注意するとき・されるときの注意点/『ポトスライムの舟』/文学的な価値とは
Posted at 09/02/21 PermaLink» Comment(4)» Tweet
昨日の朝の雪はその後の雨と日照で融けて、今朝は路上にはほとんど残っていない。マイナス4度までは下がったが、おかげで路面は凍結することもなく、問題なく走れた。昨日は何度も雪かきをして大変ではあったが、やはりやっただけのことはあるんだなあと思う。
今朝少し仕事の話をして凹んだが、注意の仕方というのはそのままズバリというのはいけないんだなと言われる立場になって自覚する。野口晴哉『叱り方 誉め方』という本に、誉めるときは誉める相手の誉められたいと思っていることをズバリ誉めることが大事で、叱るときはそこから一定ずらしてしかることが肝要だ、と書いてあったが、これがちゃんとできるようになることが人を導くという仕事の上では大事なことだと改めて思う。
まあしかしそれで凹んだのは自分でも至らない点を感じたからなのだが、そのものズバリの注意の仕方ではそこから脱出するすべがない。注意される側もそういうときは考えすぎないことが重要だ。考えすぎると自分に対する自己否定感が強く起こってきてしまう。落ち込むことが大事だとかよく言うけれども、自己否定感というのはそれ自体によって立ち上がるきっかけにはならない。その経験が人の痛みを理解することにはつながるにしても、それ自体がプラスということにはならない。気分転換をすることとか、時間を置くことなどは考えるのをやめる技術なのだ。落ち込むことそのものからは解決策は見つからない。まずその凹みを治癒し、よりフラットに戻ったところで冷静に解決策を考えることによってのみ物事を解決していくことができる。この辺のところ、一度考え方をまとめてみるといいかもしれないな。「立ち直りの早い人」というのは、基本的に「考えるのをやめる」のが巧いのだ。だから凹みも少ないし立ち直るのも早い。結果的に解決策を考えて実行するのも早くなる。
ひまわりっ~健一レジェンド 9 (9) (モーニングKC)東村 アキコ講談社このアイテムの詳細を見る |
モーニング12号。東村アキコ『ひまわりっ』面白い。「説法ギャル瀬戸内ジャクソン」には大笑い。「ガラかめごっこ鬼熱いっスね」というセリフの意味が最初よくわからなかったが、それが「ガラスの仮面」の略であるということに気づいてまた感心。この人のセンスは独走態勢だなあと思う。
望月ミネタロウ「東京怪童」。最初気持ちの悪いマンガだなと思っていたが、だんだんすごく面白くなってきた。キャラクターがいちいち変で、で、絵が巧い。魅力的。雰囲気は現代のアヤシイ線だが、花輪和一みたいな感覚がかなりあり、花輪の異様さを現代青少年の病理を舞台に以上に巧い絵で表現しているような感じがする。展開が楽しみ。
***
ポトスライムの舟津村 記久子講談社このアイテムの詳細を見る |
津村記久子「ポトスライムの舟」読了。面白かった。いちおう2000年以降の芥川賞受賞作品は全部読んでいるが、類したものがない感じがする。関西のふんわりした感触。気負いも見栄もない感じが素直でいい。2000年以降の関西の作家では川上未映子みたいな過剰なゆえにシュール、という感覚の人はいても緻密な一つ一つの積み上げが耕して天に至るというか、構成の妙と日常的な感覚に宿るおかしみの掬い上げという点では似た作品はないように思った。
なんというか、構成がきちっとしていることは驚いた。製造業の派遣社員(大卒)の先の希望がほとんど見えないような日常のこまごましたことが羅列されていて「すわ『派遣村』チックな社会告発モノか」と早合点してしまいそうになるが、全然そういうものではない。選評で池澤夏樹が「小説は社会を表現するために書かれるのではない。生きた人間たちを書いて、結果として彼らが生きる社会が描かれる。そこで社会は背景であって主役ではない。」と書いていて、まさにその通りだと思った。これは一般論のようであるが、「ポストライムの舟」を評するのに最も適した言葉であると思う。なんだか地味な作品だという印象が強かったが、選者たちの評はみなおしなべて好意的である。やはりその「明るさ」(石原慎太郎)「不思議なぬくもり」(高樹のぶ子)「澄んだ水が正面から勢いよくぶつかって来るような読後感」(黒井千次)が好意的に受け取られているし、「機微のうねりを活写する手腕」(宮本輝)「行間を読ませようなどという洒落臭さはみじんもなく、書かれるべきことが切れ良く正確に書かれている」(山田詠美)という腕前の確かさが高く評価されているのだ。
