あら何ともなや:ああ何てことだ!/村上春樹のスピーチ:権力と卵
Posted at 09/02/17 PermaLink» Comment(6)» Tweet
16日月曜日。夕方街に出る。まず銀座線で銀座に出て。木村屋でパンをいろいろ見たけど買わなかった。教文館へ。能楽関係の本を探すがこれというものなし。八重洲ブックセンターまで歩く。8階の芸術のコーナーで謡曲の本を探す。檜書店『対訳で楽しむ』のシリーズで『安宅』『葵上』『敦盛』『融』の4冊を買った。
融 (対訳でたのしむ)世阿弥,三宅 晶子桧書店このアイテムの詳細を見る |
中でも楽しみだったのが『融』。私はなぜかこの河原左大臣源融という人が昔から好きで、豪勢な河原院を作って大阪湾の海水を運ばせ塩を焼いたというでたらめな贅沢も可笑しいが、死後屋敷が荒廃して変なものが出たり、融自身の幽霊が出たりしたという話も何だか好きだ。特にいいのは、『大鏡』に出て来る話で、陽成天皇が廃位に追い込まれた後、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」とのこのこと皇位につこうとしたという話だ。これは結局関白になる基経に臣籍降下した源氏が皇統を継承した例はないと退けられるが、このとき即位した光孝天皇のすぐあとにいったん源氏に下った宇多天皇が即位しているので、やっぱり基経に好まれてはいなかったんだろうなあと可笑しくなる。何というか、こういう「空気の読めなさ」みたいなものが平安貴族の世界では命取りだったのだろうけど、そういう人って何だかおかしみがあって私は好きだ。まあそういう人の中にはいろいろなタイプがあるが、伴善雄とか菅原道真とかもそういうところがある。まあみんな失脚してしまい、霊になって出て来る人たちではある。
まだ読みかけなのだけど、融の霊が前シテでは汐汲みの老人として現れてくるところが作劇上のポイントだと思う。高貴な(嵯峨天皇の皇子なのだから)融が世を忍ぶ仮の姿では卑しい、偽の塩田の汐を汲む老人として現れる。そこがもののあわれを誘うというか何だかすごくいい。汐汲みというのが何だかとてもいい。しかもその塩田が本物じゃない。二重三重にいいなあ。
松尾芭蕉の若いころの句に「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」というのがあるので、汐汲みの老人の台詞で「あら何ともなや」という台詞がでてきたときには笑った。しかも意味が「ああなんてことだ」というふうに訳されている。何ともあるじゃないか。江戸時代、しかも初期の元禄期にはもう今と同じ意味になっていたわけだ。能がそういうところにも浸透していたのだということがよくわかって面白い。まあ芭蕉は若いころ談林だし、また藤堂家に仕えていたのだから武家の式楽である能には一定の造詣はあっただろうなとは思うけれども。
京橋から日本橋に出る。中央通りに出ると紳士服のコナカがあった。こういうところのワゴンセールは結構掘り出し物があるのでのぞいてみると、何と紳士用靴下10本で1050円というお徳用詰め合わせみたいのがあって、即刻買った。最近の靴下は本当に穴が開きやすい。私の場合、親指が長いので親指の先、土踏まずのかかと側、親指の下のふくらみの部分、それからかかととアキレス腱の靴に触れる部分と、本当にあちこちから穴が開く。気に入った色やデザインのものを買ってもすぐ穴が開いてしまうので、もうどうでもいいときはこういうのでなるべくしのぐのもいいかもしれないとおもった。大体地味な色とデザインだが、全然ダメということもない。
花に習う (別冊太陽)川瀬 敏郎平凡社このアイテムの詳細を見る |
日本橋に出る。そのまままっすぐプレッセに行くつもりだったが、思いなおして丸善により、いけばなの本を物色。結局別冊太陽の『川瀬敏郎 花に習う』(平凡社、2007)というのを買った。川瀬敏郎の本はどれも面白そうだが、やはり最近に来れば来るほどいいような気がする。
プレッセで夕食の買い物。チョコレートを一つ買おうと思ったが、リッタースポーツのラムレーズンがなく、アシュモアーズストロベリーアンドダークチョコレートというのを買った。チョコレートの中に乾燥イチゴが入っているのだが、日本ならイチゴ大福みたいに柔らかくしたり生のまま使ったりするだろうと思う。オーストラリアの製品だが、そういうところが非日本的だなと思う。それから惣菜で炒り豆腐というのを初めて買ったが、これが美味かった。先日炊飯器が壊れて以来、東京の家では土鍋でご飯を炊いているのだが、その味によく合う。今度自分でもやってみようかな。
能・狂言の基礎知識 (角川選書)石井 倫子角川学芸出版このアイテムの詳細を見る |
