昼に見る夢/違和感の正体
Posted at 09/07/21 PermaLink» Comment(2)» Tweet
日曜日。朝5時前に起きて、5時半から「出払い」。川沿いの三叉路のところに溶岩の押し出してきたあとの「いぼ石」というのがあるのだが、そのあたりが地区の公園になっている部分があり、また家の御稲荷さんの祠などがあって、そのあたりの草刈りを毎年この時期にやっている。地区の不動尊の祭りが土日に行なわれていて、地区の大きな行事の一環ということなのだろう。いぼ石には小さな石仏がたくさん祀られていて、でも江戸時代くらいでそんなに古いものではないと思うのだけど(それでも200年くらいはたってるか)なんとなく歴史を感じさせる一帯ではある。
区長さんに挨拶してどのあたりをやればいいのか聞くと、私の家の祠があるあたりをやってくれればいいということで、実はどれが家の祠なのかよくわからないのだが、そのあたりの草を刈っていた。何しろ30人くらい来ていたのであっという間に草刈りは終わり、それから小公園の草も刈ったが終わったのは6時15分で、もう解散だった。やはり大勢でやるのは効率がいいし、気持ちがいいものだ。何の話をしたわけでもないのだけど。ついでに家の周りの草も刈って見たが、すぐ疲れた。傾斜地の方が草は刈りやすい。平地は疲れる。
家に帰ってひと風呂浴びる。山麓に出かけてから上京するつもりだったが、母が少し具合が悪いということで、湖畔の病院に連れて行く。検査して異常ないということで一安心。家に戻って準備して山麓に出かける。道は土曜日よりずっとすいていた。11時36分茅野発の特急で上京。後の席が外人の若い男の二人連れ。私は弁当を食べたあとは、大体寝ていた感じだった。いや、カントを一応読み終えたのだった。新宿に着くと暑い。丸の内の丸善によって、帰ったのは3時ごろだったか。その後は疲れが出て、マンガを読みながらごろごろしていた。大体『レモンハート』を読んでいた。疲れたときには、こういう薀蓄マンガの、もう何度も読んだような部分を読むのがいいときがある。それから『ランドリオール』の、今まで詳しく描写を見ていなかったウルファネアがらみのところをちょっと読み直して、描写を確認する。夜は出歩く気がせず、ローソンでサラダ巻と枝豆を買って一番絞りで夕食を済ませて早々に寝た。『天地人』は見た。
日曜日。疲れていたせいか、どうもこの世にいない感じがしていたようだ。昨日書いたモーニングページから。
「私の本体はこの世ではなくて、夜の夢の向こうにいるような気がする。だから本当に気をゆるめて眠ったあとには、この世に戻ってくるのに手がかりがいる。目が覚めると誰かいれば、自分の位置が確認できるのだが、そうでなければ本を読んだりマンガを読んだりすることになる。
でもこの世に戻ってくることが本当は苦手だから、私は本当に気をゆるめて深く眠ることが苦手なんだと思う。本当は戻ってきたくないのに、生きているうちは帰らなければならないからだ。
夢から目覚めたときは、すべてのものが等距離だ。過去も現在も等距離だ。だから昔のことをよく思い出す。記憶も現実も同じ意味しか持たないからだ。すべてのものが等距離だから、深さがない。起きたときによいものに触れると、一日がよい方向に深まるから、よいものに触れたいと思う。
よいものに触れる家に住むべきだ。みんな、自分の生き方をサポートしてくれる家に住んでいるのだと思う。目が覚めたときに、自分の好きなものに囲まれていたら、すんなりこの世に戻ってこられるだろう。
目が覚めたときに、この世に戻ってくる取っ掛かりのようなものがあるといい。変な世界、イヤな世界に行ってしまわないように、目覚めて再びこの世に乗り出していくお守りのようなものがあるといい。」
昨日はこんなことを考える状態だった。夢。最近ときどき見る。昔のことが多い。目覚めるころは、上にも書いたけど、昔と今とが区別がつかないときがある。そういうときに昔のことをまざまざと思い出すこともある。また、生きなかった過去、選択しなかった過去について考えているときも多い。
夢を見るというのは現在が満たされていないからだという話があるが、まあそういう面はあるんだろうなと思う。夢はこの世と違う世界との架け橋だから、幻想的なものを描く画家や小説家、詩人などにとっては、夢が大事なものだ。明恵などの宗教家にとっても、夢こそが現実と考える人は多い。自分にとっても夢というのはそういうインスピレーションのみなもとになっている部分はある。
