忌野清志郎の使命感/小川洋子の通過したイニシエーション/オバマ前の世界、オバマ後の世界
Posted at 09/05/11 PermaLink» Tweet
昨日。昼過ぎに「Blue」が聞きたくなり、出かける。自分が清志郎についてどんな思いを持ってるか、自分でもまだ本当にはわかってない。人に説明するなんてことはもっと無理だ。こんなふうに、自分の思ってること、感じてることを書くことは出来ても、相手が納得するように話すことは無理だ。
『Blue』、山野楽器ならあるだろうと思って銀座に出かける。ポップスのア行を探しても出てこないので店員に聞いたら特設コーナーがあった。でも大体は最近のアルバムばかりで、てんで馴染みがないものばかり。さすがにラプソディーとシングルマンはあったが、『Blue』はなかった。なんだかブルーになり、山野楽器をあとにする。
ヤマハならあるかな、と思い外堀通りへ。店内に入ると、クラッシックのものばかりが目立つ。ようやくポップスのところを見たが、これはないなという感じ。ああ、と思いながら外堀通りを渡り、ビックカメラにでも行って見るかと思う。西銀座でパートに何かあるかなあと思って案内を見ると、HMVがあった。そうか、むしろこういうところのほうがあるかと思って探して見るが、品数自体が山野楽器よりずっと少ない。なんだよCDは売れないと言うけれど、でもこうして在庫自体もないんじゃ売れないのも仕方ないだろうと思う。
あまり期待しないで有楽町のヨドバシカメラに行って見る。思ったよりはあった。でも、やはり最初に行った山野楽器が一番数があった。がっかりして下に降りる。丸井のなかに何かあるかなと思って案内を見ると、8階に書店があるのを発見。行って見ることにする。エレベーターはきっと込んでるだろうなと思いエスカレーターで上って行く。上の階がメンズで、ちょっとぶらぶらと見てみる。子ども向けと行ったらなんだが、20歳くらいの人がメインの客層なのかなと感じる。帽子を売っていて、なんだか安いなと思って一つ買った。
8階で本を一通り見る。うーん、やはり服を買いに来るついでによる本屋という感じだな。本格的に本を探すところじゃない。でもまあスタバと一体化していて座って何か飲みながら本を探せると言うコンセプトはなくなった大丸の三省堂みたいで悪くない。そういえば、小川洋子の『妊娠カレンダー』を読んでみようかなと思いついて探したがなかった。
丸井から出て、また銀座に戻る。もう一度山野楽器へ。でも結局買わなかった。教文館に入り、『妊娠カレンダー』を探す。あった。青のカバーをかけてもらい、カフェに行ってみたが、もう閉まっていた。
松屋の地下で何か食べようかと思ってはいったが、鮨屋は待っている人がいる。イートコーナーがあったのでそこで値下げになっていた鮨を買って食べたが、やはりちゃんとした鮨屋で食べるべきだったと思った。木村屋に行って、スコーンと抹茶あんぱんを買って帰った。結局『Blue』は、amazonで注文した。5月17日入荷と書いてあるから、なくなってから生産再開させたんだろう。探しにいったこと自体が無駄足だったのかもしれないが、まあ無駄足を踏むことも人生だ。
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夜、NHKで所蔵フィルムからの清志郎回顧番組を見る。Youのフィルムで、『気持ちE』から『スローバラード』に移ったとき、泣きそうになった。清志郎のインタビュー。なぜ歌うのかと聞かれて、「なんでしょうね。なんか使命感のようなものがあります」と言っていて、なんだかすごく分かる気がした。ニュアンス、彼自身の言いたいことは、メッセージ性のあることを伝えていく使命について言っているようにも思ったが、私は、彼のあの声で、彼だけが持っているあの声で歌い続けること自体が彼の使命そのものなんだと思ったから、すごく納得した。私も、私だけが持っているこの声、この文章、この言葉で書き続けることこそが使命であるはずなんだと思う。すごく軽くなる。
最後にかかった『Jump』。「なぜ悲しいニュースばかり TVは言い続ける なぜ悲しい嘘ばかり 俺には聞こえる」今までちゃんと聞いたことがなかったけど、これはいい曲だ。全盛期の曲に比べれば説教がましいところが嫌味ではあるけど、まあ何というかこれは清志郎の選んだ道なんだから、人がとやかく言うことではない。いやなら聞かなければいいことだ。私のように。
でも昨日は聴かずにはいられなかった。清志郎、俺はこの曲は嫌いだよ。でもあんたのことはやっぱり好きだ。あんたの後期の曲は嫌味なのばっかりで聞く気はしないけど、でも今夜は聴いてもいい。