最初にピースボートらしきNGOの世界一周ツアーに加わるために163万円貯めるというそう本気でもない(観念の世界では本気だが現実レベルの本気とはまた違い、彼女の年収と同額という偶然から「その気」になった)目標が出てきて、最後にもうその目標を忘れた頃に達成されてしまう、というような「やられた」と思うような伏線の張り方とその解決の仕方に読む側は絡め取られてしまう。つまりオーソドックスで巧みな物語の作り方なのだ。物語はちゃんと展開して行き、登場人物の心境も変化していくが、状況そのものはきっとそんなに変わりはしない、でも世界は動いていく。日常というものを日常そのものではなく、物語的にきちんと構成して語ることでより確かに日常を描くことに成功している。
「利休七則」に「花は野にあるやうに」とあるが、「野にあるやう」であることは「野にあるまま」ではない。茶席での花が「野にあるやう」であると感じさせるためには、それに即した演出をしなければならない。野にある花をそのまま持ってきていければ「野にあるやう」になるわけではない。同様に、「日常のような小説」とは日常をそのまま語ることではなく、さまざまなエピソードを工夫し、構成を施すことによって「日常のような小説」になるわけだ。考えてみれば年収と同額のツアーを見て心を引かれたからといってその額そのものが貯金をはじめる動機になるというのも論理的にみたらあまり意味がない。しかし何か行動を起こすきっかけというのはそんな些細な非論理的なものであることが多いという真実をうまく掬い取っている。
***
しかしこういう視点というのは必ずしも「文学的」ではないかもしれない。という発想が浮かんだ。そういうことを考えたのは村上春樹のエルサレム発言について、「社会的な意味はないかもしれないが、文学的には価値がある」という感想、批評を述べている人がかなり多かったからだ。「文学的には価値がある」というのはどういうことだろう。私は咄嗟にはその意味がよくわからなかった。
私はイェルサレム賞の授賞式でのスピーチということで、「ガザ攻撃(あるいは虐殺)」という現実が横たわっていることを前提に、社会的・政治的影響力をどう持ち得るかということしか考えなかったのだ。これがノーベル賞の授賞式のスピーチだったら、別にそんなことを考えないだろう。オルハン・パムクが「父のトランク」というスピーチをして、あれはとてもよかったと思うが、その政治的影響力については考えようとも思わない。しかしガザ攻撃に言及している以上、そのスピーチは限りなく非文学的な、政治的なものにならざるを得ないのではないか。という観念が先に立ち、そのスピーチの文学的価値というものがあるということすら考える気にならなかった。
というか、日本人以外にそういうことを考える人たちがどのくらいいただろう?文学者は考えるかもしれないが…日本人はそういう意味で、世界的な基準から見れば、おそろしく非政治的な思考をする人たちだといえるのではないか。このスピーチの文学的な意味?うーんそうか、考えてもみなかったよ。ユニークな発想だね。それがユニークでないのが日本という国なんだなと思う。
文学的な価値。うーん。『アンネの日記』でも、『ゼルマ・アイジンガー詩集』でもまずは政治的な意味を考えるよなあ、私なら。逆に古事記や日本書紀なら政治的な意味を考えるのもつまらないから文学的な意味を考えようとする。そういう思考が多くの人の方向性とどうも逆だということなんだな。まあ西欧人なら、古事記や日本書紀に対してもまずは政治的なことを考えるだろうから、私は彼らと同じでもない。でも、日本人のアイデンティティを考えるときにまずは政治的なことより本質的な意味を追究しようとするのはまっとうなことだと思う。民族のアイデンティティというものをそういう古典に求めようとしないのもまた、世界的な基準からみたら不可思議なことではないか。
結論から言えば、それこそが戦後民主主義教育の「精華」ということになるんだろうと思う。良くも悪くも戦後日本人の特殊性というものが、端的に現れている。日本人が世界でいちばんマナーのいいサッカーのサポーターであることと、それは多分共通するものがある。だから悪いことばかりではないと思うけど、不思議なことではある。
話がずれた。「文学的な価値」という言葉は当然、「文学とは何か」という問いの答えを指し示している。これを書きながら思い当たったのは、やはり利休の「花は野にあるやうに」だ。何かを文字によって描こうとするとき、その真実を伝えるためには事実そのものを書き出せばいいというわけではない。野の花が野にあるように表現するためには、さまざまな技巧をこらし、構成を考え、表現の仕方を工夫しなければならない。それによってうまく真実を伝ええるものになっている作品、それが「文学的な価値のある作品」なのだろう。