毎日が充実している人は夢をみないのだろうか。そういう人は昼に夢を見ているのではないかと思う。現実に思い描いたことを実現させるのに夢中になっていれば、夢を見る暇はないだろう。思い描いたことをどんどん実現させていけば、それが楽しく夢中になるに違いない。私が思い描くようなことは、そのまますぐ実現するようなことでないことばかりだから、考えているうちに飽きてきたりイヤになったりすることも多い。野口晴哉が「私は夢は昼見るものだと思っていますから夜は見ません」と言っていたが、そういうことなんじゃないかなと思った。夢は昼見たほうが明らかに楽しい。
昨日は、「昼に見る夢」についてなんとなくずっと考えていた。なんとなく横山光輝『三国志』を読み返したくなったが少し読んでみて生臭い権力闘争的な部分が出てくるとすぐイヤになり、『殷周伝説』の方に替えた。こっちの方が単純なストーリーで読んでいて抵抗がない。
夕方になって出かけた。駅前のデイリーで軽く食べた後、神保町に出て本屋を何軒か梯子したが何かまだ現実感が戻らず、本を読む気にもならなくて何も買わなかった。交差点を錦町の方に渡り、小路をぶらぶらと歩いて、大手町に出た。読売新聞や経団連のあたりを写真を撮りながら。日本橋口が見えたときに、新丸ビルに行くことを思いついて、そのあたりで急に現実に戻ってきた。丸の内口のほうに戻り、丸善による。本をつらつら見ながら、最近感じていた違和感の正体が分かった。ここしばらく、アメリカの影響力が急速に伸長しているのだ。
もちろんそれは今に始まったことではない。小泉改革のころにそれが相当強まったことはあるし、その強化は戦後一貫してそうだし、また開国に遡ってさえそれはいえる。そういう長いスパンで行なわれてきていることだから返って見落としがちなのだが、最近のアメリカ化はちょっと異常なくらいだ。
丸善の一階を見るとよくわかるのだが、経営書などはアメリカのものの直輸入ものばかりだし、オバマの演説のDVDだのなんだの、「精神の植民地化」の進展は異常だ。ブッシュ政権のころはそれでもブッシュ自体に対する反発があったから反米的な身構えがあったが、オバマになってからは私自身も含めて武装解除されてしまった面があるように思う。商売の仕方も、ソフトバンクのヤフーBBの売り方みたいなどんどん売って混乱が起こってもあとはおいおい解決していけばいいみたいな大雑把な商売の仕方が特に若手のIT企業家のデフォルトスタンダードになってしまっているとか、理系では英語が既にリンガフランかになっていて、すべて英語で授業をしようと提案されているとか、そういう流れというのは日本人のある種の先端部分がなだれを打ってアメリカンウェイのグローバルスタンダード化に身を投じているということで、かなりヤバイ状態だと思う。
一度も定職についたことがない中年層が増えると言うこともヤバイが、アメリカンウェイに疑問をいだいたことがない人たちが社会の指導層になっていくという新植民地化状態というか、自ら植民地知識人を無意識に希望する人たちが上層社会に支配的になっていくということは、彼らが民主党とか自民党とかの議員になっていくわけで、政治もまたアメリカン化が必然的に進んで行ってしまうということでもある。もう既に、アメリカの大学の学歴とかアメリカ企業での職歴を看板にした議員が選挙公報などを読んでいるとかなり多いことが分かるが、そのことに関してはまだ多くの人が無自覚・無防備なままなのではないかという気がする。
私は一時どちらかというと右よりのことをずっと書いている時期があった。もともと従軍慰安婦問題や教科書問題などで左派に疑問を持つ点はあったのだが、1995年の阪神大震災・オウム真理教事件を通じて社会党や左派に対する信頼性を失い、保守派や自民党、あるいは右翼への関心が深まった。私の場合はもともと歴史教育における左派的な洗脳は弱かった、というか自分で昔の子供向け歴史書をたくさん読んで神話とかもかなり知っていたのでそういうものに対する興味がもともとあったということもあるのだが、政治教育においては右派自民党に対しては否定的な見解で洗脳されていたことは事実だったので、その脱洗脳に90年代後半は費やした感じだ。大学院に行ってフランス革命=民主主義の相対化を自分の中で何とかやって、でも問題は日本なのだと思った。2001年から今年の3月まで日本近代史を教えてかなり頑張って読んだのだが、日本の近代の性格の複雑性はまだとらえきれていないように思う。