コンサートの演出はとてもよかった。大きな丸いカラフルなボール、あれはチャップリンが『独裁者』で戯れていた「地球」みたいな感じだったが、それがいくつも舞台で弾み、客席で弾んで、「ジャンプ!」という歌詞のところで舞台上で清志郎が、飛び跳ね、客席が飛び跳ねる。走り幅跳びの空中姿勢のように。それを見てるとまた泣けてくる。ジャンプ!清志郎はいつまで、舞台上で飛び跳ね続けていられたんだろう。声はいつまでも残るけど、肉体は滅んでしまった。ジャンプ!今はぼくたちが飛び跳ねるしかないんだ。今も、これからも、ずっと。
***
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小川洋子『妊娠カレンダー』。表題作読了。これは1990年の芥川賞受賞作品。小川洋子は私と同年だから、28歳のときだ。私たちの青春は80年代だったけど、そのどん詰まりの90年に、小川は作家としてひとり立ちしたことになる。一読して、こりゃあ大変だったなと思う。芥川賞というのは、作家仲間にああでもないこうでもないといびられて、まあ一応仲間入りを認めてやるよ、という通過儀礼、イニシエーションのようなものだと思う。「先生方」に認めてもらわなければ受賞は出来ないわけで、どうもご機嫌を損ねたらしき村上春樹や島田雅彦は結局のところ受賞していないし、車谷長吉や今や芥川賞選考委員の山田詠美も結局直木賞で受賞している。
小川もずいぶん苦労したんだなと思う。まあ、逆に乱発気味になった00年代には綿矢りさと金原ひとみのダブル受賞などがあり、その後その桎梏で二人はだいぶ苦労したみたいだから、受賞前に苦労するのがいいのか受賞後に苦労するのがいいのかは一概には言えない。文学というのは結局因果な商売なんだと言うしかない。小川の現在の作品、『博士の愛した数式』『薬指の標本』『猫を抱いて象と泳ぐ』などでただ静かに自分の世界を広げていく、そうした静謐な世界を見慣れている私のような読者にとって、『妊娠カレンダー』はその世界がメインにしか見えないんだけど、でもいろいろとこういうのはどうなのかねえと思わされるような因子をたくさん内包させられている。おそらくそれは彼女自身がしたかったこととは違う。芥川賞受賞のための、ある種の「傾向と対策」の結果だったのだと思う。
神経症じみた姉の存在とその妊娠、その夫であるおどおどした義兄、ものごとに何の感動もわかない主人公「私」。見事に当時のありそうな小説のステロタイプをたどっている。しかし小川の病院に対する偏愛、試薬やビーカーへの愛、廃墟のような古い建物への愛など、のちの小川の小説の要素がふんだんに出てきて、そのあたりは楽しめる。しかしそれらの描写が十分と言えるほどはないのは、たぶんカットした、あるいはせざるを得なかったのではないかという気がする。私が傾向と対策を考えても、そういう濃厚な描写が受賞にとってプラスになるとは思えないから。
ただそういう両手両足を縛られた状態の中で、彼女はやるべきことをやってそのステロタイプを破ることに成功していて、やはりそれがすごいなと思う。特に義兄のおどおどした態度、夜中に妻のわがままを聞いてやるために土砂降りの中、びわのシャーベットを探しに行こうとしたりするところはどうかと思ったが、その義兄と「私」が始めてあった歯科医院で、歯科技工士である義兄になる人に歯型をとられ、そのゆびが口の中の粘膜を撫でる、なんて描写はやはり小川の才能の方面をよく示していると思う。
「私」の描写では、アルバイトで、スーパーでホイップクリームの実演販売をするところがいい。まあこれは、私の元妻がやはりバイトでやっていて、んだかいやな目にあって泣いて帰ってきたことを思い出したりすることも関係しているが。でもなんだか、この主人公の世界に対する対し方が端的に書かれている感じがしていい。
姉の描写では、「私」のつくるグレープフルーツのジャムを毎日異様に食べ続け、太り続けるグロテスクさはちょっと誰かの真似っぽいところがあるのだけど、姉が太り続けると難産になる、と気にしながら、ジャムを差し出されると「しばらくそれを眺め、無言で食べ始めた」というところが、ある種人間というのはそういうものだよなという感じがした。
このときの芥川賞の選評を読むと、ラストシーンを酷評しているものが多く、それに興味を持ってラストを読んだのだが、確かにそれまでの緊張感に比べると計画をなぞりましたという感じがする。いよいよ姉が出産と言うときになって子どものころ忍び込んで遊んだ産婦人科医院にしのび込んでみる、という展開は何というか意外性に欠けていて面白くない。予定調和的な感じがする。これも本当に小川が望んだ結末なのか、ちょっと疑問だ。また最後の行、「私は破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。」というのもちょっと勘弁してほしい感じがする。同じことをいうのでもいくらでも言い方があるんじゃないか。後の小川の作品を読むと、ラストで人間がある意味で破壊されるものばかりで、これは彼女のひとつのテーマなんだと思うのだけど、破壊という言葉はないだろうと思う。これも何か理由があったのだろうか。
