日常から人生へ:47th birthday

Posted at 09/08/13

1962年8月13日に私は生まれたので、私は今日47歳になったことになる。もう数え切れないくらいの年齢になってきたなという漠然とした感慨がある。節分の豆も、47個食べるのは大変だ。その一つ一つがみんな君の人生だねって言って、というのは伊勢正三だが、人生の重みというのはそんなところに妙に端的に感じるものなんだなと思う。

若いときには人生のことなんか考えていない。考えているのは毎日のことだけで、そう言う意味で日常を生きている。しかし、毎日思いがけないことは起きるし、日常のような気でいても人間は常に非日常に接しながら生きている。その非日常まで含めて全部自分が引き受けるという受けとめ方が出来るようになってはじめて、人は日常でなく人生を生きることになるのだと思う。それが一体いつかは人それぞれだと思うが。

そんなことを考えたのは磯崎憲一郎『終の住処』を読んだからだ。主人公があるとき、「家を建てること」を決意する。家を建てるというのは大きな飛躍なのだ。そしてそれは小説の終わりまで続く、『終の住処』になる。

結婚後、多くの女性と不倫関係に陥っていく主人公は、人生がそういうものだとは思っていない。しかし昨日の続きの今日を生きる、日常を生きているうちによくないことだと思っていながら、そうせずにはいられない毎日から脱け出せない。もちろんそうしている間にも刻々と人生の時間は過ぎている。日常があとまで食い込めば食い込むほど、人生を生きる時間は短くなってしまう。

昔の人は否応なく、たとえば戦争や肉親の死などの非日常に若いうちに出会わざるを得なかった。戦争もなく、寿命も延びた現在は、否応ない非日常に出会う時期はそれだけ遅くなる。寿命ものびたが、30歳成年説が唱えられたり40歳でも女子という主張がなされたりするのは、いつまでたっても人生に出会わない人たちがそれだけ増えたということなのだろうと思う。人生に出会う前に老いに出会ったりすると、それはそれで悲劇的だ。しかしその悲劇も、クローズアップで見れば悲劇だがロングショットで見れば喜劇だ、という手のものだが。そしてそういう悲喜劇は全く他人事ではない。

そういう意味で言うと、日常は観念だが人生は観念ではない。人生を生きるための能力が充分に身につかなくても、日常を生きることはそう難しいことではない。人生は生産と消費がバランスしなければならないが、日常は消費のみでも可能だからだ。そういう意味での日常の中で行われている生産は、本当の意味での創造的な生産ではなく、能力を浪費したりあるいは十分に使わなかったりする消費的なカッコつきの生産であるように思う。人生に踏み込まないと、本当の意味での生産はできない。本当の意味での生産はすべて、人生に関わる、つまり生きることの本質に関わることだからだ。

子どもは日常を生きているが、人生を生きてはいない。だから子どもは楽しい、普通の場合は。子どもが人生を生きなければならないのはあまり望ましくはないと思う。子ども時代に伸ばさなければいけない力が、充分に伸びない可能性がある。私は若い頃よりも子どもの頃の方が人生を生きていた気がする。いろいろなものから解放された青年時代はある意味夢のような日常だった。子ども時代の分まで貪欲に楽しもうとしてしまったために、そのつけが成年時代になって回ってきたのだとも思う。青年時代をなるべく延長できる仕事を選ぼうとして失敗したというのが私の失敗の本質かもしれない。

日常になくてはならないものはそんなにない。交換可能なものが多い。しかし人生にはなくてはならないものがある。交換は不可能だ。それを人生をはじめる前に理解しておかなければならなかった。しかし次のステージに進む前には、次のステージのことは本当にはわからないのだ。

いま自分は、青年時代にやらなければならなかった課題がまだ積み残されていて、それでいてこの年にやらなければならないことももちろんやらなければならない。子ども時代の欠乏のつけが今まで尾を引いているというのもいくらなんでも不器用すぎるのだが。

日常にグル(導師)はいらないが、人生にはグルが、あるいはメンターがいた方が行きやすい、あるいは深く生きられる、というのは確かだろう。世の中にプチグルみたいな人や書籍が溢れているのは、身近にそういう存在がいない人がそれだけ多いということに違いない。私もそういうものを求めているのだなあと自分で感じることは多いのだけど、この人について行こう、と思える人はそうはいない。ある分野についてはいないわけではないのだけど、人生そのものについては。

『終の住処』と作者インタビューを読んでいて、彼(作者あるいは主人公)が持っていて私が持っていないのは、メンターとパートナーだ、と思った。それだけどうしても人との関係性が希薄になってしまっている。

しかしそういう存在があってもなくても、一度人生に踏み出した以上、努力によって自分を磨き、人生を磨き上げていくしかない。具体的には、私の場合は文章を磨き上げていくことなのだと思う。短い時間でも集中して、血も肉もある生きた文章を書く。今のところ、それ以外に現状を打破し、人生のステージを転換させていく手段は思いつかない。

『四十八歳の抵抗』という小説・映画があったが、47歳という年齢をはじめるにあたって、決意のようなものを言うとすれば、こういうことになる、と思った。

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by Luke Peterson

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