体を休める/『夕凪の街・桜の国』/無意識の世界

Posted at 09/04/20

一昨日夜帰京。土曜日は新しい仕事の続きをやって、今までの仕事に一区切りついたのがあって、しかし体調はいまだによくなくて、でも7時前の特急で上京した。調子が悪いまま漂っている感じがあって、2時くらいまでつい起きていてしまったが、余計調子が悪くなって寝た。

5時くらいに目が覚めたが、とにかく今日は徹底的に体を休めることに専念すると決意する。体の要求に全部従うというか。それで5時半ころには散歩に出かけた。このところ全然歩いていないので調子が悪いのだという気もしたので。案の定、歩くと段々からだの調子がつかめてくる。金曜日には下っているのに便秘、という最悪の状態だったが、少しずつましになってきた。やはり朝歩くのは気持ちがいい。田舎にいるとつい車に乗ってしまうが、歩いて済ませられるところはなるべく歩くべきだなと思う。

田舎でも、結局車に乗っているといろいろと楽なのだ。疲れないというだけでなく、道で近所の人にあってもただ少し会釈すれば済む。向こうが気がつかなかったとしても気にする必要もないし。基本的にただ自分の運転に専念していればいいので余計なことを考えないですむ。また、まだまだ運転が面白い時期なので、運転していること自体が楽しいということもある。だからそれはそれとして、歩くこともちゃんとやったほうがいい。そうしないとやはり自分の体調が変になってしまうことは私にとっては確かなようだ。そうか、車で出かけて遠いところで歩けば近所の人には気を使わないで済むな。そういう考え方も出来る。ちょっと消極的ではあるが。

とにかく昨日の朝は歩いた。どこまで行けるか目標を立てずに歩いた。調子のリズムをつかむのが目的だから、体の要求に従って。途中で少し足が痛くなったりしたが、これは想定内。歩いているうちにまた平気になっていく。富賀岡八幡でお参りをし、荒川の堤防に出る。ここに来るのは久しぶりだ。川の水が少ない。いつもは川端のコンクリートの下、30センチくらいなのだが、1メートル近くあったのではないか。増水のときなどはコンクリ自体が水に漬かっている。春の増水ももう終わったということか。これから梅雨場までは水が少ないのかな。

帰りにコンビニでボルビックとパンを買う。日曜日は一日ものを食べないようにして水だけで過ごそうかと思ったのだが、目が欲しがってしまった。自宅まで歩く。行きは行きたいところまでいく、でいいのだけど、帰りはゴールが決まっているので少々面倒だ。逆の心境のときもあるのだけど。

うちに帰っても調子の悪いところに愉気をしたり活元運動をしたり。とにかく散髪には行かないと(月曜日は休みなので)と思い床屋にのぞきに行くが何度かまっている人がいてやめて、家に帰ってネットをみたり。文章を書くほどの気力は出ない。

とにかく徹底的に体を休めるという姿勢でいろいろやっているうちに、だんだん体の中から新鮮な気持ちや気力というものが湧き上がってくる感じがした。それは不思議な感覚で、満ち汐ではなく汐が引いていくときに、砂浜に今まで見えなかったものが見えてくるような感覚で、きらきら光る言葉が見えたりした。考えてみたら、今までずっと何とかしよう、何とかしようと気張り続けていて、まともに体を休めようとしたことがないんだなと思う。

それはきっと、20年前に就職したときからずっとそうなんじゃないかという気がした。いや、それは極端だが、仕事をし続けていつのころからか、そう責任が重くなってきたころからはずっとそれが解けなかったんだなと思う。10年前に離婚して仕事をやめて、それですべてを解き放って楽になったつもりでいたけれども実はそんなことはなくて、頑張らなければという気持ちが解けてはいなかった。気は抜けたけれどもこわばりは取れていない、という感じ。こわばりを取るためには、本気で徹底的に体を癒し、気持ちを休めるという決意のもとにそれを実行する必要があったのだ。あのころは意識して休もうという気持ちはあったのだけど、それを「徹底的に」やろうという決意のようなものが足りなかったのだと今では思う。体を壊してしまったこともあるが、それをやる気力のようなものまで壊れてしまっていたのだろう。今ようやく、その程度の気力は回復してきたということか。いやそれ自体ならもっと早くから多分ないこともないと思うけれども、その頃にはもう休めることは関心の外に行ってしまい、自分を何とかしなければならないという焦りに取り付かれてしまったのだと思う。

そんなことをつらつら思っているうちに友達から電話がかかってきたので少し話す。少しといってもきったのは2時を過ぎていたが。それから散髪に出かける。床屋はちょうど待っている人がいなくなっていたのですぐにやってもらえた。終わったら4時前。水だけにしようかと思ったがさすがに腹が減ってきて、何か買ってきて食べることにした。図書館の向こうのジャスコに入るとレジが大行列。弁当とポテトサラダだけ買って列に並ぶ。帰りにクリーニング屋が開いているのに気がついて、食後にズボンを二本もっていく。少し甘いものが食べたくなって、コンビニでボルビックの1リットルとフルーツケーキを買った。

