東京モード学園コクーンタワー/「アル中の震え」と言う名のビール/資本主義の一番まずいところ

Posted at 08/12/07

土曜日夜帰京。信州を発つときの気温はマイナス0.2度で、これはさすがに寒いなと思っていたが、東京について見ると9度でこれもかなり寒かった。昨夜はどうも疲れていて、12時前に寝てしまった。

今朝は7時前に目が覚めて、午前中はそれなりにいろいろやっていたつもりだったが、どうも調子が出ずに10時過ぎに買い物に行き、12時前にパンをいくつか食べて、午後はまた着替えて寝た。3時ごろ起きだす。そういえば無理に昼間寝たときの不快感がなかったから、本当に睡眠が必要だったんだなと思う。起き出してからクリーニングを出しに行って、そのまま駅に向かった。遠出するつもりでなく外へ出てしまったので携帯を忘れた。

東陽町で電車に乗ってからどこに行くか考えて、銀座よりも新宿に出来たというブックファーストに行くことにした。日本橋で銀座線に乗り換え、赤坂見附で丸の内線に乗り換えて新宿で降り、しばらく西口を探すが、なかなか見つからなかった。東京モード学園コクーンタワーの地下だということに気がつくまで少し時間がかかった。(今名前を確かめたらこれ、50階建てのビルなんだな。そんなに高いと思ってなかった。サイトを見たら全階専門学校なんだ。すごいかっこいいな。驚いた。)地上を歩いて見つけたときに、新宿中央通りに夕日が当たって、この道ってこんなにかっこよかったっけと思った。考えてみたら駅の西口からこっちに向かって風景を意識して歩いたことって今までなかったなと思う。新宿って近いようで遠いところなのだ、私にとって。並木道に当たる夕日はとにかくきれいだった。


というわけで地下に降りてブックファーストを見つけたのだが、この書店は東京モード学園の地下にあるだけあって、デザインとかファッション関係の、特に雑誌がものすごく充実していて本当に呆然としてしまった。他にも自分の欲しい本がたくさんある。あまりに落ち着かないのでとりあえずそこにあったモールスキンの手帳を買って、駅に戻って売店でボールペンを買い、戻ってきて欲しいと思う本を次々にメモした。じっくりと何冊も立ち読みしたが、こんな幸福な時間は久しぶりだと思うくらい。

ぼうっとして書店を出てカフェユイットに行ってみようと思い立つ。どうせ混んでるから入れないだろうと思っていったのだけど、思いがけずすぐ入れた。デリリウム・トレメンスとビーフシチューを注文。デリリウム・トレメンスはベルギーのビールで「アル中の震え」という意味。アル中が見る幻覚に出てくるというピンクの象が描かれている。アルコール度数9%だからビールにしては高い。割と甘い。

ぼくのしょうらいのゆめ
市川 準,内田 裕也,大竹 伸朗,関野 吉晴,祖父江 慎,高橋 悠治,田中 泯,谷川 俊太郎,野口 聡一,吉本 隆明,和田 誠
プチグラパブリッシング

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飲みながら横にあった『ぼくのしょうらいのゆめ』を手に取る。内田裕也のところだけ読んだがこれが衝撃的に面白い。あのロケン・ローラーが神戸のお坊ちゃまだったとは。『若きウェルテルの悩み』とかを読んでいたいわば文学少年が、高校では家で暴れまくって中退し、バンドマンになったという。ただものじゃない。内田裕也は「はっぴい・えんど」の日本語ロック路線を否定する「ロックは英語」派として認識していたが、そういう育ちならそういう考え方もわかるなあと頷いてしまうものがあった。

BARレモン・ハート―気持ちがすごくあったかい!!〈酒コミック〉 (18) (アクション・コミックス)
古谷 三敏
双葉社

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デリリウム・トレメンスは『レモン・ハート』18巻に出て来ていつか飲みたいと思っていたがついに実現。ビーフシチューを食べて満足。紀伊国屋に行ってさっきブックファーストで見て欲しいなと思った『橋本治と内田樹』を買う。今読んでいるがこれは面白い。これについてはまたの機会に書く。中村屋に行って最中や草大福を買い、丸の内線で淡路町まで行って新御茶ノ水のがいあプロジェクトに行ったらもう閉めかけていたのだけど、無理を言って豆腐を売ってもらった。

橋本治と内田樹
橋本 治,内田 樹
筑摩書房

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甲野善紀・名越康文『薄氷の踏み方』を読み返す。読み返して見ると最初は読み飛ばしてしまっていたけど実は大事なことが書いてあるということに気がつく個所がいくつも出てくる。

現代社会が、あらゆるものがお金を一元的な価値観として語られるようになっているということ。私はそれほどのことになっていると頭では思っていなかったが、考えてみたら私自身もそういう方向に追い立てられているということにだんだん気がついてきた。プロはお金を稼いでナンボだとか、そういう類の言説が平気で、それこそが常識的であり、またそうでない考えは甘っちょろいのだ、という調子で、あるいはそうでない考えは非現実的な「子どもっぽい考えよねー」という調子で語られていて、そういうものに相当煽られる形で、自分自身もそんなものだよなと考えるようになっていたということにようやく思い当たったのだ。

敢えて言うならば、それが「資本主義の一番の弊害」だろう。良くも悪くもお金がなければ生きていけない、というのは真実だとみな思っている。実際にはもちろんあった方がいいのだけどなくても案外楽しく幸福に生きている人はないわけではない。しかしそれは例外的なことなのだとそれを知っている人たちでさえみな思っている。つまりそのくらい、お金というのは一元的な価値基準になっているのだ。

それが意識のレベルだけならまだいいが、無意識のレベルまでお金一色に染められてしまっていて、そのために社会が実につまらない、息苦しいものになっているという名越の指摘は、ああ全くその通りだなあと思った。

お金というものが一つの価値尺度としてあることは私は否定しない。お金が便利なのは、お金さえあればたいていのものは手に入るし、したいことをするためにはお金を手に入れればいいわけで、ある意味単純に道筋がつけられるということは大きいと思う。昔はお金だけで何となかるわけではなくて、人はさまざまなことを身に付け、出来るようになっていなければ自分のしたいことなど実現できなかった。その時代に比べれば、アクセスの道筋はものすごく簡単になったわけで、それは単純に悪いだけのことではない。

しかし、単純にいいだけのことでもない。一番よくないのは、価値観がほとんど一元化してしまったということだ。私のように多様な価値観を楽しむタイプの人間にとって、価値観がひとつしかないというのはものすごくきつい。人は結構いろいろと勝手なことを言うけれども、煎じ詰めれば結局金、ということばかりが続くとさすがにいやになってくるし、息苦しくもなってくるだろう。「価値の一元化」というのが一番の資本主義の罪だというのはそういうことだ。

今まで資本主義に対して私はそう否定的ではなかったが、これは全くその通りだなと頷かされた。私はしかし、それでも資本主義を完全に否定しようとは思わない。コミュニズムなどの社会主義的な社会システムの非人間性の方が絶対的にいやだからということもあるが、本当はお金というものが相対的な価値尺度に過ぎないということを自分では認識している部分があるからだ。

問題は、本当に素晴らしいものを知っているかということだろう。「本当に素晴らしい」「本当に美しい」「本当に幸福な」ものを知っている、経験しているということがあれば、そうした絶対的な価値尺度の前ではお金は相対的な価値尺度に過ぎないということがよくわかるからだ。

それを持っていれば、世の中にそうした相対的な価値尺度があったからといって動じることはないのだと思う。

薄氷の踏み方
甲野 善紀 名越 康文
PHP研究所

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