ネットで読まれる文章はどんなものか/「奇蹟」はどんなときに起こるのか

Posted at 09/05/16

昨日。自分の変な癖に気がついたり、思い出したりすることがある。このところどうも目の調子が変で、そんな日本を読んだりパソコン画面を見たりしているつもりはないのに変だなあと思っていたのだけど、どうも長時間運転するときに、まばたきの回数が少なく、また浅いのではないかと言うことに思い至った。実は私はコンタクトレンズが出来ない、というか何回か作ったことはあるのだけど、結局目に馴染まなくてやめてしまっている。度がかなり強いので、最初のときはソフトでは作れないと言われてハードを入れた。ごろごろはするけれどもこれで行けるかなと思ったのだが、夜中に自転車を飛ばして帰ってきた夜に急に目が火がついたように痛み始め、119番にかけたが眼科の救急はないといわれ、次の日に眼科にいったら目に傷がついていると言われた。目に風があたって乾いてしまい、コンタクトが眼球に張り付いてしまったのだと言う。確かに外すときに変な感じはしたのだが、気にしてなかったのだ。

それ以来、そういうことは気をつけるようにしていたのだが、やはり目が痛んだときがあって、眼科に行ったら「まばたきの回数が少なくて浅い。コンタクトに向かない目だ。」と宣告されてしまった。そのあと何度か、ハードもソフトもトライしてみたのだが、現在のところはあきらめている。最初の事件が確か20歳のときだから、もうずいぶん前のことだ。

まばたきの回数が少なくて浅い、というのは性格とか体質の問題もあるのだと思うけど、一つには芝居をやっていたこともあると思う。舞台上では、やはりまばたきはマイナスになるので、意識的に目を見開きつづけていることが多い。見開きつづけているのも最初は辛いが、だんだん可能になってくる。多分可能にならない人もいるんだと思うけど。どうもその癖が残っていて、今でも見ることに集中しているときはろくに瞬きをしない。運転中というのは考えてみれば見ることに相当集中しているので、これはやばい。休み休み、気をつけて運転しなければ、と思ったのだ。

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ネット上で、どういう文章が読まれるのだろうか、と考えてみる。いちばんよく読まれているのが、「みんなの共感を得られそうな文章」なのではないかという気がする。こういう文章は、ある意味当たり前のことしかいってないのだけど、逆にいえばあたりまえのことを書いているから読んで嬉しいし安心する。自分の考えが他の人の口から出るとうれしいと言う、あれだ。みんなが考えそうなことを書くと、みんなが「そうそう」とうなずいてくれるわけで、一見平凡なことばかりかいているサイトが実はすごくアクセスが多かったりすると言うのは、そういうことを書くのが上手い人のサイトなんだと思う。

みんながうなずくこと、みんなの共感を得られそうな文章というのは、一見簡単そうだけど、それを書きつづけると言うことはそんなに簡単なことではない。ある意味プロの文章だ。自分の中に、「日常への共感」・「常識への共感」を持ちつづけなければいけないし、また「常識の束縛から少しはなれること」への共感も持ちつづけなければいけない。こういうことを書いていてアクセスが多い文章を読んでいると、上手いなと思う。いつも読みたいかと言うとそれはまた別の問題だが。

次に読まれるのが、一見常識とは外れる、あるいは日常的な内容からは外れるが、こう考えてもらいたいという「みんなに共感を求める」文章だ。共感を得るために巧みな文章を書き、なるほどそうだよなあと思わせる。上手くすれば共感の嵐の書き込みがおこるような文章だ。場合によっては炎上することもありえるが、そうなるのは大概中途半端な主張の場合が多いように思う。この種の文章で成功するためにはかなりその問題について掘り下げた実績が必要だ。あと、攻撃に耐える力も。