とにかく1990年という時代の中で、よくやったなあとは思う。1989年が昭和天皇崩御、ベルリンの壁崩壊、天安門事件。それから湾岸危機、湾岸戦争へと続くこの政治的な大移行期に、80年代の牧歌的な何でもありな世界、私たちの青春時代、私たちが育った時代が崩壊して、より偏狭な、ひとつの言葉を押し付けようとする時代へと移行していく。資本主義アメリカの勝利、唯一の超大国が語られ、グローバルスタンダードが語られ、そしてそれへの反発もまたステロタイプとして形成されていく時代。忌野清志郎もまたこの時代にメッセージ性を強めていく。やがて須賀敦子や司馬遼太郎が時代の空気の硬直性に耐え切れず死んで行く。バブルとその崩壊。阪神大震災とオウムの犯罪。今思っても生きにくい時代だった。その反発の中から小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』をはじめ、時代を突き破る動きを示したが、その動きもまたより大きな偏狭さにとらえられていく。
硬直化した国際協調主義へのアンチテーゼとしての健全なナショナリズムの主張がネット右翼の増殖を生み出し、ポケベルから携帯へ、パーソナルメディアの発達によってコミュニケーションが見えないものになり、2001年の911をきっかけに「安全」が至上の価値となって自由を鎮圧し、人はただ生きて利益のみを追求し、金儲けのみを考えて生きればよいという極端な思想が肯定的に語られるようになった。90年代から00年代のこの奇妙な時代の中で、表現者もまたとまどい、時代に迎合して傷つき、時代に背を向けて倒れ、時代に吸収されて無言の歯車となっていった。
この困難な時代の中で、小川はとにかくイニシエーションを通過し、作家として自分の世界を追求し、広げ、提供し、そして支持を得、ブレイクし、確固とした世界を築き上げ、さらに広げつつある。それは全くすごいことだ。
話は小川を離れる。そして2009年、核軍縮・核廃絶を唱え、チェンジを主張するオバマが超大国アメリカの主となったことで、世界はまた流動化しようとしている。
新しい時代には、新しい水夫が必要だ、と吉田拓郎は『イメージの詩』で歌っているが、この時代にまた表現者も新しい使命を自覚して、新しい潮流をつくることを目指さなければいけないと思う。時代はもう、忌野清志郎が求めたような空想平和主義を求めてはいない。リアルな力の存在を前提とした、しかし確固とした理想を持った新しい世界に向かうときがやってくるのだと思う。同じくケネディがそれを求めたとき、それは観念的な方向に傾きすぎてしまったけれども、50年近く後の現在は同じことは起こらないだろう。主敵もまた、ソ連からロシアや中国といったよりしたたかで、現実主義の怪物に代わっている。
まだよくわからないけど、表現の潮流ももう変わりはじめているのだと思う。CDが売れない、本が売れない、雑誌が売れない、マンガが売れない、今までの既存のメディアが力を失い、ネットがまだそのエスタブリッシュ性を確立しないままにおそるべき増殖を続け、価値が混乱する中でやはりメディアとしてのお金のみが信奉される傾向はまだまだ強い。生き残るためのメディアとしての英語の重要性もまた強まる中で、文学賞は中国人に芥川賞を与え、イラン人に文学界新人賞を与えた。村上春樹はパレスチナ問題でイスラエルに苦言を呈し、日本と日本語をとりまく世界もまたどこか新しい方向に流れ出している。
20年前、イラン人との混血の選手が日本代表として世界と覇を争う野球の大会にエースとして出場し、それを勝ち取るなんてことをだれが想像しただろう。大相撲の横綱が、外国人しかいない状態がこんなに長く続くなんて、だれが想像しただろう。それは80年代末に始まった変化ではあるが、90年代のサッカーの勃興と日本代表の多国籍化もまた大きな要因だったと思う。
これらのことはただひとつの、見やすい変化に過ぎず、もっと違うところ、もっと根本的なところの変化、人の心の中の変化も起こっているはずだ、80年代が何でもありの時代多様化の時代だったとすれば90年代は偏狭の時代、00年代はさらにそれが深まって人々の心の分裂の時代だったと思う。オバマの登場は、おそらくそれを終わらせる。少なくとも人々は、統合を、再統一を、融和を、共存を求める方向に動くだろう。ここ数十年で世界の人々が経てきた心の変化を踏まえて、世界の人々の心はどのような方向性に動いていくのか、そういう意味で今は面白い、とてもエキサイティングな時代なんだと思う。
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