雪かきを繰り返す/自分を笑う

Posted at 09/01/09

今日は朝からずっと雪が降っている。ときどき小降りになるし、時には止む。それに気温もあまり低くないので、ところどころ融けていたりするのだけど、場所によってはずいぶん積もっている。朝から何度も雪かきに出ている。実家の前、今私のいる場所の前、職場。止みかけて、これでもう大丈夫だろうと思って念入りに雪をどけておくと、またそのあとから雪が降って、の繰り返し。夜間に凍結すると嫌なので昼のうちにすべて終わらして起きたかったのだが、まだ降っているしもう仕事なので雪をどかす暇がない。結局は明日の朝は面倒そうだ。明日は晴れるという予報だが、朝からだとすると放射冷却が予想されるし、それだとマイナス10度くらいまで下がる可能性があるので、凍結はもう仕方がない感じになる。やはり南信とはいえ長野県、東京と同じようには行かない。朝から何度も雪かきをして上半身が疲れている。腰はそんなに大変でもないので、少しは要領が良くなったのかも。

最近、職場への往復を車でしている。歩いても10分強だから歩いてもいいのだが、荷物を持ち運ぶのに気を使わないで済むのでつい車を使う。歩かないから運動不足になる面もあるのだが、雪かきをしたりすれば運動不足にはならないなあ。しかし職場の駐車場が野天なので10時頃の帰宅時間にはフロントガラスが凍結していてそれを溶かすのに少し時間がかかる。それでフロントガラスのカバーを買うことにして、綿半に出かけた。雪のせいか店内が空いていてレジが早くていい。

夜はやさし(上) (角川文庫)
フィツジェラルド
角川グループパブリッシング

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今週はずっと郷里にいるので都心の大型書店に行けず、新しい本が手に入らないので「読書日照り」の状態。具体的にこれが読みたいというものもなく、探す当てもない。まあそれでも何かあるかと思い、最低村上春樹ならどこでもあるのでそういうものでもいいかと思いながら文教堂まで行く。ぐるっと見渡して角川文庫のコーナーでフィッツジェラルドの『夜はやさし』が目に入り、しばし立ち読み。読みやすい。村上春樹の訳ほどタイトな緊張感があるわけではないが、昔の名作文庫を読むときのような違和感が少ない。村上訳もそうだが、光文社の古典新訳文庫が売れ行きを伸ばしていることの影響もあるのだろうか。奥付を見ると1960年発行のものに修正を加えているという。どの程度の修正なのか分らないが、読んだ感じではかなり修正が加えられているように思った。まだ上の11ページだが。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (2服) (モーニングKC (1512))
山田 芳裕
講談社

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『へうげもの』をつい何度も読み直してしまう。織豊政権期の数寄者の世界。今とは異なる価値観を、かなりうまく表現しているように思う。

読んでいて、「笑い」というものの意味というか価値について色々思いをめぐらせた。「ひょうげた」者たちの世界で「笑い」は重要だ。相手を笑えるのはそれを許しあえる数寄者同士の連帯感が必要だし、それ以上に自分を笑える器の大きさが清々しさを得るためには必要なんだなということが良く分る。古田織部と荒木道糞のやり取りなどは何度読んでもおかしくて仕方がない。そして確かに清々しさがある。今日そういう価値観を自分自身にあてはめられるような出来事が合って、ああなるほどこういうことかと思った。

自分を捨てる、と言うとプライドを捨てて自分を蔑ろにしなければいけないことと思ってしまうが、自分を捨てるというのはそういうことではないんだなと。自分を笑う、というのは自己卑下、自虐だと思ってしまうが、そういうことではないんだなと。プライドとか重さとか価値観とか、そういうものから一時笑いの力によってはなれること。それによって、自分がいつも背負って歩いているものから解き放たれて、それが清々しさを生むのだなと思った。それによって自分を客観的に見ることもできるし、人に対してもまた自分の先入観から離れてみることができる。それによって自分自身の価値観やプライドもまた洗われて清新なものになり、いきいきと生きることができる。自分を笑う笑いは、そういう手段として存在するのだ。

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by Luke Peterson

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