村上春樹の読み方、村上春樹の書き方
Posted at 09/05/31 PermaLink» Tweet
5月31日。今日で5月も終わり。なんだか忙しい一ヶ月だった。最後に村上春樹『1Q84』を読んで、ずいぶん自分の中のいろいろなものが掘り起こされたから、そういう「感じ」がとても強くなったのだろう。自分の中の魑魅魍魎がいっせいに蠢きだしたという感じがある。ただ,断片的ながら他の人の感想を読んでいてもそういう感想っていまのところまったくない。他の人は、小説というものをそういう読み方はしないのだろうか。そういう読み方をしないで一体小説というもののどこが面白いのか、特に純文学と言われるものとか村上春樹の作品のどこが面白いのか、私にはよくわからない。だから、結局自分で盛り上がって自分で沈静化して行くだけしかなく、なんだかそういう意味ではあまり面白くないが、Book1だけで35万部売れているのだから自分と同じような感じ方をする人も皆無ではないだろう。自分と全く同じ感じ方をする人はいるはずがないけど。
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なんか少し奇妙な印象を受けたのは、結構みんな「キャラクター愛」で読んでるんだなということ。あと、少しネットを見て回った印象では、「ストーリー愛」で読んでるらしいと言うこと。私は結局、「何を言いたいのか」とか、どういうアイデア、素材が表現されているのかとか、どういう構造で組み立てているのかとか、そっちの方にひかれるので、それもなんだかよくわからない。
「空気さなぎ」とか、「リトルピープル」とか、そういうものははっきり言って好きだ。「空気さなぎ」は昨日も書いたが、なんかわりと具体的にリアルにイメージできるし、空想上のものではあるが割合身近な感じがする。蓑虫とか、繭とか、ああいうものを見てその中に人間が入っていると言うイメージは割合しやすいのではないかという気がする。コクーンタワーとか、シアターコクーンとか、繭をイメージした建物もあるし、何というか子宮よりはもっと可視的な、安息空間としての繭というものはすごく近しい、親しい感じがする。
「リトルピープル」は、それに比べるとイメージしにくいが、妖精とかコロポックルとか森の小人とかそういう「小さき人々」というのは実際にいる、というかある意味「大衆」の比喩としてそういうものをとらえる感じがある。その中には結構悪いものもいるし――『ナルニア』の中にも赤小人と黒小人が出てくる――、妖精、ジン、魔の眷属、そういうものと、良くも悪くもある、付和雷同的でありながら、団結と言う言葉とは無縁の「大衆」というものがとてもよく重なって見える。だからリトルピープルという言葉はとても多義的に感じる。
たとえばおそらくはカルト教団「さきがけ」の使いっ走りとして出て来る「牛河」という人物。この人にもキャラクター愛が成立していてちょっと驚いたのだけど、指摘されて読み返してみてこの同名の人物は『ねじまき鳥クロニクル』の第3部にも出てきているということを確かめた。『ねじまき鳥』では主人公の敵である妻の兄、権力者である「綿谷ノボル」の秘書、下級の眷属、使い魔的な存在としてこの牛河という男が出てくる。これはある意味、リトルピープルの実体化したものという印象がある。
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)村上 春樹新潮社このアイテムの詳細を見る |
印象としては、この牛河という男は毘沙門天に踏みつけられる邪鬼とか、パリのノートルダム寺院の塔の上にいる怪物たちのような印象がある。悪者なんだけど、どこか間抜けで、踏んづけられたヒキガエルのような感じ。ウシガエルか。その間抜けさがどことなく愛嬌になっている、そういう印象だ。
本物のカルト教団からの使者とか、政治家の裏仕事をする使いっ走りの男とか、だともっとイヤな感じのする、人間性に腐臭を感じるような、極端な暴力性を秘めているのではないかと思うような印象があるが、まあそれもマンガの読みすぎかもしれないのだが、そういう印象があるが、この牛河という男はそういう意味ではデオドラントされて、小説の中でちょっと取り澄ました感じで存在している。だから逆に私などにはあまり強い印象を残さずに、「そういう人っているよね」的な感じで読み飛ばしてしまったのだが、まあ考えてみたらそんな人が日常的にまわりにいるところで生活している人などそう多いはずはなく、私だってどこまで実体験としてそういう人間を知っているかと言うとよくわからないのだから、もう少し印象に残ってもよかったかもしれない。なんていうか、単純にこういう人ってただ単に嫌い、あまり遭いたくない人という印象だから、記憶が積極的に忘却したんじゃないかという気もする。
