池澤夏樹『スティル・ライフ』と80年代の空気
Posted at 09/05/13 PermaLink» Trackback(1)» Tweet
昨日。電車の中で小説を何作か読む。池澤夏樹『スティル・ライフ』(中公文庫、1991)と小川洋子『妊娠カレンダー』(文春文庫、1994)所収のもの。池澤夏樹「スティル・ライフ」は読了、小川洋子「ドミトリイ」は読みかけ。
スティル・ライフ (中公文庫)池澤 夏樹中央公論社このアイテムの詳細を見る |
「スティル・ライフ」は1987年度下半期の芥川賞受賞作。初めて読んだけど面白くて驚いた。なんというか、私がはじめての小説を読むときにいつも感じる違和感、抵抗感のようなものがとても少ない。それがいいことなのかよくないことなのかはよくわからないのだけど。読んだ後でいろいろ考えたのだけど、この小説が1987年という年に書かれたというのはとてもよく分る気がする。あの時代の空気の中でこの小説が書かれたというのはとても納得できる、といった方がいいか。時代はバブルが始まりつつあるとき。5年続いた中曽根内閣から11月に竹下登に政権が渡った。この年の9月に村上春樹の『ノルウェイの森』が刊行されている。この年のレコード大賞は近藤正彦の「愚か者」で、新人賞にノミネートされているのが酒井法子、坂本冬美など。吉幾三の「雪国」もこの年。7月に石原裕次郎が亡くなった。85年から始まった「夕焼けニャンニャン」が終わった。
ブルーハーツ「リンダリンダ」、映画では「マルサの女」「ゆきゆきて、神軍」ケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」。山田詠美が直木賞受賞。俵万智「サラダ記念日」が売れたのもこの年。後楽園球場最後の年。「鉄人」が流行語大賞に入っている。
自分のことを考えると、この年に教員の採用試験を受けたが受からず、短期間某高校の講師をした。劇団の活動と塾講師のアルバイトばかりしていた。彼女とうまくいかなくなったり、新しい彼女ができたりしていた。この翌年、初めて自分の書いた台本を上演した。(書いたけど上演できなかった=劇団が空中分解したことはそれまでもあったが)個人的にはアンジェイ・ズラウスキ監督の『狂気の愛』が日本で公開され、六本木シネヴィヴァンで見てものすごい衝撃を受けたのがこの年、だったか年明けか。(パラジャーノフ『ざくろの色』を見たのが91年か、カラックスの『ポンヌフの恋人』も91年だな、とこれは関係ない)
今思い出してみても怒涛だったから、「時代」なんていうものを全然客観的に見てなくて、こういうふうに並べてみると同じ年だったのがよく分らない感じだ。いやじつは、87年というのは自分にとってはやや小休止の年なんだよな。86年に芝居を二本やって、87年は出演ゼロ。年齢、考えてみたら25歳だ。そうか、25歳か。若いなあ。でたらめに試行錯誤の真っ最中。
こういう空気の時代に、当時42歳の池澤夏樹が書いたのが「スティル・ライフ」。当時から題名は知っていたけど、読もうと言う気持ちにはならなかった。『構造と力』が出たのが1983年、87年はポストモダンも全盛期と言っていい時代だ。相対主義が一世を風靡していたといっていい。ほんとうになんでもありの時代だった。1986年、ゴルバチョフがペレストロイカをはじめ、チェルノブイリの事故も86年。中距離核ミサイル全廃条約が結ばれたのが87年12月だ。世の中は明るい方向に動いている、とみんな思っていた気がする。社会主義圏の崩壊が起こるなんてまだ誰も(小室直樹以外は)考えてもいなかった。夢の遊眠社が代々木体育館で「白夜のワルキューレ」以下の三部作を一挙上演したのが86年。これを最後に野田秀樹の芝居をほとんど見なくなった。唐十郎が状況劇場を解散して唐組を旗上げしたのが88年。87年は上演記録がないが、何もなかったっけなあ。
とにかく、この時代の中で書かれた作品、なんだなあとこの「スティル・ライフ」を読むと本当にそう思うのだ。もう跡形もない時代なのだけど、この時代の、この時代に新しかった、この時代に未来だと感じられた何かがここに書かれている、という感じがするのだ。当時読まなかったけど、読んだらどんな感想を持ったかなあと思う。まあなんというか、当時の私の「青春」と言うものはこんな洒落たものではなかった。何か泥臭くある意味で地面を這いずり回っていた、主観的には。客観的にみればそうでもないんだけど。
なんというか、だからこの作品を語るにはどうにかして過去を再構築して、その中でどういうものだったのか、ということを考えなければいけない感じがする。で、いろいろこうやって書いてみたのだけど、どうもそういうことがあんまり成功している感じがしないな。
