磯崎憲一郎『終の住処』読了。これははじめてわれわれの世代の感覚を描いた作品ではないか。面白さのあまりつい選考委員の論評までしてしまった。
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文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
磯崎憲一郎「終の住処」(『文藝春秋』2009年9月号)読了。面白かった。冒頭を読み始めたときは「この小説最後まで読めるのかな」と心配しながら読んでいたのだが、最初の新婚一日目のエピソードまで読み終わったところで芥川賞の選評を読み、また6ページにわたる作者インタビューを読んでからふたたび読み始めたら、この作品のつぼというか面白さが見えてきて、そのあとはほぼ一気に最後まで読んだ。作者は1965年生まれ、私より三歳下で、ほぼ同世代と言っていい。この作品は、私たちの同世代の男であれば、かなり多くの人がその面白さを充分に感じ取ってくれるものだと思う。今までなかった「われわれの世代の小説」がついに現れたという感じだ。しかし40代になって初めて「われわれの世代の小説」が現れるというのも、われわれの世代の晩熟性が現れているなあと思う。
「われわれの世代」は、80年代から90年代にかけての「終わりなき日常」の時代を生きてきた。主人公の11年間の女遍歴、妻と口をきかなかったというか妻が口をきいてくれなかった11年間のだめだめぶりが、まさに「終わりなき日常」ってこういうものだったよなと思わせる。小林よしのりは「終わりなき日常などない」、つまり日常というものは幻想だ、と言って宮台真治を批判したが、宮台の言っていることはテーゼとしてそういうことを言っているというよりは、その日常というものを愛する方法としてそういう言葉を考え出したんじゃないかなと思った。
とにかく毎日生きているんだが、どうもなんだかしっくりこない。30歳を過ぎてから付き合い始めるということは結婚を意識せざるを得ない、という理由で結婚生活という日常に入ってしまった主人公は日常がどういうものかつかめずまごまごしてしまう。「妻の機嫌には何か周期的な法則があるのではないかと考えた。」という文には笑ってしまうが、それを読んで頷かない男は少ないだろう。「別に今に限って怒っているわけではない」という妻の反応もコワイが、それもわかる、という感じだ。「目的地に向かって歩いているつもりが、知らず知らずのうちに道のりそれ自体が目的地とすり替わってしまう」というのはまさに結婚そのものの謂だろう。しかし結婚したことで彼は変化し、仕事で信頼を得ると同時に女性にももて始める。「くだらない女」とつきあい、「理想の女」と付き合い、「生物の教師」と付き合い。このあたり何というかほとんどギャグだ。
そしてこのギャグがいとおしい。作中に出てくる主人公の思考はほとんどギャグなのだが、これがすべてそうそうわかるわかるという感じの、でもそりゃダメだよな、という感じの思考で、実にいとおしい。起こる事ごともコメディというかペーソスというか奇妙なおかしさがあり、選考委員が使っている「歪んでいる」という言葉よりは、こんなことが起こったらおかしいなというようなことだ。
描写の一つ一つがそのままこの小説のボディを構成していくという感じがこれほどはっきりしている小説はなかなかなく、保坂和志の理論がそのまま実行されているような感じだ。磯崎が保坂を読んでいるかどうかはわからないし、保坂はもっと日常に寄り添った書きぶりだが、磯崎は本当に書きたいことは日常ではなく、それはもっと後になって明らかにされる。
不倫に行き詰まって離婚するしかないと思いそれを母に告白すると(それ自体変なおかしさがあるが)「その女の子が太っているということだけは、完全にあなたの思い違いなのだと思うわ」という返事が返ってきて、「何いっとんねん」と突っ込みたくなる。そしていきなり妻に妊娠を告白され、軌道修正される。この軌道修正が自動的に行われる感じを、「周囲の誰もが知っているある重要な事実が彼にだけは知らされていないような…そんな孤独な思い」を持つ。この感じは私もよくわかるのだが、私はこの軌道修正から強引に逃れようとしてそれは成し遂げたのだがそのあと全然そういう軌道修正がかからなくなってしまった。それはそれで困るのだが、自分だけが気づいていない世界の秘密、というものは実感としてよくわかる。