そうなると、「文学の発展」とは一体どういうことだろうか。文学の価値が真実を伝えることにあるならば、それを一段階解体すれば「伝える価値のある真実であるか」、「使う価値のある方法であるか」が重要になる。価値観そのものを基準とした離合集散は常にある。それは「何を描くか」という問題であり、今回の津村は「派遣」というかなり社会的な問題を扱い、前回の楊は「天安門事件とその後」というかなり政治的なテーマを扱った。その前の川上、諏訪はどちらかというと病理的なもの。芥川賞の候補に上ってくるのはそうしたある種アウトサイダー的なものをテーマにしたものが多い。伊藤たかみのときは「社会の底辺」的な存在がどちらかというとまだアウトサイダー的にとらえられていた気がするが、津村の派遣の存在はもっとインサイダー的になってきていて、そこらあたりにも時代の変化、社会の変化が見えてくる。伝えるべき価値は時代によって変わってきて、だからそこに文学の発展をみるとするならば、いかにその時代その時代の社会の本質を体現した存在を作品化できるかということにあることになるだろう。その価値のあるなしを量的にとらえることはかなり難しいことだ。発展といっても発展のグラフを書けるわけではない。
「使う方法の進歩」の方はまだ即物的だからとらえやすい。近年の受賞作家の顔ぶれを思いうかべながら考えても、津村の作品は実直に正確に事実や考えたことを写し取りながら巧みにそれを構成しているという小説の王道を行っている感じがある。阿部和重などはそうした意味ではプロっぽさが先に立ちすぎるし、技術的には未熟だなと感じさせる作品も散見される。今回の受賞作は王道を行きながら過度にプロっぽさを感じさせないという点で相当稀な作品かもしれない。そのあたりがかなりの達成度の高さを感じさせているということだろう。
さて、そうしてみると村上のスピーチの「文学的な価値」というのは何だろう。小説家は嘘をつくものだ、と彼は言う。そしてそれは真実をいうための嘘だと。そのあたりに異論はない。しかし村上は今日は「本当のことを言う」という。「真実を言うための嘘」でない「本当のこと」、というのは何を言うための「本当のこと」なんだろうか。「本当のこと」をいうための「本当のこと」ならばそれは「文学の方法」ではなく、「政治の方法」だと解釈するのが真っ当ではないだろうか。
彼は、「ぼくはあること(政治的なものも含むと考えていいだろう)に対する判断を超現実的な物語に移し変えて伝えることを好む」という。これこそが彼が「ここに来た理由」だと。であるならば超現実的な物語を通して――つまりそれが壁と卵ということなのだろうか――政治的なメッセージを伝えたということになる。つまり、ああそうか、その文学的な価値というのは卵であり壁というメタファーの使い方がどれだけ巧みか、ということだと考えていいのだろうか。あるいは父の話を持ち出したその使い方が読者の心への訴求力をどれだけ持ちえるか、と考えていいのだろうか。
うーんどうなのかなあ。これが村上というビッグネームだからすごいことを言っているような気がしてしまうかもしれないが、言ってることは実はすごくシンプルなことだ。そのメタファーの使い方もある意味ありふれている気がする。だからそこに価値が存在するとすれば、要するに好き嫌いなのではないか?村上シェフの料理がお口に合うかどうかということなのではないか?私は村上シェフの使っている香辛料の風味があんまり好きではないので、あんまりいいとは思わない。戦後民主主義風味。好きな人にはこたえられないんだろうなあ。どうもやっぱりそういう結論になってしまう。
このスピーチに別に価値がないとは思わない。でもそんなにすごい価値があるかどうかはどうかなと思う。好きな人は好きなんだろう。自分に合わない種類のエスニック料理の話題で盛り上っている人たちの興奮した話を聞いてるようなものなんだろう。もしそうならまあとりあえず口をつぐんで疎外されていればいいということなめり。価値があるかともし聞かれたら「さあどうだろう」と答えて場をしらけさせるKYということ。唇の寒い早春。「~っていいよね~!!!(興奮)」「へーそーなんだ―(フラットに)」
まあそれにしても、やっぱり村上は村上好きな人たちのある種の共同体を作り上げているからそのあたりはすごいといわざるを得ない。文学カリスマだ。文学カリスマとイスラエルの血のカリスマの対決と考えると、かみ合わないのもむべなるかなということにはなる。
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"注意するとき・されるときの注意点/『ポトスライムの舟』/文学的な価値とは"へのコメント
CommentData » Posted by Anonymous at 09/03/21
突然すみません。
きっと”政治的”ってのは
スピーチの言を借りるならば
とある一つの”壁”に立ち、発せられる言だと思います。
”政治的”発言は
”政治”に関わる内容の発言ではなく
”自分の政治的な立場を掲げてそれを擁護する”発言のことでしょう。
そうしてしまうと
村上春樹は”壁”の側にたってしまうと言っています。
”政治には政治で”相対するのでは
”壁には壁を”
”銃には銃を”
とかわらないでしょう。
現地の心に届かないと言われているのは
村上春樹が、現地で犠牲になっているパレスチナの側にたて!
