「敢えて言おう、カスであると」:『機動戦士ガンダム』を初めて見た

Posted at 09/01/02

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『機動戦士ガンダム』を初めて見た。とはいっても、元日にテレビ神奈川でやっていた劇場版の一気放映で、「Ⅲ」の後半部分をたまたま見た、というだけである。今までもときどきそうした再放送をやっているのをちらっと見たことはあったが、敢えて見ようとは思わなかったので、そのままほとんど縁がないまま来ていたのだ。

しかし、最近あちこちで『ガンダム』のパロディを見ていて、どうも元ネタがわからないとどういうパロディなのか自体がわからなくて困るな、と思うことが多かった。もちろんそういうパロディ自体も昔からたくさんあって、ガンダムのパロディであること自体はわかるが何を言いたいのかさして知りたくもないという反応を装ってきたので、まあいえば知ること自体を我慢してきたのである。『ガンダム』をはじめとする「大衆化されたSF」と一線を画すことが自分のアイデンティティの一つ、みたいなことを多分あの頃思っていて、それが今までずっと尾を引いてきていたのだけど、まああんまりそういうこと自体に意味がないし、むしろそれが自分の限界を画すことになるのではないかと最近思うようになってきたのである。『スターウォーズ』はみないが、『2001年宇宙の旅』は絶賛する、みたいな意味でのスノッブが、もう時代遅れというか、いやもともとそんなものはポーズだけにしておいて十分だったんだけど本気でやってた馬鹿なのだ。

まあそういうわけで初めて『ガンダム』を見たのだが、最初はなかなかどういうものなのだかつかめない。途中からだから当たり前だが。しかし、それまでの『マジンガーZ』とか『仮面ライダー』、『新造人間キャシャーン』などとは扱っているテーマが違う。『宇宙戦艦ヤマト』にはやや近いものがあるか。『ダイヤモンド・アイ』とか『バロムワン』『レインボーマン』などのやや怪しい半分宗教がかった系のものとかが私はどちらかというと好きだったのだけど、『ガンダム』以降はそういうものはもうなくなったな。思春期の疾風怒濤第二の誕生みたいなものがアニメに持ち込まれるという意味ではつまりそういうところが『ガンダム』の画期的な部分、ある種の文学性が持ち込まれているということなのかもしれない。

これは多分『スターウォーズ』の影響が大きいんだろう。見てないからなんともいえないが、これもSFに「親子の葛藤」という文学の永遠のテーマみたいなものを持ち込んだところが画期的だったのだと思う。SFというのは宇宙の神秘とか、人間と科学技術の限界、侵してはならない神聖な空間としての宇宙、みたいなものを描くべきだという信念のようなものが私にはあって、SFを使ってそういう人間臭いものを描こうという発想自体が唾棄すべきものだと思っている部分が私にはある。いや、「ある」ということを今書きながら発見したので、ようやくガンダムやスターウォーズを避けてきた理由がわかったのだが、すごく「人間的」なのだ。どうも私はあまり「人間的」なドラマというものは、こそばゆくて苦手なのだ。宇宙は神秘だよー、人間なんてちっぽけなものさ、っていって欲しいんだなSFには。

『ガンダム』にはいろいろなテーマや設定、発想が絡み合っているし、絵も当時としてはかなり画期的な部分が多いのだということは見ていて感じた。戦闘シーンをアニメであれだけリアルに描くということはそれまでなかっただろう。アニメの戦闘シーンを見て「死ぬかもしれない」という恐怖を感じることなどそれまでの子供向けアニメではなかった。歌舞伎と同じく、「お約束」の世界だったから。そういう意味ではそれが初めて出て来たときは「反則」だったのではないかと思う。しかしその反則がアニメの新しい地平を開いたということなのではないかと思う。

