村上スピーチ三論
Posted at 09/02/23 PermaLink» Tweet
村上春樹のイェルサレム賞受賞スピーチ。二三日で沈静化するかと思ったらさにあらず、燎原の火の如くそこらじゅうからコメントの焔(ほむら)が立ち上がっている。彼のスピーチは、日本中のブロガー・日記作者のコメント欲に火を点けてしまったようだ。楽しい。書きたくてうずうずしてはいたのだけど、日曜日になってゆっくり書きましょう、という人がたくさんいたんじゃないかなと推測する。私もあれだけ書いたけれども、ネット環境とゆっくり物を調べ、考えられる東京の自宅に帰ってきたらまだまだ書くことがどんどん出てきた。まあせっかくなので考えるだけ考え、書けるだけ書いてしまおうと思う。
いま自分にとっての問題は、このスピーチの政治的な意味ではなくなった。それはもうさんざん考えたし議論してみた。今問題なのはこのスピーチの文学的な価値だ。それをもう少し考えて見たい。
そう思ったのは、昨夜「内田樹の研究室」でこちらとこちらのエントリを読んだからだ。自分で原文を読んだ感じと、また篤志の方の日本語訳で受けた感じよりも、はるかに豊かな内容を訳出している。これを読んだら確かにこのスピーチには文学的な価値があると思うし、自分の読みの浅さを反省させられる。
たとえばここの部分だ。
このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
なるほど。
私は自分が弱い人間であるという自覚はあるが、だからこそ強い人間になりたい、強くありたいと思うし、「人間の本態的な弱さ」というものにそんなに関心がなかった。人間というのは強いものだ、というか強さの側面を主に見ようとしていたとも言える。
「弱い」というのはやっぱりあまりよくないことだ。しかしその弱い自分を無意識のうちにフォローはしている。でも「自分の弱さ」にいらいらしているときは、「人の弱さ」にまで寛大になれない。それはやはり問題だ。私は弱い主人公が突飛な方法ではあるがある意味で強くなろうとしている『ねじまき鳥クロニクル』が彼の作品の中では一番好きだ。『海辺のカフカ』もある意味そういうところがある。それも嫌いではない。
『風の歌を聴け』にこういう台詞があるそうだ。というのは私は読んでいないからなのだけど。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
なんかこの台詞には賛同できない。というか、こういう考えからスタートしてしまうと、思考も物事も変な方向に行ってしまうと思う。でもこういう方向からスタートする文学はありえるだろう。ある意味太宰治っぽくもある。ああ三島もそういう部分があるな。いや川端もそうか。……日本近代文学の主流は「弱者の文学」か?
強いものによりそう文学に何の価値があるか。村上はそういうのだが、それには反論したくなる。弱いものが弱いままでいることに価値があるのではなく、弱いことを認めつつもそこから成長しようとすることに価値があるのではないかと。少なくともシステムをコントロールできる強さを身につけようとすることに村上は反対ではないだろう。それを志してシステムに取り込まれ、ミイラ取りがミイラになることを危惧はしているだろうけど。しかしやはりそこでそれを恐れていてはだめで、何かを取りに行かなくてはだめだろう。楽天的過ぎるといわれるかもしれないが、そこは根本的に楽天的でありたいと私は思う。
村上の読者には、そこで楽天的になれない、あるいはそこで楽天的になろうとすることを拒絶する人が多いのではないかなという気がする。なんだか「なれるわけないだろう」という声が聞こえてくる気がするが、なんでそう思うのかがむしろ不思議だ。まあとにかく、私が村上を読むときに越えなければならないポイント、我慢しつつ読まなければならない理由はそういうところにあるんだなあと書きながら思った。
しかし、「弱さは文学だけが扱うことができる特権的な主題である」という内田のテーゼには目が開かされた思いがするし、同意したい。逆に言えば文学とは自分の弱さをどうとらえてそれをどんなかたちで克服していくかということがその営為の本質であるということなのかもしれない。いや、「克服しない」という方向性も含めて。まあしかしそういう方向性から言えば本態的な弱さをメタファーによって指摘し、紛争当事者に対して「あなたたちだって弱い人間なんだ」と言い放つというかなり荒技をかけているということになる。文学的に面白いし政治的にも面白いといえば面白い。
それから次に。
私が小説を書く目的はただ一つです。それはひとつひとつの命をすくい上げ、それに光を当てることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです、『システム』にサーチライトを向けることです。『システム』が私たちのいのちを蜘蛛の巣に絡め取り、それを枯渇させるのを防ぐために。
小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。 そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。