という批判が多いようです。
だけれど、パレスチナに寄るってのは”政治的な”
仮に今攻撃にあっていたとしても”壁”の1つに寄るということに
なってしまいます。
そうじゃないんだ、自分の武器であるペンは”卵”のためのものだ。
パレスチナの犠牲になっている卵のために壁にたつのは
あらたな卵がつぶれる状況を作ってしまうんだ、そういう
スピーチでしょう。
政治、壁に相対するには
嘘をついたほうが暴きやすいんじゃないですかね。
そうじゃないと、どこかでなにかの片棒をかつがされることになる。
たしかに、文学ってそんなための武器である場合も状況下で
ありえることかもしれないけれど、それは不純だと思ったりもします
がね。
CommentData » Posted by kous37 at 09/03/21
なるほど。そのまとめ方はかなり適切なように思います。
村上の言いたいこと、やりたいことはほぼそういうことと解釈していいように思います。
私は『村上読み』ではないのでこのスピーチも彼の作品の文脈に沿って読んでいるわけではないので、このブログでもいくつものエントリでああでもないこうでもないと考えているのですが、文藝春秋に乗った彼のインタビューや彼の下書き原稿そのものを読んでみるとやはり一番肉声が伝わってきて腑に落ちる感じがします。
「何かの片棒を担ぎたくない」
というのはなるほどそうなんだろうと思います。それはわかるしすごく納得しました。それに賛成するかどうかはまた別の問題ですが。
ただ個人として、この状況を批判したい気持ちはやはりすごくよく分かりますよね。それはイスラエルに対する批判だけではない。現代史全体に対する批判にすらなりえることです。
ただ人間は状況の中で生きているわけですから、そのアプローチが本当に人を動かしうるのかということが私はすごく疑問に感じる点でもありました。
しかし最近では、どうであろうとやはり自分で正しいと思ったことをするしかないんだろうとも思います。こじれにこじれてはいますが、やはりパレスチナの地で両民族は共存していくべきだと私は思います。その形態がどうあるべきかは明確な答えを持っているわけではありませんが。
批判の矢はやはり主にイスラエルに対して突き刺さりはしますが、その射程がそこどまりでないことは分かる人にはわかったのではないかと思います。ただ、分からない人には分からないので非難する人が多く出るのもそれはそれで仕方ないかなとは思いますが。
少なくとも彼は良心に従って火中の栗を拾いに行ったのであって、それ以上でもそれ以下でもない。アピールのための戦略とかも特にはなかったのだろうと思います。そのよしあしはまた論じられるべきではありますが、彼自身の行動としてはあれしかなかったのかなという気が最近はしてきています。
CommentData » Posted by Anonymous at 09/03/22
>ただ人間は状況の中で生きているわけですから、
>そのアプローチが本当に人を動かしうるのか
>ということが私はすごく疑問に感じる点でもありました。
たしかにそれが文学の距離感なんでしょうね。
利を与えず利を求めず
さんざん嘘の世界でうまくまとめようと
銃口を前にしたらくちごもるかもしれない。
ただ、誰かに銃口を人に向けない知恵や
誰かに銃口をむけさせない魅力なんかを
遠回りですが授けることが文学にできたら、
なんてことは思ったりします。
政治は誰かから奪って誰かに与えるような
そんな実質的な効力がありすぎる気がします。
>しかし最近では、どうであろうとやはり自分で正しいと
>思ったことをするしかないんだろうとも思います。
>こじれにこじれてはいますが、
>やはりパレスチナの地で両民族は共存していくべきだと
>私は思います。
>その形態がどうあるべきかは明確な答えを
>持っているわけではありませんが。