最もよくネタに使われている「敢えて言おう、カスであると」という言葉が出てきて「ああこれか」と思ったが、別にフューチャーされているわけでもないああいう台詞がこれだけ人口に膾炙するということは、いかにガンダムを熱愛した人たちが多いかということを示しているんだなと改めて感心する。シャア専用だの、ニュータイプだの、「連邦」だのというガンダムを知らなければ理解不能な言葉が一時ネットに氾濫していたが、ネットに先行的に親しんだ人たちとそういう人たちが深く重なり合っているのだということもよく分かった。現在のようにネット自体が大衆化してくるとかなり雰囲気は違ってくるが、マンガを読んでいるとそういうものはよく出てくるし、今旬の漫画家は多くがガンダムの影響を受けてるんだなということがよく分かる。

やはり一番画期的であったことは、戦うことの「カッコよさ」と「悲惨さ」というものを1982年という時点であれだけ描いたということだと思う。社会全体の雰囲気としてまだまだ左翼的な雰囲気が強く、1980年の大平首相の急死までは自民党は過半数割れの危機に見舞われ、社会党や共産党の発言力、左翼的文化人の発言力も今とは比べ物にならないほど強力だった。特に教育界やアカデミズム、ジャーナリズム、社会的な論壇においては猛威を振るっていたといっていい。教科書問題や従軍慰安婦問題、南京事件問題などが矢継ぎ早に取り上げられて攻撃が繰り返されていたのがこの時期だ。そんな中で戦うことのカッコよさを描いたこの作品は、ある意味敵視されていたと思う。私がこの作品を見なかったのも、部分的にはそういう論調に影響されたのもあったかもしれない。

今でもよく覚えているが、戸川純の特集を組むような雑誌でガンダムを批判する論調のコラムが載っていて、「愛するもののために戦うという発想は危険だ」と書かれていた。ふうん、愛するもののために戦うというアニメなんだ、と思った覚えがある。今思うと何だか頓珍漢ではあるのだが、そういう人々が当時どういう危機感を感じたのかは分かる。「ニュータイプは戦うための道具ではないがそういう状況ではそうなってしまう」というようなテーマは、当時相当めちゃくちゃに空想的な平和主義的妄想に取り付かれていた人々にとっては十分危険だったのだ。まあそれまで子供向けのSFアニメを相手をするまでもないと思っていた人たちも、ガンダムには多分危機感を感じたのだろう。オルグ対象が一斉に去っていくきっかけになったのだろうから。

戦争の背後にはワルイ一族がいて、それらが滅びれば平和になる、という構造自体はどうかと思う面はなくはないが、まあそういう全体の構造をはっきりさせておかないとこれだけ複雑なものは印象が不鮮明になってしまうので仕方のないことなのだろう。その程度のファシズム批判がなければバランスは取れなかったんだろうと思う。『宇宙戦艦ヤマト』とも共通するところだが。

まあそういう意味でいろいろ画期的な作品だなあと思うが、やはりある種の妄想のようなものが世界観を支え、また画面的にも妄想を育むものはたくさんあるように思った。台詞のやり取りも演劇的なテクニックがかなり使われているし、ドラマの盛り上げ方は巧妙だ。その「つくりもの性」が支えている「世界」があって、そこには多種多様な妄想や欲望を託す、投入することが出来る。宇宙服の女性をあんなに色っぽく描いた作品はそれまでなかっただろう。平面の女性にしか萌えない、というようなことはそれまでのアニメでは少し考えにくい。相当特殊な人でなければ。しかしガンダムのあの描写なら、萌えるという可能性は普通の人の中にも相当共感できるものを感じるのではないかと思う。思春期の性的妄想までぶち込めるアニメというのは、多分相当画期的だった。私は当時三次元方面にのめりこんでいたのでそういうものが特に必要でなかったという部分も、私がガンダムに近づかなかった理由としては大きいのだろう。もし私が1982年の時点で中学生だったら、どうなっていたかわからないなあと思う。いわゆる「おたく」の世界を生み出す画期としてもこの作品は相当大きいのだろうなあと思った。

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