人形の作り出すアナザー・ワールド/悪夢を見るのではないかという悪夢

Posted at 08/10/07

昨日。朝ダヴィンチを買いに行って、順番に読む。目当ては『テレプシコーラ』なのだが、最初から。今の小説読みの話題の中心はどんなことだろうと思いながら。いろいろ意外なこともあって面白かったのだけど、最大の収穫は日高トモキチ『トーキョー博物誌』の未単行本化作品が産経新聞出版から出版されたということを知ったこと。『人間噂八百』も産経だったし、『コミックガンボ』の遺産は産経が引き受けてくれているようでありがたい限り。11月には『ステージガールズ』もでるし、楽しみだ。

ダ・ヴィンチ 2008年 11月号 [雑誌]

メディアファクトリー

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『テレプシコーラ』はローザンヌコンクールでのインプロヴィゼーションなのだが、六花がなぜこの踊りを選択したのだろうという引っ張りで一か月楽しみだったのだけど、思ったより深くて感心した。ネタバレなので詳しくは書かないが、審査員長のN氏(これは明らかにジョン・ノイマイヤーだが)の反応とあいまって、さらに先が楽しみになった。

小早川伸木の恋 (4) (ビッグコミックス)
柴門 ふみ
小学館

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『小早川伸木の恋』をもう一度読み直す。今読むと、全編のクライマックスが4巻の伸木の車の中でブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 会ってはいけない人との出会いに切なく燃える恋心」を聴いて滂沱の涙を流すカナの姿であることが分かる。今ふと見たら2006年にドラマ化されているのだ。このブラームスのシーンなどは本当にドラマみたいなのだ。

午前中は雨が降っていたのだけど午後は上がり、傘をささないで大手町に出かける。丸の内丸善で本を探す。2009年の手帳をちょっと見たが、今年使っているのとほとんど同じものがある。自分としてはこれに不満はほとんど感じていないのだけど、今年と同じ物を買うのも少し抵抗があり、もうしばらく考えてみようと思う。

4階のギャラリーでは『人・形展 -HITO GATA-』という展覧会をやっていた。私は人形作家はあまり知らないのだけど、宇野亜喜良が出品していたのは驚いた。今まで意識してみたことはあまりなかったのだけど今回は結構集中して見て、なるほどこういう世界か、と思う。絵とか芸術というものは基本的にアナザーワールドを作り出すものだけど、その作り出し具合が、人形が一番訴える力があるのではないかと思う。人形は人間に似ているのに人間ではない、というところが見るものを不安定にするところがあるのだ。その不安定な仕掛けから別の世界に見る人を導いていく。正直言って人形作家間の力量にも差を感じたが、面白い才能がここにはたくさんいるのだ、ということはよく分かった。村上隆の影響を受けている人もかなりいるけど、それがすべてではない。フィギュアもまた広大な人形の世界の一部に過ぎない。祟りとかがありそうで、(笑)なかなか自分の家のスペースに置くのには躊躇するが、(一体どこにどうしておけばいいのか、相当考えさせられる)人形のために自分の家を改造するくらいの気合があるとこれは結構はまるような気がする。残念ながら今日までだが、お近くでご興味のおありの方はどうぞ。

トーキョー博物誌東京動物観察帳 1 (1) (産経コミック)
日高 トモキチ
産経新聞出版

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日高トモキチ『トーキョー博物誌』。東京に棲息する動物や植物に関するコネタが満載、という感じの本。丸善では「おたく・サブカル」のコーナーに置かれていたが、コミックス系の出版社ではないので他におくところがないからだろうと思う。軽妙な語り口で読ませる本なので、こういうのが好きな人は結構楽しく読めると思う。構成も上手いし、マメ知識は満載。ただ、『コミックガンボ』連載時も一話だけ読むならちょうどいいけどこれ以上長いとくどい感じがするなとは思っていたけれども、単行本になるとくどさは爆発する。マンガの中の活字というものを読みなれていない人には大変かもしれない。しかし『ゴーマニズム宣言』ほど字ばかりというわけでもないが。

響きあう脳と身体 (木星叢書)
甲野善紀,茂木健一郎
バジリコ

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丸善の在庫検索で甲野善紀・茂木健一郎『響きあう脳と身体』(バジリコ、2008)を探したが無い。おかしいな、と思い武術のコーナーに行ったら平積みになっていた。まだ登録されてなかったようだ。甲野善紀の「隋感録」によればすぐ売り切れそうなので最初から二刷りをかけたという話だったが、私が入手したのは第一刷だった。うちに帰ってからこの本はじっくり読んだが、読んでいて自分の中で何かが開けていくような印象を受けた。