僕ら日本人が市街戦なんていったってまったく想像の彼方である
わけで、僕らがしってるのは紫外線程度であって。
そんな差を無視して彼らのどちらかを断じたりするのは
いささか無理があるんですよね。
まったくべつの見地から言ったほうが説得力がある。
僕はその現地の負のスパイラルから外れた外野の極東の小説家の
どちらにも組しない発言、それがいいなと思ったりしたんですよね。
僕らのやりかたは外野のなにかを批判するのではなく
僕らの内部をより良くし、それを発信していく事以外にないんですよ
ね、やっぱり。
と思ったりします。
突然メッセージをお送りし、
単なる熱狂的村上ファンと思われたらどうしようと思いましたが
よかったです。
ありがとうございます。
CommentData » Posted by kous37 at 09/03/22
>僕ら日本人が市街戦なんていったってまったく想像の彼方である
>わけで、僕らがしってるのは紫外線程度であって。
>そんな差を無視して彼らのどちらかを断じたりするのは
>いささか無理があるんですよね。
全くその通りだと思います。それは、その批判者たちは「彼ら」をみているつもりにはなっているけれども、批判している「自分たち」をちゃんと見てないだろうという違和感があるからなんですよね。まず自分の頭の蝿を追え、と言いたくなります。人のことだから、半ば無責任に、自由に発言できると言うだけでは、つまらないですから。
>僕らのやりかたは外野のなにかを批判するのではなく
>僕らの内部をより良くし、それを発信していく事以外にないんですよ
>ね、やっぱり。
>と思ったりします。
うーんなるほど。僕の言いたかったこともほぼそういうことなんだと思います。
その通りだと思います。それがまだるっこしい面があるのは確かで、人はつい実効性を求めてしまう。しかし小手先の実効性では仮に表面的な効力があっても物事が根本的によい方向に向かう底流の流れを作り出すことは出来ない。
>政治は誰かから奪って誰かに与えるような
>そんな実質的な効力がありすぎる気がします。
うーん。それも全くその通りです。その「実質的な効力」を、人間はコントロールできると思い込んでいる。多くの人間は。しかしそれは本当は人間の驕りなんだと思います。人間は実際、先のコメントにも書いたように状況の中で生きていますから、とりあえずこの状況を変えたい、と思ってしまうわけで、そこに政治の出番があるわけですが、おっしゃるとおり政治は劇薬なので、実効性がありすぎる。パレスチナ問題も劇薬の投与のし過ぎで息も絶え絶えになっている状況ではあるでしょう。何とか自然治癒力を持たせたい。村上がやろうとしているのは迂遠には見えるけれどもそういうことなのかもしれないとanonymousさんのコメントを読みながら思いました。
>ただ、誰かに銃口を人に向けない知恵や
>誰かに銃口をむけさせない魅力なんかを
>遠回りですが授けることが文学にできたら、
>なんてことは思ったりします。
そうですよね。その通りだと思います。問題は実効性でなく、そのもっと底流にある「知恵」や「魅力」の部分。そこに文学の役割がある、というのは全くその通りだと思いました。
利を求めず、利を与えず。それが文学の距離感。
しばらくこのテーマについて考えていそうです。(笑)
利、というのは「実質的な効力」ということですよね。「実質的な効力」を求めず、与えず、もっと人間性の底にある「知恵」や「魅力」を涵養する。
本当は当たり前のことなのかもしれないけど、私の中でもわからなくなっていたことでした。
>突然メッセージをお送りし、
>単なる熱狂的村上ファンと思われたらどうしようと思いましたが
>よかったです。
>ありがとうございます。
こちらこそありがとうございました。
自分の中でわからなかったことがつながった思いがしました。
今後ともよろしくお願いします。