"the uniqueness of each individual soul"を「ひとりひとりの命のかけがえのなさ」と訳したところがこの文での内田の訳の肝心なところだろう。
今日、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみな『システム』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。
"the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls"を 「自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性」と訳したところにポイントがある。
uniquenessとirreplaceabilityをほぼ同じように考えている。その「かけがえのなさ」、「代替不能性」というもの。これだけ読んだら何だか当たり前のことを言っているだけのような気がしてしまうが、内田は村上の父への言及とそのことを関連付けて、「一人一人に刻み付けられた表現することもできない物語」こそがその「かけがえのなさ」であり、「代替不能性」であると解釈しているのだ。それは村上の父の「父」自身はついに言葉にすることができず、それを抱え込んだまま死んだ父自身に空洞のように穿たれた「死の影」であり、それが村上自身にも影を落として、そしてそこまでは言っていないがおそらくはそれによって村上が物語を書くようになったのではないかと思う。というと語弊があるかもしれないが、父の魂に寄り添おうとして寄り添いきれてはいない、という個人的な苦しみ、つまり代替不能性を村上自身も抱えているということなのだろう。
村上が中華料理を食べることが出来ない、という話は衝撃的だった。彼は中国に対し、相当強い強迫観念を持っているのだろう。まあ私も含めて、多くの日本人が多かれ少なかれ持っていると思うが。最近の中国の台頭と江沢民らの反日行動で逆にその強迫観念から解き放たれつつあるのだけれど。まあ私もいやになったら物が喉を通らないというくらいのことはあるので(ないほうがいいが)その感覚は分かっちゃうのではあるが。だからといってやはり中国と敵対せざるを得ない場合はあると思う。そういう思考が「システム」側のものだってきっと批判されるんだろうけどね。
関連して引用されたブランショの言葉。
「神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。」
何かを言葉にしたとき、そこにあった何かはもう死んでいる。うーん、それは実感としてすごくわかる。でも私は懸命に、何かを言葉にしようとしている。もちろんそれは何かを殺すためではなく、何かを忘れてしまいたくないから書いているのだ。でもそれは花を摘んで花瓶に生けるようなもので、それを得るためにそれを殺してしまう部分は絶対にあるのだ。
言葉にできないものというのは、逆に言えばそれは不死の生命を持っている。そこでは逆に弱さは強さなのかもしれない。人が死んでも残る霊魂というのは、確かにそういうものかもしれないし、すべてのことを言葉にできたときに、人は輪廻転生の輪から解脱することが出来るということなのかもしれない。
***
しかしそれにしても、この内田の解釈は、この件に関連して読んだすべてのものの中で一番強いインパクトがあった。この訳の仕方が完全に妥当なのかどうか、それはちょっと言い切れない。しかし内田は村上の持つ物語―代替不能性というよりそういった方がなんとなく話が通じる気がする―を完全に理解しようとしているし、それに解釈者として、翻訳者としての自分の物語―魂といってもいい―それを文字通りぶつけて完全に読み取ろうとしている。二つの魂、二つの物語がぶつかり合い、激闘を繰り広げた結果がこの訳なのだと思う。そこに私は圧倒される。内田の物語が、村上の物語をはるか遠くまで届くようにしているのだ。
村上は、確かに取り組み甲斐のある相手だ。村上自身も、他のアメリカ作家とのコラボレートとも言える翻訳作品で、そうした魂をぶつけた仕事を繰り広げている。私は何度も言うが、翻訳家としての村上春樹は全く無条件で支持できる。
つまりは、かけがえのなさ、代替不能性というのを別の言葉で言えば「その人自身の物語」なのだ。そしてその中核に近い、あるいはそのものの部分にあるのが、「その人が逃れようとしても逃れられないその人固有の弱さ」なのだろう。逆に言えば、その人に「弱さ」がある限り、人には生きる力があり、その力の源泉を持っているといえるのではないかと思う。人は弱さを失ってはならない。いや失いようがないのだが、それを忘れてはならない。いや普段は忘れてないと生活はしにくいけど。しかし表現者であろうとするなら、少なくとも表現活動の現場にいるときには、忘れてはならないことなんだなと思う。
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