テンションが下がらない/ショパンの伝記/ディオニソス的なものが不足していた

Posted at 09/07/28

ここのところずっとテンションが上がっていて、ちょっと意識してテンションを下げて見る。夜ちゃんと寝ないといろいろと不都合が起こってくるので、意識的に呼吸を深くし、頭の中を空っぽにしてものを考えないようにする。

しかしネットを見ているとだめだな。すぐにテンションが上がってくる。実際に何かするにはテンションを上げておく必要はあるのだけど、上がりすぎるとすぐ暴走する。気がつくとどうでもいいこと、しないほうがいいことをしていることが実に多い。

テンションを下げて見ると、上がっているときに何をやっていたのか、何を考えていたのか、上手く思い出せない。と思いながらこのブログを書いてみたが、また上がってしまってもあまりろくに思い出せないので、テンションがあがっているときというのは本当にその刹那刹那で全力で生きてるんだなと思う。

テンションが上がっているときは左足首が疲れ、下がっているときは右足首が疲れるという傾向もあるみたいで、なんかとにかくこういう思い付きを書いておきたい。

昨日のことを思い出しながら書く。朝9時を待って管理事務所に自転車登録に出かけ、郵便局で国保の保険料を支払い。昼過ぎに出かけて、郵便局と銀行を回る。2時ごろになってしまい、蕎麦屋で焼肉定食。電車に乗って日本橋に出る。何か音楽関係の本を買おうと思い、丸善で物色したら、「ショパンの風景」という500円のDVDがあったので買って見る。これは風景のイメージビデオにピアノ協奏曲を流す、という「だけ」のもので、驚いた。これは環境ビデオ以上のものではないなあ。他の作曲家のものも買おうと思ったのだけど、ショパンだけにしてみてよかった。

作曲家 人と作品 ショパン (作曲家・人と作品)
小坂 裕子
音楽之友社

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小坂裕子『ショパン』(音楽之友社・作曲家◎人と作品シリーズ、2004)を買う。今、1930年のワルシャワ蜂起のあたり。ショパンの人間像が少しずつ見えてきて面白い。ショパンの手紙という本があって買うかどうか迷ったが、これも買ってみると面白いのではないかと思った。天賦の才があったのか、ピアノは誰にも習っていないと言うのもすごい。ティトゥスという親友の存在。音楽家の伝記というのは、子供向けの伝記でモーツァルトやシューベルト、ベートーベンなどを読んだのをのぞいて、あえて読んでこなかった面があるが、やはり面白いものだなと思う。特にベートーベン以降、ロマン派の音楽家は伝記的な部分を理解し、その人間性と曲との関係を考えることが、結構重要なんだろうと思った。モーツァルトの伝記を知ってもその曲の理解が深まるとはあまり思えないけれども。現在47/230ページ。

山本山で玉露に和菓子。何度も淹れなおして、カフェイン過剰摂取の感あり。プレッセで夕食の買い物をして、地元の駅で降りるが、雨がぽつぽつ。ダッシュして蔦屋で『ピアノの森』を返却し、帰宅した。

石原慎太郎『私の好きな日本人』読了していた。美術の先生の奥野肇という人。誰にも何にも学んでいないような石原でも、恩師と言えるような人がいたというのはいい話だなと思う。でも基本的にアヴァンギャルドなんだなやはり。伝統芸術というものを根本的に理解できない人なんじゃないかなと最近思う。

ニーチェ『悲劇の誕生』。まだ29~36ページしか読んでないのだが、いろいろなことを考えさせられる。アポロン的夢幻(dream)とディオニソス的陶酔、ないし酩酊(intoxication)。その二つが意志(will)によって合体し、アッティカ演劇(tragedy)が生まれた、ということを説いている。

アポロン的・ディオニソス的というとき、アポロン的というのは明晰で理性的なことを指すと思って、あまりこの概念に興味を持っていなかったのだけど、ニーチェはここまで読んだかぎりではそうではなく、ビジュアルな夢をアポロン的と表現し、ビジュアルでない、より肉体的な陶酔をディオニソス的と表現している、ということを知って非常に納得できるものがあった。芸術というのは確かに、その二つの要素で成っている、というか、芸術的感動というものをそのように区分することは可能だと思う。

音楽は、ディオニソス的なものとして書かれている。美術、特にギリシャでは彫像ということになろうが、それがアポロン的なものだ。

これを読んでいて思ったのは、アートに接するときに自分がアポロン的なものを求める方向に偏りすぎていたのではないかということだ。私はハイになるとなかなか戻って来れないところがあるから、ハイになるのを恐れるというか、日常に帰還するときのギャップをあまり大きくしたくないということを最近は考えすぎている嫌いがある。その点、アポロン的なものならば、あまり尾をひかない。確かに割りと理性で対処できる面がある。

しかし結局、自分に不足していて自分が求めていたのはディオニソス的なものだったんだなと思う。それに目が覚めてしまうきっかけになったのが『ピアノの森』だったのだ。『ピアノの森』はマンガでありながら、音楽への通路を広く開いている。音楽は時間の芸術であり、空間の芸術である美術やマンガとは違う。音楽は芝居やダンスの仲間だ。朗読もそうだろう。音というものは本質的に空間よりも時間に属するものだ。肉体と同じように。

音楽の世界の扉を開けてしまうと、とんでもないことになる気もするのだが、とにかく開けてしまったものはもう閉められない、というか自分がそれを求めているのを感じる以上、放っておくわけには行かないと思う。

ディオニソス的なものを語る語彙というのは多分ずっと使ってないのだけど、mixiで連歌とかしてみると思い出してくるニュアンスがある。

 川底で蠢く小亀の尻尾

 廃坑に懐中電灯ぶら下げて

 汗で張り付くランニングの背

 真っ暗な田んぼの中の一本道

 白糸のエクトプラズムほの光り

 六地蔵みんな一度に振り向いた

 降り注ぐ枝垂れ柳の闇深き

 魑魅魍魎百鬼夜行の夕涼み

 髭三本抜けて天下の秋を知り

 水平線煙たなびき船は行き

 昆布も揺れる北太平洋

 どうせ家には帰らないけど

 ぬきつぬかれつさしつさされつ

 ドリトル先生アフリカへ行く

 朝日を打ち抜くロケット花火

 朝日新聞発行禁止

 紅旗征戎我がことにあらず

 知られざる沼の小道や鱗あり

 竜巻起こしヒラメを降らす

 背中のカレイがお見通しだああ!

 轟音とともに蒼天砕け落つ


・・・何を書いているのかいまいちよくわからないが、こういう語彙の中に生きる部分が、私のたましいの中にはあるんだなと思う。

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