「消費社会の爛熟」とか「ポストモダン」とか

Posted at 08/11/29

夜は夕食を取りながらいろいろと家族の話などする。少し遅くなった。朝は起きたのが7時過ぎになり、職場に用事をしにいってとんぼ返りで家に戻り、父に愉気、朝食。モーニングページを書く暇もなく、車を借りてまた職場に行って別の仕事をし、お城の向こうのセブンイレブンまで行って『コミック乱』1月号を買って帰った。

『コミック乱』。「一十郎とお蘭さま」がついに、という展開。しかしなぜかあまりハッピーエンドの予感がない。どうなる事かはらはら。「ジュゲム」の絵が変。妙に太いペンを使っているのだがどうしたんだ。筋は面白くないことはないが、絵がこれでは。そのほかなぜかこの号は読みきりっぽいものが多く、あまり集中して読む気がしなかった。そういうこともあるかという感じではあるが。

20世紀ファッションの文化史―時代をつくった10人
成実 弘至
河出書房新社

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『20世紀ファッション文化史』。9章コム・デ・ギャルソンまで読了。断片的なことではあるが、川久保玲のファッションが西洋のファッションの文脈の脱構築であることとか。なるほどいわれてみたら脱構築という言葉はこういう場合に用いられるのがもっともふさわしいのだなと思った。コムデは「自立した女性が他人の視線を跳ね返して自分のためにまとう服」という指摘。当時そんなことは、私は考えてはなかったな。もっとふかふかしていた。でも当時、コムデギャルソンの洋服は基本的に好きなのだけど、それを着ている女性たちはあまり魅力的に見えないのはなぜだろうという根本的な疑問があったのだが、少しわかった気がした。

川久保のデザインが脱構築というのは、彼女のデザインが何かへの帰属性をまったく感じさせないところにある、という指摘はなるほどと思った。それは確かにそういうものとして私も認識していた。というかむしろ、ファッションとはそういうものだと当時の私は思っていたきらいがある。だから通常のファッションがそういうものではないということをだんだん理解してくると、コムデがいかに先鋭な存在だったのか改めて知った、という感じになる。暢気な話だが。

こうした時代の分析概念として、いわゆるポストモダンの思想が出てきたわけだが、私は一体こうした思想が何のために出てきたのかということが実はよく分っていなかった。この本を読んで初めて理解したのは、「消費社会の爛熟」という問題が思想家や哲学者にとって一大問題、大きなテーマだったということだ。その社会状況を分析するにはモダニズムの思想では分析しきれない、それを補って出てきたのがポストモダンの思想だということだ。

「差異」を問題にする思想の意味というのは最初は何を言っているのかよく分らなかったが、いわれてみたらすごく納得できるところがある。根本的な違いはなく、少しの違いが差別化において重要な局面ということであり、逆にそうなるとすべての「違い」が根本的な違いでなく表面的な差異として受け取られてしまうという倒錯した状況の出現。「保健所に殺された犬の敵討ちに厚生次官殺害」というわけの分らない論理も、そのわけのわからなさが事の重大性の判断に常識性が欠けているからだけど、すべてを差異と受け取ってしまえばそこが跳躍できると言えなくもない。わけのわからない突出した犯罪の多発は確かにそうした価値の相対化状況があることは確かで、そう言う意味でポストモダンの思想が現状を分析していく可能性のようなものはまだ消滅したわけではないのではないかと思った。

言葉を代えて言えばポストモダン的社会状況というのは価値の根源を支える「歴史性」が文化から失われたということであり、すべての存在が「浮遊する記号」になったということでもある、と著者は指摘する。まあこれは確かに、実感として理解できることではあるんだよな。ただそれは学生時代の、あるいは定職についてない時期の実感であって、教育という仕事についてみるとこの仕事には完璧なモダニズムの論理が貫徹してるので、やはり自分の考え方もそのサイドに立つことになり、ポストモダン的な状況に対して神経衰弱に陥る羽目にもなったわけだ。

フォスター『反美学』を引用して著者は、ポストモダンには「反動のポストモダン」と「抵抗のポストモダン」があるという。何に対してか、と言うとつまりは高度消費社会、もっと根源的には資本主義に対して、ということになるらしい。

「資本主義」にどう対応していくべきかという点において、私は明確なスタンスを持っているわけではない。資本主義への抵抗、とか反抗、と言う人にぶつかると、私はどうも奇異な感触を持つことが多い。マルクス主義的な意味でのそれならば、あるいは旧左翼的・新左翼的な意味でのそれならば、アナクロではあると思うが存在としてよく見聞きしてきたことであるから理解はできる。しかし最近の人のはそういう雰囲気でもないので何だかよく分らない。雰囲気として反抗してるに過ぎないんじゃないかと思うこともままある。当然自分もそういうものに対して批判する積極性がないので、「へえ」と思うに留まっている。

しかし川久保はその反抗の具体的な形として、高度消費社会に巻き込まれないためにそれよりも速い速度で自己イメージを転換していくという選択をしたと著者は指摘していて、これはよく分る。資本主義だろうがなんだろうが、陳腐化に陥らず自己模倣に堕さないためにはそれしか方法がない。走りつづけるということだ。突っ走りつづけるということだ。コムデギャルソンがそれをしているということは偉大なことだ。

敵はなんなのか。私はどうも、資本主義が敵だというのはあまりに漠然としていて理解できない感じがする。しかし陳腐化や自己模倣というのは手触りのある落し穴で、理解しやすい。しかし、あえて伝統回帰という選択もまた感触として分りやすい選択で、どっちもいいなと思ってしまう。根本的に言えば、そう言うところで自分が何を目指すべきなのか分らなくなっているのかもしれないなと思った。

こうした思想というのは、概してこうしたポストモダン的社会状況を肯定的にとらえるものだったように思う。しかしそれではそこから噴出したさまざまな問題を批判的に捉えることが難しくなるわけで、それを批判するための思想がそこから生まれなければならないと思う。現代は単に「大衆消費社会の爛熟」というだけではなく、さらにその中における格差の拡大とか、新しい状況がミックスされてきていて批判されなければならないことは多くある、とは思う。資本主義そのものを敵と見なすのでなく、しかし批判はできるという思想は必要だろう。しかし先に述べたように、実際の人の心の中というのはまだまだポストモダン的状況が支配している部分が大きいんじゃないかなと思う。最近ポストモダンは完全に凋落した感があるが、まだちゃんと使える部分があるんじゃないかとは思う。テキスト批判のようにもっと相対化を推し進めようという議論はもはやアナクロだが。

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