帰ってきて、石井倫子『能・狂言の基礎知識』(角川選書、2009)を読む。読んでいるといろいろ発見があって面白かったが、中でも秀吉をはじめ能に熱中した武将がたくさんいたという話は面白かった。秀吉の話は聞いたことがあった気がしたが、徳川将軍も能に熱中し、六代家宣などは能役者であった間辺詮房を側近にまで取り立てた、というくだりは、今まで彼が能役者であることにそんなに意味があると思っていなかったため、なるほどそういう側面からも歴史は見るべきなんだなと腑に落ちるものがあった。また狂言も明治以降大蔵・鷺・和泉の三流とも家元が一度断絶しているということは初めて知ったので新鮮な驚きを感じた。(鷺流は断絶)和泉家をめぐる混乱も、淵源はその当たりにあるのだろうか。
***
授賞式のスピーチで「人間を壊れやすい卵、制度を壁にたとえ「固い、高い壁があり、それに1個の卵がぶつかって壊れるとき、どんなに壁が正しくても、どんなに卵が間違っていても、わたしは卵の側に立つ。なぜならば、わたしたち1人1人は1個の卵であり、ひとつしか存在しない、壊れやすい殻に入った精神だからだ。わたしたちが立ち向かっているのは高い壁であり、その壁とは制度だ」と語った。」そうだ。
朝日新聞ではパレスチナを卵に、イスラエルの軍事政策を高い壁に喩えたと書いているが、これを読んだかぎりではあくまで一般論として「個人が権力の高い壁の脅威にさらされたとき、どんな場合でも個人の側に立つ」という意思表明をしているに過ぎない。「どんなに壁が正しくても、どんなに卵が間違っていても」という部分にイスラエルでこのようなスピーチをする村上の工夫と苦衷があるわけだが、このスピーチは世界的に見てどのように評価されるのだろうか。ネットで見た限り海外での報道はあまりないのでよくわからないが、テレビの画面で見る限りではマスコミは決して少なくはない。これから少しずつ反応が明らかになっていくだろう。
しかしこの「どんなに壁が正しくても」という言葉には、図らずも村上の本質が現れているように思った。いかなる場合でも、彼は権力の側には立たないという宣言なのだ。これは現代においてはアナクロニズムとも取れないことはない。少年が青年になり、大人になることによって多かれ少なかれ権力や権力の意思の形成、あるいは発動に関与していく。村上という世界的な存在は多かれ少なかれ権力的であるともいえる。彼の発言で多くの人が右往左往するところはある意味小泉元首相のような影響力である。しかし影響力と権力というものは峻別しなければならないところもある。少なくとも村上は、それを峻別しようとしているし、あくまで峻別し続けるのだと宣言したのだろう。そして自らの影響力を行使することによってでも、権力を批判し、少しでも政策決定の方向性に影響を与えられればと判断したのだろうと思う。近年の村上の政治へのコミットメントの方向性の上にある、日本のみでなく世界の権力機関に対する意思表示である。
さてしかし、ということは村上は、絶対に権力の側に、権力の意思形成に少しでもタッチし、権力の発動に少しでも関わらざるを得ない大半の大人たちの側には立たないということになる。これは一つの方向性の選択ではあるし、村上という人はそういう人だと思ってはいたけれども、改めて村上は「永遠の青年の文学」なのだと思った。彼は、「権力者の悲しみ」であるとか、あえて権力の側に立つことを選択した多くの人々の側には立たず、常に批判の目を彼らの側に送っている。
もちろんそれが悪いわけではない。作家というものは数多く存在するのだから、その中のワンノブゼムである村上春樹がそういう選択をする意義は評価すべきだと思う。また個人の自由をテーマにする以上、それ以外の選択肢はないのかもしれない。
さて書いているうちに私が村上春樹に何を期待し、村上春樹の何を批判したいのかわからなくなってきた。自分の中には、確かに村上に対する批判もあるし、また村上にもっとやれと応援したい気持ちもある。世俗的なことで言えばこの流れがノーベル文学賞受賞にプラスの影響を与えるとよいと思う一方で、村上が翻訳は面白いけれども彼自身の小説は無条件には受け入れられないのを感じるその理由がはっきりしたと感じる部分もあるのだ。
壁の前にある卵は、ある種の異物だ。卵は壁の前ではなく、鳥たちの巣の中にあるべきものだ。村上という作家は、世界の当たり前の姿を描くのではなく、ある種の異常な世界を描く作家なのだということもそう考えてみればよくわかる。彼の登場人物たちは感情移入が出来そうで実はそれをするとわけがわからなくなるところがある。すべすべした金属的な光沢を持つ人間というよりは人間に似た何かに近いという感触がある。そのある種のサイバーパンク的な魅力が人を毒するようなところがある。文学というのは毒のあるものだが、村上の毒というのは他にない、一種独特な毒だ。結局その毒の正体が何であるのか、まだだれにもわからないのだと思う。だから彼の評価にはいまだに極端なブレがあるのだろう。
もっと村上の世界は研究されていかなければならない。結論としては平凡だが、そんなことを思った。