その中で起こったのが2001年の911事件と、それに続く2002年9月17日の北朝鮮の拉致事件正式謝罪だ。あれは日本中の世論を喚起し興奮させ、一気に北朝鮮や共産主義を落ちた偶像と化させた。私自身もその当時はそちらの方の考えをだいぶ強く押し出していた。そのころはそういうことを言うのにまだかなり勇気が必要だった。最近、むしろそういうことを低次元な表現で表明するいわゆるネトウヨが増えてきてしまったのだが、基本的には勉強不足だし、そうなってしまうのはなんというか言っていいことと言わない方がいいことの分別をちゃんと考えていない、つまりは教養や自己抑制が不足していることが原因であって、これもまた戦後教育やゆとり教育の弊害の現れであるように思う。過激なことを言えば主導権が取れると思うのはある種の妄想であって、事態が非常に流動化しているとき、つまりフランス革命の激化の時期にモンターニュ(いわゆるジャコバン)派が主導権を握ったような事態は、そう簡単には起こらない。麻生下ろしでも今多くの議員たちは振り上げたこぶしの持って行き所に苦慮しているのが現実だ。日本を大切に思うなら、もっと落ち着いて表面的な議論でなく、主張をより深めて訴えていくべき時期に既になっている。
私はここのところしばらくそういう政治的な主張を封印していたのだけど、それはそういう主張にこだわることで何かを見逃してしまうのではないかという感じがしてきたからだ。特に、左翼はすべて敵だとか、特定の外国を排除しようというような考えを持つのはあまり生産的ではない。もし彼らが本当に敵だったとしても、敵を知らなければ戦いにはならない。日本が「太平洋」戦争に敗れたのはアメリカや中国、あるいはソ連のことを十分に知らなかったことが大きいと思う。戦争の大義の問題はともかく、相手を侮って敗れる愚だけは避けなければならない。
その間も確かに中国共産党政権は暴虐で、チベットや東トルキスタンでの蛮行は世界中に発信された。しかし、経済的な期待を中国が担ってしまっているために、フランスなど一部の国をのぞいて中国に抗議の意思を示した国はない。これは明らかによくない予兆であって、中国問題が今後世界の大きな問題になっていくことは間違いないだろう。中国の世界支配は、アメリカの世界支配のような生ぬるいものではないことは、彼らの内国植民地が今どうなっているかを考えれば一目瞭然だ。彼らはまだアメリカで言えば西部劇の時代なのかもしれない。これから棍棒外交を始めようというところだろう。
日本はだから、軍事的に相当な覚悟が必要になる時期が来る可能性がある。今はまだアメリカの核の傘に守られている状態ではあるが、アメリカの相対的退潮に伴って、中国が東アジアでのプレゼンスをより高めていく可能性は強いから、『アメリカ頼み』でこの先もずっといけると思わないほうがいい。もちろん生の形で中国と戦争になることは避けたほうがいいが、彼らはいざとなったら戦争も辞さないだろう。そのときに日本がどういう迎撃体制を取れるか。アメリカがいるから強気でいられる、という状態をいつまでも期待しない方がいいと思う。
まあそれはともかく、そういう事態を考えても、アメリカに精神的・文化的に一辺倒になってしまっている今の状態はかなりよくないと思う。問題は文化的なことなのだと思う。軍事的なことに関しては日露戦争や大東亜戦争に関してそれなりに読んでは見たけれども、どうもあまりよくわからない。軍事的なことはいまのところセンスがあるとはいえない。しかし軍事にしろ政治にしろ外交にしろいったい何を守るのか、ということが重要だ。生命財産を守る、というのはその通りにしても、実際現在の時代、言葉さえ出来れば日本以外でも生きていくことの出来る人々は多いわけで、生命財産さえ守られれば日本がどこかの国に支配されてもいいのかといえば、やはりそうではないだろう。