で、私の書く文章というのはどうも上の二つに当てはまるものはあまりない。となると、第三のタイプとなるが、それは「他の人はどう思うか知らないが、オレはこう思う」という文章だ。私の書く文章はほとんどこのタイプに入るだろう。こんなふうに書くとカッコいい感じもしないではないが、この文章は慣れてくると書くのは楽だ。自分の感じること、考えたことをそのまま書けばいいのだから。で、別に共感してもらわなくてもいいし、自分からそれを求めることもない。まさに独り言。つぶやき。読む方も楽だ。面白そうなら読めばいいが、読んで共感しなくても無視すればいいだけ。「おまえはどうなんだ?」と迫ってくる暑苦しさがない。よく言えばスマート。悪く言えば人畜無害。こういう文章は、相当面白かったり気が利いたりしてなかったらなかなか読まれないだろう。

私は一時、二番目の「これはこうだよな?な?」みたいな文章が多かったが、大体あんまり考えないでそのときの感情の起伏にあわせて書いていることが多かったし、そういうのが破綻するとわりと悲惨なことになる。かみ合わない人と議論をするのは消耗するだけで得るものが少ない。一番目のみんなに共感が得られるような文章、というのは基本的には私にはむずかしい。「みんな」が何を考えているか、というのが、私にとってはいちばんわかりにくいことだ。

最近、少し強めの主張がある文章になる傾向が出てきているので、また第二のタイプの方向に行くのかもしれない。基本的には、自分がこういう世の中がいい、という方向に世の中が動くような文章が書けたら、言うことはないんだが。

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妊娠カレンダー (文春文庫)
小川 洋子
文藝春秋

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小川洋子「夕暮れの給食室と雨のプール」読了。これで作品集、『妊娠カレンダー』は読了した。「夕暮れの給食室と雨のプール」は短いが、私はとても好きな作品だ。初出が文学界、芥川賞受賞後第一作、と思われるタイミングの作品。「ドミトリイ」ほど肉体とその各部位への偏愛は感じられないが、それでも給食室で行われている阿鼻叫喚の調理風景、雨のプールの残酷さ、といった肉体に侵食しようとするある種の暴力のようなものが上手く描かれている。肉体に入ってくる給食が製造されるときの圧倒的な量感、乱暴さ。泳げないのに肉体をプールに浸さなければならない嫌悪感。しかしそういうものがさらっと剥がれ落ちてしまうあっさりさ。過ぎてみると、何がそんなに嫌だったのか、と思うような圧倒的な力を持った「魔」がある。その名残が、いつまでも心の中に残響となって鳴り続けたりする。そんなことが確かにある。そしてそういう「魔」と邂逅するのが、逢魔が時とでも言うべき特別な時間なのだ。

この作品を読んでいて気がついたのだが、小川洋子は一つの安定した状態から新しい安定した状態に移る、「移行期間」に舞台を設定することが多い。「妊娠カレンダー」はまさに移行期間そのものがテーマになっている。「ドミトリイ」では、主人公の夫がスウェーデンにいて、彼女自身も引っ越すその準備をする期間に物語が起こっている。だんだん夫との現実がよく分らないものになり始め、学生寮=ドミトリイで起こる不思議な出来事に飲み込まれていってしまう、という展開。不思議な出来事に飲み込まれていく、という感じは「薬指の標本」にもあった。「夕暮れの給食室…」でも結婚を前提に古い家に引っ越し、実際に結婚するまでの期間に物語は起こっている。でもこちらでは不思議な出来事に侵食されない。確かにどちらでも、ある。

移行期間というのは、他の作品でもそうだ。『博士の愛した数式』では短期記憶がすべて失われる博士の、そのわずかな期間に何をすればいいか、ということに全神経を集中する主人公がえがかれている。最新作『猫を抱いて象と泳ぐ』では、リトル・アリョーヒンという天使のような存在がこの世にあるわずかな期間がその舞台になっていると言っていい。すべてのものは移ろい、変化し、無くなって行く。小川洋子の小説はそれを前提として描かれている。私たちは小川洋子が描き出すその移行期間の中で起こる奇蹟を読む。奇蹟は、日常生活の中には存在しない。ある「魔」の時間のみに起こる。その舞台設定が、小川洋子は巧みだと思う。

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by Luke Peterson

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