは欺瞞だ、ということだと思う。教育現場にいれば、底辺校に行けば特にどうにもならない個性的な生徒がごろごろいる。そういう面を見ずに個性を尊重しろというのは思考停止もはなはだしく、またそういう言説によって存分にそういう個性を伸ばしてくれる生徒も多いわけで、全く迷惑な話である。
個性を尊重するということは、独創的な問題解決が出来る力を尊重するということだと言い換えてもいいだろうけど、アメリカならいざ知らず、日本の教育現場でそんなことが出来ることはほとんどない。トップ校において独創的な数学の解法を編み出す生徒はいるかもしれないが、学校教育の範囲内でそんなに独創的なことを出来る力のある生徒自体がまずあんまりいないし、それに対応できる教育態勢を取れるところも限られている。これはいわば「憧れ」を述べているのであって、ほとんどの生徒にとっては「個性」は発揮しようにも発揮できないものであり、そうした言説が繰り返されればされるほどフラストレーションはたまるし、自分の力についてのリアリティをもてないままその言説に惑わされると地に足のついた自己探求が出来なくなるし、また「個性を発揮する」ということに絶望した人の中には「個性はないけどいわれたことはちゃんとできるぞ」というマニュアル人間となることで代償を求めようとする人もでてくる、と養老は言う。
人間はみな異なる身体性を持って生まれてくるわけだから、人はみなすべてもともと個性的だと養老はいうが、そこまで広げて個性を考えれば、学校教育の範囲内におさまる人などほとんどいるまい。
養老は、そういう状態の中で個性をいうことはむしろ弊害の方が多いと言いたいのだと思うし、教育はむしろ共通了解を増やすこと、人の気持ちが理解できるようになること、私の言い方でいえばより多くのリアリティを獲得することを目指させた方がよりまともなのではないかと言っている。それは全くそうだ。
私の教員経験から言っても、もともと個性的なものを多く持っている生徒の個性を伸ばしてやることは、確かに楽しいことだ。そういうものを自覚していない生徒にそういう自覚を持たせ、伸びていくのを見るのは私は教育者の醍醐味だと思う。しかしそれは教育者の個性と生徒の個性が合致した幸福な例外であって、その例外を原則にすることは事実上不可能だと思う。その不可能を原則と錯覚させているところに、個性尊重の欺瞞性があるのと言ってよいのだろうと思う。
幸福な例外を原則にするという幻想によって思考停止に陥ることもまたバカの壁で、教育にはそういう幻想を商売にする(出世の道具にするとか自己満足の道具にするとかいう意味で)輩が巣食っていることはもっと広く認識されるべきだと現場経験者としては思う。幸福な例外は個人教授でなら出来るけれども、学校教育ですべての生徒を対象にすることは不可能だ。
続く(多分)。
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