甲野がよく書いている「人間の運命は完全に決まっていてしかも完全に自由だ」ということと共通する話を茂木も話していて、このあたりのやり取りが本当に火花を散らすようで面白い。とにかく最後まで一気に読んだのだけど、何度も読み返して味わってみたいと思った。甲野へのアプローチの仕方はみなそれぞれだけど、茂木のアプローチの仕方はとても分かりやすい。それは「科学」というものそのものがテーマだからなのだと思う。

話の中で茂木の友人として白洲信哉の名が出てきてへえっと思う。白洲は白洲正子・次郎夫妻の孫であり、小林秀雄の孫でもある。彼は現代美術を全然評価せず、桃山時代のものを評価する、それはなぜかというと桃山時代の芸術家は秀吉や家康に気に入られなかったら殺される可能性もあって、命がけで制作していたからだ、という話だ。それだけではどうも当否が分からないので検索して見ると茂木のブログの中に白洲の講演がアップされていて、本人は喋るのが下手だというけれどもかなり聞きやすい話し方でそれだけでも私は評価する気になった。まだ全部は聴いてないが、時間のあるときに聴いてみたいと思う。

一応全部読了はしたが、何度か読み返してみたい。気がついたら2時を過ぎていて、また遅くなってしまった。

***

焦りというものがどこから来るのかについて考える。焦りには二種類ある気がする。一つは計画通り物事が進まないんじゃないかという焦りで、もう一つは逃れたい運命にはまってしまうのではないかという焦りだ。前者はわりと単純な話で、もちろんそういうことは私にもよくあるのだが、原因は油断であることが多い。あるいは準備不足。それらのものが原因で不備が噴出してきたりして対応に追われるときの焦りだ。まあしかしこれは経験を積んでいくうちに焦っても仕方がないと腹が決まる。こういう場合はとにかく堂々と対応するしかないと。心細さはあってもやり抜くしかないので焦りは消える。

問題は後者で、「逃れたい運命」なんてものを設定している時点で妄想的であるのだが、それはつまり過去のトラウマが原因だからだ。人間は物事をやるときに無意識に予測しながら対応を無意識に選択していくけれども、悪いデータにぶつかったときや疲れが出たときなどにふと強いマイナスのイメージに襲われて「うまく行かない運命」みたいなものの妄想に囚われてしまうことがある。それが「運命」というものの問題で、私はその問題に「考えても仕方がないこと」という形でしか対応して来ず、その妄想を消すか棚上げするかして対応するように務めてきたわけだ。しかし何度もフラッシュバックするからこそトラウマなわけで、そのときは何とか対応できてもいつでも対応できるとは限らない。いつも「悪夢を見てしまうのではないかという悪夢」に囚われてしまうことになる。

甲野と茂木の対談を読んでいて感じたのは、この人たちはこの運命の問題についてずいぶん考え、会得し、実践してきているのだなということ。運命の問題は、実際にぶつかったときの態度に生かせなければ意味がないのだ。

私が思ったのは、人間の運命は物理的には決まっている、ということ。与えられた条件というものは変えることは出来ない。それを変えようとするから、出来ないことをしようとするから焦るのだ。それでは人間の自由とは何か。それは自分の自然に忠実に生きることではないかと思う。世の中のルールや自分の思考に囚われていると本当の自分の自然が見えなくなる。人間には生き残ろうとする本能があるので、完全に自然に任されたら思いがけない火事場の馬鹿力を発揮することがある。それは野口整体でも言っているし、人間の自然のもつ力というのは自分でも計り知れないものがあるとは私も思っている。

だから絶体絶命のように見えても、自然の持つ火事場の馬鹿力によって自分でも思いもかけない仕方で自分の運命を突き抜けてしまうことがあるのだと思う。そういう意味では火事場の馬鹿力というよりも火事場の馬鹿器用だ、と茂木が言っているがそうだなと思う。今は思いつかないが、そういう事態は私にもあった気がする。問題はいかに自然の力を自分の中から発揮するかということだ。野口整体では活元運動がその方法なのだが、甲野は古武術の方でその方法を探っている。

人間は物理的な決定と生きている自然の力の弁証法によって動的に運命が決まっていく、といってもいいのではないかと思う。まあこれではきれいにまとめすぎなのだが。

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