***
追加。読売新聞のサイトでは、「壁は高く勝利が絶望的に見えることもあるが、我々はシステムに利用されてはならない。我々がシステムの主人なのだ」という言葉が出てきた。これはすごく共感できる。ニュースで取り上げられたスピーチに対する感想というのはやはり一筋縄では行かないものがある。どこかで全文を読めないものか。
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"あら何ともなや:ああ何てことだ!/村上春樹のスピーチ:権力と卵"へのコメント
CommentData » Posted by shakti at 09/02/17
>ということは村上は、絶対に権力の側に、権力の意思形成に少しでもタッチし、権力の発動に少しでも関わらざるを得ない大半の大人たちの側には立たないということになる。これは一つの方向性の選択ではあるし、村上という人はそういう人だと思ってはいたけれども、改めて村上は「永遠の青年の文学」なのだと思った。彼は、「権力者の悲しみ」であるとか、あえて権力の側に立つことを選択した多くの人々の側には立たず、常に批判の目を彼らの側に送っている。
同感です。
そして、考えてみると、村上の文学作品のなかでは老人があまりいないような印象を受けます。もちろん全くないわけではないですが、中高年権力者みたいのは、記憶がない。少年カフカの殺されたお父さんなんかは権力者かもしれないが、ほとんど具体的な人物像が浮かび上がることはない。(権力者も青年から中年という感じではないでしょうか)。村上は60を超えて、老人をもっと積極的に描くようになるのでしょうか?
ところでエレサレム賞の受賞者にはCoetzeeがいました。彼などは「権力者の悲しみ」を描いた作家といえました。(『野蛮人を待ちながら』etc)。
CommentData » Posted by kous37 at 09/02/17
村上の作品がある意味爽やかであり、ある意味畸形的な感じがするのは人間世界に必ずある権力というものの存在に『手触り』がないからんだんだと思います。『ねじまき鳥』に出てくる権力・妻の兄も具体性のない怪物的なものだし、皮剥ぎボリスとかもただ気違いじみたまさに「壁」のような存在です。
彼にとって権力というのは人間ではなく、まさに非人間的な『壁』でしかない。しかし考えてみれば、彼の描いている個人もまた非人間的な『卵』でしかないのかもしれないと思いました。まさにカフカ的な世界ですが。
・・・考えてみたら、村上というのはカフカと同じくらいには不条理文学の作家なんですね。見かけとは違って。そのあたりが色濃く現れるのが短篇で、だからこそ彼の短篇はわかりにくいのでしょうね。
CommentData » Posted by しゃkち at 09/02/19
ちょっと考えてみて思ったのですが、システムと歴史の人間化の試みが司馬遼太郎を中心とする日本語でした。歴史を作る人間たちといって良いのではと思います。サルトル世代とも言えますね。
ムカラミはその対極にあります。システムを権力者という人間にひきつけるのではなく、あくまでもシステムとして温存しつつ、それに対置する人間を描いた。ううん、こう考えると、構造主義世代じゃあないですか。
実存主義vs構造主義
良いんですか。こういうまとめ方で???
CommentData » Posted by kous37 at 09/02/19
うーんなるほど。そうかもしれません。
しかし構造主義的に考えると、システムというのは人間個人の力で克服できるものなんでしょうかね。それを呼びかけるということにどういう意味があるんだろうか。
まあいずれにしても、現在のシステムを否定したところで新しいシステムを作り出さなければ物事は動いていかない。それについてどう考えるのか。作る側には参加せず、常に批判者の側にいるべきだとしているんだろうか。
そのあたりが永遠の青年性を感じさせるのでしょう。
CommentData » Posted by shakti at 09/02/19
村上は、ここで人間が壁を作ったと言っていますよね。つまり、壁は神の意思や意図みたいなものじゃないんだ。あくまでも人間の作為が具体化したものなんですよね。
神様をだしてくれば、楽なのに(笑)
CommentData » Posted by kous37 at 09/02/19
人間の作ったものが怪物化する不条理性。
その不条理を不条理として描くのが作家というものか。
神が出てきたら、あらゆる社会体制を神の意志と説く中世カトリック教会になってしまいますね。それに反発するのが西欧近代ですが、イスラエルに関しては村上が立ち向かおうとしているのはわりと近いものなのかとも思いますけどね。システムといっても、かなり神学的なものとはいえませんかね。ことイスラエルに関してですが。(ほかのものもそういう要素はあるかもしれないけど)