子どもの世話に疲れた場面からいきなりプラザ合意の話が始まるそのいきなりさ。このあたりのいきなり感覚というのも同世代の笑いの感覚で、そう言う感覚がこの小説には随所にある。「結婚して、新居を構えてからの六年間というもの毎日、妻は遠くにこの観覧車が見えることだけを支えに生活してきた、いつも妻が見ていた遠くの一点とは、まさしくこの観覧車に他ならないのではないか!」という妄想がおかしすぎる。考えあぐねているうちにあらぬところに変な答えらしきものを見つけてしまうあの感覚。その突拍子もない考えに一瞬取り付かれてしまうが、よく考えてみるとそんなことは全然ない。そういうことが私にもしょっちゅうあったので、この妄想の突飛さは本当におかしい。「次に妻が彼と話したのは、それから十一年後だった。」というくだりは作者の友人に実際に起こったことらしいのだが、しかしこの極端さが、小説というものが表現しうるわれわれの世代のおかしさの感覚なんだと思った。
観覧車に妻の秘密があるという考えに取り付かれた彼は観覧車の歴史を調べる。こういうずれたことをしてしまう中年男の悲しみというかおかしみは、何と言うか私自身のずれ具合に似ている。そういうことがどうして起こるのかというと、仕事とか職場とかに適応してしまうことで、世の中の「本当の流れ」から置いていかれる、疎外されてしまうということが往々にして起こるということではないかと思った。今のりピー騒動とかが起こって思うのは、私は酒井法子という人をほとんど知らない、ということで、ちょうど芝居に没頭し、また就職してからは仕事が大変で忙しかったあの頃、そう言うものに全然関心がもてなくて、今そういうものを見せられても全然実感がわかない、ということだ。世の中のおじさんが世の中のことにずれているのは世の中でなく自分の仕事に没頭していたからなんだということがよくわかる。
一方で観覧車の歴史の話は面白く、若い頃は自分にとって価値のあることがすごくはっきりしていたなあとしみじみ思った。こういう面白さは自分にとってすごく価値のあることだった。村上龍はたぶんこういう部分を批判している。というか村上はこういうのが嫌いなんだな。「受賞作となった『終の住処』には感情移入できなかった。現代を知的に象徴しているように見えるが、作者の意図や計算が透けて見えて、私はいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった、今となってはジョークとしか思えない死語である。」という言い方をしているが、村上龍もここまで言うと返って滑稽な感じがする。私は作者の意図はそういうところにはないと思う。むしろそれは意匠に過ぎない。それもこだわりのある意匠ではないだろう。もっと生理的に、自分に染み付いたものを書いているに過ぎないのではないかと思う。村上はそれを剥ぎ取りたいと思っている、というか村上自身にもそういうペダンチックとかハイブロウとかいった免があるからこそそういうことを言ってるんだなとも思うし、なんだか大人のいうことじゃないなという気もする。
そして主人公は唐突に家を建てることを決心し、妻と娘に宣言する。ここで彼の「日常」は唐突に終わり、ここから彼の「人生」が始まる。日常にグルはいらないが、人生にはグルが必要だ。最近はそういうプチ・グルが満ち溢れているが、作者にとってのグルは三井物産の社長だった。だからよかったので、麻原将校だったら大変だった。作中でのグルは背の高い年老いた建築家で、通し柱に使うヒバ材が見つからないから気長に待つ、というような発言にどんどん信頼が増していく。グルってそういうものだなと思う。家を建てた主人公は最後に社運を賭けた競合他社との交渉のためにアメリカに出かけ、人生を賭けた勝負に買って帰ってくる。と思ったら、娘はすでに巣立っていて、残されたのは彼の家と彼の妻だけ。つまり「終の住処」、彼の人生そのものだ。