少し休もうと横になったら爆睡してしまい、目が覚めたら夜中の12時過ぎだった。

夕凪の街桜の国
こうの 史代
双葉社

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1時ごろに起きだしてモーニングページを書いたり。またこうの史代『夕凪の街・桜の国』を読んで泣いた。私は『桜の国』の方は何度も読み直していたのだけど、原爆体験そのものが描かれている『夕凪の街』の方は気が重くてあまり読み返せなかった。でも今日は、というか最近そういう傾向なのだけど、普段見ないようにしていたものをちゃんと見ようという気持ちが起こってきていて、『夕凪の街』も読んでみた。やはりとても重いのだけど、大事なところが本当に繊細な表現がされているのがよくわかる。一人一人の持っている繊細な気持ちというものに大量破壊兵器が及ぼす壊滅的な打撃というものが本当に痛々しく感じられる。いままでの原爆文学や記録というのは、どうしても集合的な記憶としての原爆というか、圧倒的な破壊力のあるものとしてのみ描かれてきた感じがするが、街の一つ、人々の背中の傷一つ一つに宿っている傷つけられた生命の記憶と記録をこんなに戦災に描き出すまでには、やはりこれだけの年月が必要だったんだと思う。『夕凪の街』は本当に、涙を流さずに読むことは出来ないのだが、でもそうしてから『桜の国』を読むと、その記憶を背負って、あるいはその記憶を受け継いで生きる人たちの、それでも生きようという強さが、踏み潰されても立ち上がろうとするその生きる本能のようなものが浮かび上がってきて、いやむしろ、その記憶を背負った人たちの間に生まれることを選択したとまでいうほどの気持ちのすがすがしさのようなものを感じて、感動がとても深くなる。

「生まれる前 そう あの時わたしは ふたりを見ていた そして確かに このふたりを選んで 生まれてこようと 決めたのだ」

そういう無意識の世界の祝祭というか、そういうものがあるからこのマンガは読むものを遠くに連れて行く。そんなことを思った。

***

マグリット (ニューベーシック) (ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
マルセル パケ
タッシェン

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自分がどういうものを好きなのか、何をやりたいのか、ということを考えていて、一つの答えが出た気がした。それは、無意識とか潜在意識の世界というものなんだなと思う。無意識の世界というものを最初に意識したのはいつなんだろう、と考えてみて、多分中学生のころ、人のいない図書館でマグリットの画集を見たときなんじゃないかと思った。マグリットの不思議な絵、特に葉っぱ一枚が一本の木のように風景の中に屹立している絵だったと思うが、あの絵たちをみていて私はとても不思議な気持ちになった。絵が不思議だとそのときは思っていたのだけど、今思うとそれはあの絵を見ることで自分の中に不思議なものが、自分では気がついていない自分がいることに気がついたのだと思う。あれからずっと、不思議な世界、目に見えないものに関心を持ち続けてきたのだ。それをどういう言葉で言えばいいのかよくわからなかったのだけど、無意識とか潜在意識というのが一番ぴったり来るような気がする。

風邪の効用 (ちくま文庫)
野口 晴哉
筑摩書房

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中学生のころ出合ったものはもう一つあって、それは野口整体だ。近くに詳しい人がいて、調子を崩しがちだった(自律神経失調症と診断されていた)わたしに愉気をしたり簡単な操法をしてくれたりした。また、人間の体温は右のわきの下と左のわきの下では違うとか、体について不思議なことをいろいろ教えてくれたのだ。

カラー版 ナルニア国物語 全7巻セット
C.S.ルイス,ポーリン・ベインズ,瀬田 貞二
岩波書店

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それまでも、小学生のころから『ナルニア』などで自分の知らない世界、この世ならぬ世界への憧れのようなものは持っていたけれども、まさに自分の中にそういう世界があるということは考えてもいなかった。とはいえ、中学生のころには全然そういうことは意識もしていなかったのだけど。でもそういうものにずっとひかれ続けていたのだということは、高校生のころ聴いていた音楽、ビートルズやレッドツェッペリンだが、その中の傾向を考えてみるとよくわかる。

ねじ式―つげ義春作品集
つげ 義春
青林工芸舎

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だからといって心理学や宗教やオカルトやスピリチュアルなものにひかれたというわけでもない。どちらかというとそういうものは苦手だった。諸星大二郎や高野文子、あの時代のアヴァンギャルドなマンガは大体どれも好きだったが。つげ義春の「ねじ式」なんてのは、最初に読んだのは小学生のときでさすがにわけがわからなかったが、大学生くらいのときになるともう既に相当面白くなっていた。「するとあなたはこういいたいのですな。医者はどこだ!」あの馬鹿馬鹿しさは無意識というか夢の世界の面白さそのものなのだが、そういうアヴァンギャルドな意味のなさというか、意味のないところに意味がある、というようなものだと私は無意識というものをとらえていたんだと思う。

