世界の見方

Posted at 08/12/21

昨日帰京。引き続きあまり腹の調子がよくないので、不調。夜は早めに寝るも、寝る前にパンを二つ食べてしまったせいか、今日は朝起きてからまだなんとなくおかしい。あまり食べないようにしているのだけど、我慢しているという気持ちが強いせいか、気を抜くとついたくさん食べてしまって後で後悔する。減食しているときはいつもそういう風になりがちだ。食べるということを我慢することは、なかなか難しい。たとえ体調がかかっているときでさえ。ダイエットで心身ともに変調を来たすお嬢さんたちの苦闘が最近少しはわかってきた。あんまり分かりたいものでもなかったが。

体調が優れないもんだからどうも何も余り手に付かずに、テレビをよく見ていた。午前中は久しぶりに『新日曜美術館』をほとんど見る。今日は佐伯祐三。佐伯といえば知っていることは二つ、中学のときだったか教科書に出てきた『郵便配達夫』の絵と『ギャラリーフェイク』に出て来たブラマンクとの出会いのエピソード。その二つとも取り上げられていた。

パリで絵を描き始めた佐伯が自作を持ってブラマンクに会いに行ったら、「このアカデミーめ!」と1時間以上罵倒され続けたという話。そのショックをきっかけに佐伯の絵は全く変わったという。佐伯はほとんど風景画を描き続けたが、最後の作品だけが精神病院にはいった後に手紙を届けてくれる郵便配達夫を描いたものだったということ。佐伯の絵で、最もよく覚えているのはこの絵なのだが、どの特集を読んだり見たりしてもこの作品が取り上げられていないので不思議だったのだけど、まさか絶筆だったとは思わなかった。でもやはりそれだけのことはあるんだなと思う。やはり異様に印象に残る絵だったから。

高橋源一郎がゲストで、「画家は私たち普通の人間とは違う世界の見方をしている」という話をしていて、はたと膝を打った。確かにそうなのだ。画家だけでなく芸術家というものは、常識的でない世界の見方をしていて、それが本質に迫るものであればあるだけ、私たち鑑賞者を感動させる。いわばそれが芸術家の「世界観」だ。その世界観はさまざまなものがあり、それは場合によっては非常に問題のあるものだったりすることもあるわけで、オウム的な破壊的なもの、バモイドオキ神的な異常なものである可能性もある。やっぱり芸術家の世界観というものは場合によってはそういう電波的なものであったり限りなくそれに近かったりする可能性もあるわけなんだけど、でもそうであることを恐れていては本質に近づけないということもあるようにも思う。しかし、なんでもないものに美を見出したり、気がつかないところに美を見出したりするのはやはりその芸術かなりの世界の見方があったればこそであって、そういうことを教えられたときに私たちは世界の深さに気づくわけで、教えられることは多いのだ。

午後は高校駅伝をなんとなく見ていた。長野県代表の佐久長聖が前評判どおり優勝。いつも下馬評は高かったけど優勝はなかっただけに、快挙だと思う。

午後遅くになって、神保町に出かけることにする。外に出るともう夕闇が迫っていて、深い群青の空に雲が浮かんでいて、とても深くてきれいな空だった。その空の中に吸い込まれていくような気持ちで空を見上げながら歩く。三省堂で深井晃子『ファッションの世紀』(平凡社、2005)を買う。ファッションとアートの関係を書いてあるのだが、どうも思っていたのと内容が違う感じがする。

ファッションの世紀―共振する20世紀のファッションとアート
深井 晃子
平凡社

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すずらん通りをそぞろ歩いていたら文房堂の隣のカラオケ屋の一階でクラブ世界選手権のガンバの試合をやっていた。文房堂の中をのぞき、またブックマートの中をのぞいて降りてきたらちょうど試合が終わり、ガンバが勝利したところだった。マンUに対してもとてもいい試合をしていたから、この結果はあるかもしれないと思っていたが、この大会は日本のサッカーを変えることになるかもしれない重要な試合なのではないかと思った。あのマンUの選手たちの、信じられないような速さに対して、ガンバは3点取ったわけで、世界との距離が完全に絶対的なものではないということをつかんだと思う。そうなれば、日本にもルーニーやロナウドのような天才的な選手が現れる可能性がでてくるのではないかという気がする。それがいつになるのかはまだわからないが。

帰ってきて食事を済ませてから、マンチェスターユナイテッドとリガ・デ・キトのファイナルを見る。キトはかなり善戦していたが、前評判どおり結局マンUが勝った。クラブの試合はナショナルチームの試合とはまた違う面白さがあるなと思う。

帰りの電車の中で、自分の世界の見方とはどんなものなんだろうと思う。考えているうちに、昔はわりと純粋に持っていた世界の見方のようなものが、何だかいくつものものを抱え込んでいって、そしてそのお互いが矛盾していて、世界を焦点をあわせて見られないようになっているのではないかと思った。単純に昔は左翼的な、進歩的な見方も単純に受け入れている部分もあったのだけど、今は保守的・伝統的な立場に立っていて、でも感覚的にはやはり今までのそういう部分も消えておらず、世界の見方に撞着を起こしてしまっている部分がある。あれもわかるしこれもわかる、それでは自分の見方はどうなんだといわれると、どれが自分の見方なんだかわからない。だんだんいろいろな現実を受けれいれていくうちに、自分の感じ方そのものがわけが分からなくなって行って、自分自身がある種の鵺的なものになっているのだなと思った。その状態から脱することは出来るんだろうか。純粋性を取りもどすことが必要なのか、それともそうしたさまざまなものを清濁併せ呑めるより大きな度量を持つことを目指すべきなのか。

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