最後がどうもシニカル過ぎる、この小説はもっとコメディに徹していいのではないかと私は思ったのだが、娘が巣立つことについては作者はインタビューの中で子どもは勝手にいなくなってしまうもの、という感慨が語られていてそれはそれで納得できた。しかしいろいろ考えているうちに、これは小説としてのテンションを保つためにわざとシニカルに書いているのだということに気がついた。最後が救済になっていたり、普通にハッピーエンドになってしまってテンションが下がることを避けたのだと。そう考えてみると、書き出しが異様にシニカルな感じで読みにくいのも、そう言うテンションをあげる工夫だったのだと考えれば納得できる。
しかし彼の書きたいのはそういう点ではなく、人生は一個の愛すべき笑劇だ、ということなのだと思う。この書き方には目を開かされる思いがする。基本的にはポジティブなのだ。われわれの世代が人生を前向きに捕らえようとした成功例だと思う。しかし、人生をもっと起伏に富んだわけのわからない面白いものとしてとらえている人、たとえば石原慎太郎などにとってはあまり面白くはないだろうな、とは思った。大体この作品の選評は、選考委員の人生観が反映されているように感じられた。
こういう作品を読むと、つまり自分が本当にいろいろな部分で共感できる作品に会うと、というか、感動というよりもこれだけ共感した作品は初めてだと思うのだけど、選考委員の選評を論評したくなる。
山田詠美。少し上の世代。彼女の人生観とは全然違うのははっきりしているが、「過去が主人公を終の住処に追い詰めていく」という感覚が面白いと思った。書き手はもっとそのことをポジティブに捕らえていて、でも山田のようにこのことをとらえる人がいることを踏まえた上で、そう言うホラーのような書き方もしてみているのだろう。そういう意味ではそういう人をからかう軽い冗談のようなものなのかもしれない、このちょっとホラー的なテンションは。
小川洋子。全く同世代、でも女性だからちょっと感覚は違うだろうが、「人間の人格など何の役にも立たない」という感覚の指摘は正しいかもしれない。人格の力で何かがどうにかなる、というようなことをわれわれの世代で本気で考えていた人がどのくらいいるか。ただそれでも、最後の社運を賭けた交渉はある意味人格の力で勝利しているのだが、しかし帰って来てみたら娘はいない、みたいな「うまく行かなさ」が面白い。たぶんこの人、もっといろいろなことを感じているのだろうけど、まだ言葉にするのに時間がかかるという感じではないかと思った。
石原慎太郎。未知の戦慄を与えてくれるものがない、と吠えている。相変わらずだ。「結婚という虚構の空しさとアンニュイを書いている」って、それしか読めないんだったらつまらなかっただろうなこの小説を読んでも。
黒井千次。「固くごつごつした物体を積み上げることによって出現した、構築物の如き小説」で、「自分には知らされていないものを探り、手の届かぬものに向けて懸命に手を伸ばしながら時間の層を登って行く主人公の姿が、黒い影を曳いて目に残る」という。うーん。たぶん自分にひきつけて読んでいるんだろうな。この小説の日常の違和感というのは虚構の積み上げによって成立させた虚構の世界なのではなく、本当の日常存在そのものに感じるものをわりと丁寧に描写することによって成立したもっとソフトな世界なんだと思う。作者は車を買う前にドイツ製の100万円のシングルスカルを買ってしまうような人なのだ。
高樹のぶ子。「何十年もの歳月を短篇に押し込み、そのほとんどを説明や記述で書いた。アジアの小説によく見られる傾向だ。日本の短篇はもっと進化しているはず。」という。「小説が書かれる目的は「人間に触れる」ことだと思う。」という高樹の小説観と、この小説は相容れない。それじゃあ小林恭二の「小説伝」や「ゼウスガーデン衰亡史」は全然網にひっかからない。でも小林恭二が落選した当時から、「終の住処」が受賞した今年までの間に、小説を取り巻く状況は確実に変化しているんだろうと思う。「主人公がどんな男かが読後の印象として薄い」と言われても、そういうものを書きたくて書いてる、あるいは読みたくて読んでるんじゃないのに、という気がする。こういうのもありだというのを認めないと話にならない。でもそういう人が選考委員にいるのは、悪いことではないかもしれない。前回の『ポトスライムの舟』はみんな一様に誉めすぎだった。悪いことじゃないけど、際立った新しさがあったわけではないということの証明でもある。