リアルにこういう人物がいたらきっと相当強い印象(イヤな)を与えるはずなのだが、村上はそれを上手に脱臭し、あくを抜き、ちゃんとテーブルに並べられる一品として供している。そこが村上の料理の腕で、そういう意味では調理の場面が頻繁に出てくるのも村上という人間のトータリティがそこに現れているということなんだろう。
そういうことから考えると、村上は日本の近代文学にこれまで使われてこなかった、非日常・非科学・非常識・非近代・非良識・非正常のものを上手に料理することでテーブルに供せるようにしてきているわけで、そういう意味では私には彼を好まない理由はほとんどない。権威や正常・科学や近代、常識の世界の確固としたものに依存して暮らしている人にとっては危険なものに見えるだろうし、子どもが読んでも下手をすれば酒や煙草を飲ませるのと同じ危険性がないとはいえないが、文学というのはそもそもそういうものだし、危険でないものには逆にあまり意味がない。より自由になることで人が生きる可能性を広げるきっかけになればいいと思う。リスクのない人生なんてないのだし。
そういうふうに多くの人間に自由になってもらいたいと思う一方で、その自由には危険が伴うと言うこと、そういうことに対して自分の身を守る用心深さも身につけてもらいたいと思う面もあり、あまりに無防備なゆえに破滅していくケースを見て心を痛めることもままある。『1Q84』にも自分の心の闇に敗れて「失われていく」主人公たちの周辺人物が何人か描かれている。その用心深さの中核には「愛」がある、というのがこの小説での村上のメインテーマの一つかもしれない。用心深さとは、少なくとも自分への愛であるはずで、使い古された表現で言えば、「自分を粗末にしないこと」だ。自分を粗末にするのは自分の価値が見出せないからで、自分の価値が見出せないのは、本当には誰のことも愛せないからだ、という風に論理はつながっている。
現代社会において、人があまりにも簡単に、あまりにも安易に破滅していくのは愛が足りないからだ。愛されることが足りない、ということを言う人たちは今までも多かったし、夜回り先生ではないが、「君たちは愛されているんだよ」というメッセージを出す人はたくさんいたけれども、大事なのは、「君たちは愛さなければならないんだ」ということなんだ、と、村上は天吾に言わせている。
Book2、178ページ。天吾がNHKの集金人であった「父」に語りかける言葉。父は「認知症」の病院に入っている。(蛇足ながら、「1984年当時にない言葉が使われている」と502ページに書かれているのはこの「認知症」のことだろう。看護師でなく看護婦と書かれているのに、痴呆でなく認知症と書かれている。アウトとセーフの感覚が微妙だ)「なぜ自分自身を愛することが出来ないのか?それは他者を愛することが出来ないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。」
世上よく言われているのは、「自分自身を愛することが出来ないものに、人を愛することは出来ない」ということで、この二つをあわせると堂々巡りだ。お互いの尻尾を食べようとする二匹の蛇になり、そこには何も残らなくなる。しかし村上のテーゼは健全だ。人は他者を愛することが出来る、その資格において自分を愛することが出来る、と考えた方が自然だろう。人を本当には愛することができていない婦人警官や不倫相手は「失われて」行く。逆に言えば、天吾を愛している青豆が最後の場面でオートマチックを口の中に突っ込むけれども、青豆は失われはしないのではないか、という予感が残る。その予感がラストで「空気さなぎ」の中の10歳の青豆となって天吾の前に現れる。その先のことは、まだこの小説には書かれていない。
つまり、どんなに奇妙に見えようとも、村上の書いているテーマは「愛と自由」という王道なのだ。村上の普段の発言はどちらかと言えば戦後民主主義の枠内でのことに納まっていて、そのあたりはつまらないのだけど、小説の中ではその「愛と自由」の射程はかなり長い。
これも蛇足だが、今までの村上の小説の中で、一番マンガの原作になりそうなのはこの『1Q84』だなと思う。マンガは絵でかかれるから、基本的に三人称だし、具体性の描写が徹底しているのでイメージが浮かび上がってくる。キャラクターがはっきりしているからマンガにもしやすいだろう。「東京怪童」の望月ミネタロウとか、わりとアート系の絵を描く人に描かせたら面白いんじゃないかという気がする。
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