目利き、あるいは見巧者

Posted at 08/12/19

昨日。松本のほうで仕事、帰ってきて郷里で仕事。どうも胃の調子が万全でない。なるべく食べないことと、ストレスをかけないことを意識する。

今朝はわりあい調子が良かったので安心していたのだが、車を借りて文教堂、平安堂、蔦屋と書店を三つ梯子をしたらまた胃がおかしくなってきた。その傾向は感じてはいたが、どうも車の運転がかなりストレスがかかっているということが見えてきた。しばらく運転は必要最小限にして、体調の回復を待たないといけないなあと思う。

まあ振り返ってみると、運転しているときには自分でもおかしいくらい肩に力が入っているので、そういうことが影響しているんだろうと思う。もっとリラックスして運転できるようにいろいろ工夫していく必要があるんだろうと思う。

文教堂では探していた『破天』を見つけ、父に買っていくことにした。平安堂では25000分の1の地形図を二枚買った。蔦屋では『フィガロ』の新しい号を買う。

madame FIGARO japon (フィガロ ジャポン) 2009年 1/20号 [雑誌]

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自分が自分であることとはどういうことなのか、今まであまり確信が持てなかったが、絵や演劇や舞台や映画や、あるいはファッションや、そういうものを見ること、好きなものを見たり手に入れたり弄んだり考えたりしているときが一番自分なのだということがはっきりした。自分が自分であることを深めていくことは、つまりそれらのものを見る目を深めていくことであり、目利き、あるいは見巧者として修練を積んでいくことに、自分が自分であることを一番感じる、ということを自覚した。その他のことは多分、すべて付属的なことなのだろう。面白いこと、興味を持てることはたくさんあるけれども、やはり「見る」ということに最後には帰ってくる。白洲正子や小林秀雄に惹かれたのも、彼らが目利きであり、見巧者であったからだと思う。好きなものはもちろん彼らとは違うが、やはりそういう意味で先達なのだと思った。

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by Luke Peterson

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