川上弘美。「リアルなことを書いているように見えて、実は魚眼レンズや薄膜や顕微鏡のレンズを通して見ているかのように、文章中に現れるもののほとんどが歪んでいる」という指摘は面白いし、記憶というものの本質をよく言い表しているように思う。たいてい、自分の覚えている記憶というものを正直に話すと、実は結構グロテスクな、いろいろな部分で自分に都合よく(自分を責めるのに都合よく、という場合も含む)改変されていることが多かったりする。この小説の主人公の行動や言動や思考が奇怪だったりするのは、その記憶そのものが持つ性質をあらわしているのではないかと思う。物語を作らず、物語を読みたい人に肩透かしを食らわせているこの作品のとぼけた味わいを、川上は上手く捕らえているが、「「物語」を作り上げるという利便に与しないこの作者が書いた「物語」を、いつか読んでみたいものだと思いました」というのは、「よくわかっているくせに意地悪なことをいうお姉さん」みたいな感じがして味わい深い。この作品と一番面白く戯れたのは彼女なんだろう。
宮本輝。「観念というよりも屁理屈に近い主人公の思考はまことに得手勝手で、鼻持ちならないペダンチストここにあり、といった反発すら感じた」というのは、いやいや全くその通りと笑い出したくなる。いやもうそういうものすら笑いのネタなんですよ、と言うと怒られそうだが、二作三作とこの人が書きつづけて一定の評価を得られるようになってきたらその味わいも広く理解されるようになるんだろうと思う。磯崎憲一郎は根本的にコメディ作家だと思う。
村上龍。前掲のとおり。「芥川賞メッタ斬り」ではないが、新しい作品とは石原慎太郎と宮本輝が眉をひそめる作品、という指摘はそれはそれとして、村上龍が反発する作品、というのも面白い小説の条件なのではないかという気がしなくはない。磯崎も二十代でこういうものを書いたら小説を小ばかにした感じのもっとすごく反発を買うような作品を書いたと思うのだけど、人生を書けるようになってから、つまり大人になってから書いたこの作品は、そう言う変に才気走ったところは最小限になっていて、根本が上質なコメディになっているように思う。コメディというのは人生を知ってはじめてかけるものだよなあと改めて思う。
池澤夏樹。持ち味が一番磯崎に近いのはこの人だと思う。小説の文法という観点から通常の小説との違いを三つ指摘している。「第一に主人公が徹底して受動的であること。第二に、停滞と跳躍を繰り返す時間処理が独特であること。第三には時として非現実的な現象が平然と語られること。」この三つは、自分で書いていても思うが、われわれの世代のコメディの必須の三条件であるような気がする。池澤の「スティルライフ」は初めて読んだとき、自分が20代のときに感じていたことをこんなに上手に書ける人がいるのかと感動したが、われわれの20代はもうずっと遠くに過ぎ去ってしまっていて、今さらその感じ方で何かを書こうと思っても無理、と思ったが、磯崎の文章はこういうのもありだよなあという希望を感じさせる。自分も頑張ってみようと思わされた作品だった。池澤は選考委員の中で一番世界を、世界の文学を見ている人だが、磯崎もまた三井物産の次長として世界を相手にした仕事をしてきた人なのだ。作家という狭いサークルの中にとらわれない、広い世界を書ける人が出てきて、一番うれしく感じたのは池澤かもしれない。
***
『文藝春秋』で読んだけれども、単行本を買ってもいいなと思う。また、2007年に文藝賞を受賞して以来の作品も、読んでみたいと思った。amazonでみる限りでは、受賞作の『肝心の子供』以来、『眼と太陽』『世紀の発見』と三作出して、『終の住処』が4作目ということのようだ。
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from 笑う社会人の生活 at 12/05/19
小説「終の住処」を読みました。 著書は 磯崎 憲一郎 第141回芥川賞受賞作 やはり 純文学は難しいというか 全部 つかみ取れなかった感じがしますね...
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