しかし逆にこういう不毛な努力をやってみたくなったのは、この作品が永遠の輝きを持つ真理を書いている、とも言えないからなんだと思う。でも自分にとって大事な時代の、その空気を確かに掴んでいるから、そのことを大切に扱いたいと思うのだ。とにかくもう、前置きはこのくらいに(!)しておこう。
前半は染色工場でアルバイトをしている主人公と、その同僚佐々井との話。染色工場で失敗して上司に怒られているのを佐々井に助け舟を出してもらったのだ。この二人の会話がなんだか洒落た(感じがする)バーで行われているのもちょっと不思議だが、時代の雰囲気と言うものか。話の内容は、糸の染色がどうして毎回微妙に違う色合いになるのかとか、科学的なこと。結構前向き。このあたりが、00年代後半の非正規雇用労働小説みたいな伊藤たかみとか、津村由記子とかを読んでる感じと全然違う。どっちが読みたいかと言うと、やっぱり圧倒的に前向きのものを読みたいよなあと思う。
うーん、今気がついたが00年代の芥川賞受賞作品て、出て来る人たちが「下流」的な人が実に多いんだな。「スティル・ライフ」の登場人物は二人とも工場のバイトなのに、何十部屋もある家に住んでいたり、大規模な株の運用をしていたりする。今からみるとそういうリアリティのなさ(いや、実際にはそういう人もいたのかもしれないが、という時代なんだが)が実に80年代後半的だ。一億総中流で、社会的立場が「ちょっと変わった」人が主人公になりそうな、そういう時代なのだ。
前半の白眉は、「春の最初の兆候があった次の日」、「南の方へ走る電車」で「雨崎」という海岸へ行き、雪が「あたり全体を生めて本格的に」降っているときの描写だ。
雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。……雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。
雪が降っているのではなく、世界が上昇している。この描写、あるいは発見は強い印象を残す。私はこれを読んで、野田秀樹「ゼンダ城の虜」のラストのセリフを思い出した。
「少年はいつも動かない。世界ばかりが沈んでいくんだ。」
少年が上へと上昇していくのではない。世界の方が沈んでいくのだと。この座標軸の転換が目眩を引き起こす。その感じは二つとも同じだ。その幻惑感が、80年代の感覚なんだと思う。「ゼンダ城の虜」を私が見たのは、確か82年だったと思う。初演は81年だったはず。
世界はぼくらの見方次第でどのようにも見え、そのどちらが本当かは分らない。そんな、ある意味素朴な相対主義が、80年代の明るさの多くを占めていたんだろう。そしてその残光は今の私の中にもいまだに強く乱反射している。この光の乱反射は、あの時代に「若者」だった人でないと分らないものがあるような気がする。本質的な部分で、ある意味救いがたいくらいに能天気なのだ。
後半部分は広い主人公の家の中で二人の生活が始まる。とはいえ、佐々井がパソコンや情報を駆使して株を運用し、まだネット取引はないから、主人公がさも自分の取引であるかのように装って証券会社と取引を行う代行をする。そんな二人三脚で佐々井の目的は達せられる。
このあたり、ミステリー仕立ての部分があるので種明かしは避けるが、ついに来るべき日が来る。しかし、これと言ったことは起こらない。あっけなくもとの暮らしに戻るのだ。このあっさり感も、今思うと本当に80年代的だ。
染色という繊維工業の技術、天文学的な会話、雪という気象現象。天体写真を映し出すスライドのプロジェクター、当時まだ家庭にはほとんどないパソコン。(ワープロはもう普及していた、そういえば)作中の言葉でいえば「理科」っぽいアイテムが並ぶ。そういえばまだ「おたく」という言葉もなかった。埼玉連続幼女殺害事件が88年。理科少年が理科オタクといわれかねない現在からすれば実に牧歌的な時代。こういうアイテムがでも、ちょっと魅力的だった時代なのだ。今でも私などにとっては魅力的であるけど。
こうして書いてみると、作中で扱われている「テーマ」について何も書いていないけれども、何かそういうものはどうもしゃらくさいと言うか、ちょっとどうなのというか、やっぱり相対主義の時代だからこそ輝いた考え方だったんじゃないかなと言う気がするものなのだ。逃亡者は草食動物のようなもの。という言葉が、草食男子、という言葉を思い出させるし、自分にとっては何より「雨崎」に向かうおそらくは京浜急行、に乗って、仕事をサボって海岸に行ったことがあるので、そういうところに印象が行ってしまうのだ。
感想というにはあまりに雑多であるけれども、そういうでも自分の中におもちゃ箱をぶちまけたように広がっている何かを全体的に活性化する、そういう作品だったということなのだが少しは伝わるだろうか。
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