だからフロイトやユングの心理学もまあ全然面白くないというわけではないけれども意味を見出しすぎるところが苦手だったんだと思う。ユング派の河合隼雄などになるとだいぶ言ってることがいい加減になってきていて、というか無理に統合的な意味をつけようとしていないところが、読みやすくはなるので、河合はだいぶ読んだけれども。宗教も面白いとは思うけれども、やはり意味づけが過剰というか、意味づけの仕方が私の趣味に合わないんだと思う。オカルトになるともっと趣味が合わない、というか理解が出来ないし、いわゆるスピリチュアルも面白いけれども何というか発展性がないというか、だからどうなのという感じがしてしまう。まあそれで幸せになる人がいるならそれはそれでいいと思うのだけど、自分の求めるものはそれではないと感じていたということなんだと思う。

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
光文社

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だからどちらかというと、無意識といってもアート系のものに心を引かれる。というのは、どんなインスピレーションも結局は無意識から来るものだからだ。当たり前だけど。その無意識が作品という形をとって現れたものがアートなのだから、その無意識が深いところから来るものもあれば意識に近いところから来るものもあり、そういうものをみているのは楽しくてしょうがないというところがある。私がマンガが好きなのも、文字だけでなく絵があるので言葉では表現できない微妙なものが表現され得るということがある。小説も、そういうものはもちろん嫌いではないが、本当の意味でそういう微妙なものが表現されている作品というのはそんなに多くないと思う。私が気がつかないだけかもしれないけれども。言語というのは文化的な差異が大きいから、たとえ翻訳でもその微妙な世界に分け入るまでには越えなければならないハードルがたくさんあるということなんだと思う。『カラマーゾフの兄弟』の、ドミートリーが発心するきっかけになった夢とか、いいなあと思うものはもちろんあるけれども。

ユダヤ人大富豪の教え〈2〉さらに幸せな金持ちになる12のレッスン (だいわ文庫)
本田 健
大和書房

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自分のいわゆる自己啓発法みたいなものに対する態度も上に書いてきたものと共通するものがある。大体潜在意識を利用してポジティブシンキングをして、みたいなものが多いわけだけど、書いている人自体が無意識というものをどうとらえているのか、というかどこまで深く考えているのかということによって、面白さはだいぶ変わってくるし、こういうことに関して書かれた本というのは、その人の品格が出るというか物凄く痛かったり臭かったりするものがとても多くて、私は基本的には近づきたくないと思ってきたものなのだ。しかし友人に勧められて、最初はイヤだなと思いつつ読んで見ると、案外面白いものが多い。自分で題名を見て買ったものは失敗するものが多いのだけれど、友人に勧められて読んでみたものはかなり確率が高い。本田健の本もずっとめちゃくちゃいかがわしい本だと思っていたが、まあもうはるか前にブームは過ぎ去ってしまったし、まあ話の種に読んでみてもいいか位の気持ちで読み始めて見ると、ずいぶん面白かったし考えさせられたのはここ数回のブログで書いたとおりだ。今まで読んだこの種の本の中でも、ベストの一冊かもしれないと思う。

それは何でなんだろうと考えて見ると、ロバート・キヨサキの『金持ち父さん』とかだと何というかアメリカ人的なあくの強さというか、なんでそれを当然のこととして言い切れるんだ?というような表現が多くて引っ掛かりが多いのだけど、本田健の本はそういうところをいちいち引っかかりにくいようにフォローしているし、説明がずっとわかりやすいという感じがする。また成功指南本には成功指南本のある種のあくの強い形式があるのだが、本田健の本はもっと透明感がある。いやもちろん本当に透明なわけではないが、そういう本よりも遠くをみている感じがする。何しろ成功指南本で、最終的には将来は「お金のない世界」になることを夢見る、という原始共産主義的なユートピアが語られるとは思わなかったのでちょっとびっくりしたのだ。そこまでついていく必要はないけれども、「遠く」があるとないとでは大違いなのだ。

占いなどが結構好きなのも、というか正確にいうと好きだったのもそういうことと関わりがある。でも誕生日とかで決まるものだと一義的に決まってしまうから変化の相を読み取れないのであまり面白くない。そう、わたしにとっては面白いか面白くないかが大事なので、信じるとか信じないとか言うことをあまり考えたことがない。要するに星座とかの占いは最初は面白いけどずっとはまる気にはなれない。すぐ飽きる。一方易占とか偶然性が左右するものは結構面白くてずっと毎日卦を立てていたのだけど、あるとき自分のネガティブな気持ちを肯定したり乗り越えたりするためにしか結局は使ってないなということに気がついて、あるときから占うのをやめにした。占いによって上手くそういう気持ちに向き合えるときもあるけれども、毎日毎日をポジティブな日なのかネガティブな日なのかを意識して送るのもいやになってきたからだ。

まあいろいろ書いてきたが、上に述べたようにわたしは無意識のことについての志向が無意識に相当強いということは事実だ。それもアートのように、何かを生み出す無意識の力というものに関心があるのだと思う。しかし人間の好き嫌いとか感情とか、物事を動かす力というのも本質的には無意識の世界から来るものなので、そういうものも調べて行けばもっといろいろなことがわかって来るし言えるのだろうと思う。

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