結局守らなければならないのは、日本語や生活習慣や伝統や歴史、あるいは皇室や宗教、考え方を含めた文化全体ではないかと思う。日本人自身によってそれらのものが傷つけられ、また貶められている現実は憂うべきだと思うが、日本人自身がそれを変えていくのと外国によって無理やり変えられるのとは意味が違う。だからこそアメリカンウェイに知らずに染まって文化を破壊している人々が多い現状は憂うべきであるのだが。
まずは日本人自身が日本の文化というものを、もっと深く自覚しないと、日本人として将来にわたって生き残っていくことは難しい。もともと日本人は外来文化を取り入れることが好きな、好奇心の強い民族であることは確かで、それによって自らの文化伝統を更新し、新しい力を導入して来たことは否定できない。しかしその姿勢はややもすると軽薄に流れがちなわけで、そこにかなり危惧される点がある。しかし7世紀から9世紀までの中国文化の爆発的な流入も列島の孤立化により日本化が進んだり、南蛮文化の流入も鎖国により吸収日本化が進んだりと、常に行きつ戻りつしながら新しい文化を形成して来た。内的な要因と外的な要因を比べて、外的な要因をより強く評価し、日本の文化に連続性がないと否定的な見解を持つ人もいるが、私はより内的な要因を、つまり日本の仏教というものが神道的伝統の上に立つとか、そうした面を見失わないようにしたいと思う。
現在の状況は、平安時代や江戸時代のような鎖国状態に国が戻ると言うことはあまり考えにくい。だから、そういう南蛮文化の流入に対して、独自の美意識を持ってそれらに対処していく姿勢がより重要になってきていると思う。文化の直輸入は容易いし、より安易に権威や権力を持ちやすいのでそれを好む人々は多いが、それはかなり危ないことだ。いたずらにそういうアメリカ伝来の考え方を排除することもないとは思うが、そのためにはソフトバンクのような商法を批判するだけの見識を持たなければならないと思う。
まあそういうような、違和感の正体というものをつかむことが出来て、だいぶこの世に戻ってきた感じがする。日本が日本であることは、江戸時代にそうだったように、あるいは明治時代にそうであったようにそうであることは出来ない。2009年の現在、日本が日本であるようにあることしかできないのだが、今何か見失っているものを、取りもどす必要はあるように思う。それは多分文化の側面だ。ものつくりに関しては、かなり多くの主張があるし、伝統工芸への新たな弟子入りなども増える傾向があって、(まだまだだとは思うけど)ひところよりは何とかなるのではないかという感じが出てきているが、文化という側面はどうだろうか。たとえば白洲正子のような、文化のあり方を更新していく存在が、今十分に日本にあるかというとやや心もとない。あるいは小林秀雄のような、文学における日本というものを更新して行こうという存在があるかどうか。そのあたりのところが今後の日本の将来がかなりかかっているような気がする。
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"昼に見る夢/違和感の正体"へのコメント
CommentData » Posted by shakti at 09/07/21
僕が印象的だったのは、小泉チルドレンの佐藤某という女が勝利インタビューで英語を使ったときでした。わー、日本も完全にフィリピンの道をたどってしまったと思いましたよ。
なお、フィリピンは長い植民地時代をもちますが、アメリカ時代なんてのは厳密に言えば50年間もないのです。それなのに、完全にアメリカン。日本もついに来たか、と。
CommentData » Posted by kous37 at 09/07/21
佐藤ゆかりは英語使う会社の人でしょう。癖で出たんじゃないかな。それともそれがカッコいいとおもったか。まだ土着の選挙民の感覚が理解できてなかったからだと思います。大蔵省出身の片山さつきとかはそんなへまはしませんでしたし。
でも中身がアメリカンなのにそれで日本で政治が出来ると思っている人が多いのは困りものですね。民主党政権になると、そう言う人たちが大勢政権の中に入ってくることになるでしょう。特に副大臣・政務官クラスでは。
財務官僚とか、たぶんそんなにアメリカナイズはされてないと思うんだよね。そのへんで結構軋轢があるんじゃないかな。予算折衝とか、政府機能が半分麻痺するんじゃないかという気がしています。細川政権のときみたいに、官僚の言いなりにはできないでしょう。