思想のある人間

Posted at 08/10/30

最終兵器彼女 (3) (ビッグコミックス)
高橋 しん
小学館

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忙しい。忙しい合間を縫って少し本を読む。主に『竹中式マトリクス勉強法』を読んでいるのだが、昨夜は寝る前に高橋しん『最終兵器彼女』の第3巻を読了した。

基本的にこのマンガはいいなと思うのだが、やっぱり何だか危惧も感じて、というのはこれを読んで、読み終わった後にどういう生きるためのエネルギーが出るのだろう、ということを考えたからだ。

このマンガは基本的には「和む」作品なのだと思う。和んで、想像の世界に心を遊ばせて、それでリフレッシュして、新たな気持ちで生きることに取り組んでいく、ということならそれでいいわけだ。しかし、このセカイに耽溺することにとらわれると、現実に対応する力が失われるのではないかという気もしてしまう。

基本的に、男の心の中のある部分を癒す力をこの作品は持っていると思うのだけど(実際こういうタイプの女性が好きだという男は多いはず)、あまりに注文どおりなのでそのセカイで甘やかされ慣れてしまうと生きる力が減退していくのではないかと。つまりカンフル剤とかその手の薬のように、一時的に生きる力を失っているときに癒されるのはいいけれども、それを常用したら危険という種類のものではないかと思ったのだった。

少女マンガにはそういうのはないんじゃないかなあと考えてみたが、自分が読まないだけでそうでもないなあと「Cookie」や「コミックゼロサム」の連載マンガを想像してみると思う。自分が読むのは、やはり生きる力が湧いてくるような、つまり困難とか矛盾とかを解決していこうという主人公の活躍が描かれた作品が多い。それがまた荒唐無稽なのもそれはそれで面白いが、リアリティのあるものが最近は多いかもしれない。

まあつまり、「甘い」のだな。「最終兵器彼女」は面白いからといってたとえば自分がこれを舞台化するということを考えてみるとちょっととても出来ないと思う。その根本の「甘い」部分を自分の作品を作る際の美意識が許さないからだ。

しかし考えてみると、「最終兵器彼女」は状況設定自体が甘いわけじゃないんだな。やっぱりもっと思想的なものなのだろうな。

他の作品で考えてみると、「NANA」なら(実現性はともかく)舞台化するのも面白いと思うが、「テレプシコーラ」は自分では出来ない気がする。「テレプシコーラ」の面白さと、自分の作品制作の上での「やりたいこと」がずれが大きいということだろう。「NANA」は、自分のセンスとは相当違うのだけど、それを消化してみるのも面白いと思える。基本的に登場人物がみなかっこつけてるからだろうな。違う言葉でいえば登場人物にみな思想がある、ということだ。つまり私は、思想のあるキャラクターを描くことに興味があるということなのだな。「NANA」はそうしたキャラクターたちを大きな事件の流れ、ストーリーの流れの中に巧みに配置してある。そういうところが並の作品とは違うということになるなと思った。

「サイカノ」の登場人物はみなフツウなのだ。つまり「思想のある人間」としては描かれていないのだ。それが自分が作るとしたら作りにくいところなのだということになるのだなと思った。

思想のある人間。なんか古い表現だが、自分がほしいのはそういうものなのだな。もちろん独り善がりの思想ばかりでは話にならないが。

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by Luke Peterson

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