身体性と芸能/考えたように生きてみよ/「感情」について考える

Posted at 08/08/04

昨日。午前中は体調があまり優れず、ぼやぼやしていた。11時前に自転車で住吉まで。普段行かない駅なので駐輪場の位置が分からず、交番で警官に聞く。おかげで一本のり逃がした。

来た押上行きに乗る。押上どまり。次に来た急行が南栗橋行きなので、これに乗って東武動物公園まで。12時過ぎに到着。昼食を食べるところを探したがなかなかないので、駅前のファミリーマートで安い弁当を買い、どこかで食べられる木陰を探す。進修館はなぜかコスプレの会場になっていて、とても昼飯を食う雰囲気ではなく。そのまま地図を頼りに郷土資料館へ。とちゅう、小さな川の川べりにちょうどいい木陰を見つけ、そこに座って昼ごはんを食べる。いいピクニックになった。

事前に郷土資料館は駅から20分と聞いていたが、20分ではちょっとつきそうもない。行くまでの風景は、たとえばこんな感じ。

さすが関東平野のど真ん中。信州の田舎にいても、なかなかこういう平地に田圃や森がある風景はない。やはり埼玉は偉大な田舎だ。

時間ぎりぎりに旧加藤家住宅に到着。演劇祭に何とか間に合った。ちょうど裏口で音楽をやっている劇団時代の友達に会い、トイレに行ったら主催者に会って挨拶する。

第一部は踊り。あるいは無言劇?なんといえばいいのか。パシャパシャ写真を取っている人が何人かいたが、わたしは今回は自分の目でじっくり見ようと思ってカメラは持っていかなかった。会場は古い農家の日本家屋の座敷。踊り手が奥の障子から現れる。この人は空間との関係性をちゃんと持っている。引き込まれるように見た。客席と舞台のあいだという位置づけの位置に立つ柱を相手に踊っているとき、一番前の席に座っていた女の子(8歳くらい?)がいきなり水筒を持ち上げて飲み始めたのが超受けた。その踊りが空間との関係性をつくり、観客を引き込むものであっただけに、その水筒の動きがあまりにはまってしまったのだ。

次に出てきた踊り手は浴衣を着ていたがこの人はバレエの素養がはっきりと見えてしまい、少しストレートな印象にならなかったのが残念。しかし短いステージだったが、この後の舞台に期待を膨らませてくれるものだった。

二つ目のステージは演劇。後で聞くと、群馬県の劇団だという。女性4人。独特の発声法。内容は少し変わった趣味の女性を結婚させるための話し合い、という設定の芝居と、水に落ちて風をひいて、真夏なのにコタツに入って高熱を発している小学生をいかに無茶をやめさせるか、という筋の芝居。独特の発声法でよく聞き取れないところも多かった。客席からは結構笑いが出ていた。

わたしが個人的に不満を感じたのは空間との関係性の取り方という点、あとは発声も大きい。つまりは体作りということだ。私は舞台芸術というものについては基本的に役者の身体性を見に行く人なので、そこが好感が持てないと全然だめなのだが、ストーリー展開も演技の質(間が取れてない演技)もちょっとだった。私はもう10年以上小劇場の芝居を見ていないのでほかのものとの比較も出来ないし、自分の見たい種類の芝居と最初から違うのだからあまり批判しても意味がないだろう。しかし自分にとってそういう芝居を見続けなければならない状況で観客としての私のテンションが極端に下がったことが辛かった。正直なところ、30分くらいなら受け入れ可能だったと思うのだけど。今の時代の小劇場というのはこんな感じなのかな。それなら舞踏や舞踊系を見に行くしかもう舞台芸術は縁がないことになってしまうが。

三つ目のステージは童話をもとにした集団劇。正直なおじいさんおばあさんが旅人から貰った何でも出てくるとっくりを、村人たちが騙し取ってほしいものを唱えているうちに水が噴出し、村が沈んでしまいました、というストーリー。小川未明的。大正の児童文学誌、『赤い鳥』に載せられた童話らしい。旅人をやった女の子が客の視線を集める力があると思った。とっくりをやった男の子があまりにとっくりで可笑しかった。役者を物として扱う、と言ったら変な意味になるが、物の役を役者がやるという発想は面白い。森の木3、みたいな役なら学芸会だが、とっくりを、しかも子供が演じるというのは物に霊が宿ったみたいな感じである種の古代的な感じを醸し出していた。物に憑いている霊というのはああいう子供みたいなものなんだろうなと思うと理解しやすい。

途中で台詞を忘れたり、衣装があまりに日常着だったり、舞台にいるのにお母さんだったり、そういうところが目に付きすぎて何を見ればいいのかよく分からずに混乱した。ストーリー自体もむらの長者が出てきたところで結末は分かる物だったので後はどういう演出をするかということだけだったのだけど、そういう演技的なノイズの多さに比べてあまりに音楽(生演奏)が上手すぎて、隙がなさ過ぎ、コンビニのおにぎりを食べながら野田岩の鰻を食べているようなバランスの悪さを感じて、何を押さえればいいのかわからないうちに終わってしまった感じだった。

終わった後主催者と少し話しをしたが、衣装に関してはあまり考えていない、ということでそれなら仕方がないかと思った。とっくりは彼の息子だということで、なるほどとっくりであることにも納得がいった。また劇団時代の友達と少し話をし、主催者は『芸能』を目指しているんじゃないか、といわれていろいろな部分が腑に落ちた感じがした。

あまりにないものねだりとはいえ、思ったことを一応書いておくのだけど、『芸能』ということになるとまた難しい問題がいろいろ出てくる気がする。『芸能』を支えているのはその民族の身体性だと思うのだけど、現代の生活は日本人が本来持っている身体性を破壊してしまっている。農村の芸能は農村の生活、農家の生活に根ざした身体性によって成り立っている。数年前黒澤明の『七人の侍』を見て一番感動したのは、あの映画に出てきた若い役者たち、エキストラたちが農民の体、農民の身体性を持っていたことだ。今テレビを見ていてどうにもならないなと思うのは主役級の演技ではなく(それもどうにもならないことも多いが)そうしたその他大勢のあまりに農民でない体なのだ。子供はそれでも、子供らしい身体という特権を持っていて、これは結構感動するのだが、埼玉の子供は信州の子供よりもずっと子供らしい身体性を持っていて、それは見ていて面白かった。もちろんそれはあまりに無意識的なもので、それが評価すべき物なのかどうかも微妙なのだけど。大人の身体性はどうも、見ていて辛いものがあった。

しかし今の生活で農業にかかわる体を作ることから芸能をつくることが可能なのかどうか。それは、今の大相撲の凋落振りを見ていればよく分かる。昔なら、農村の生活の中で必然的に作り上げられてくる身体のその延長線上に力士の体があるわけだから、大相撲は日本全土に広がりを持ちえる芸能に成長しえたのだ。しかしこれだけ生活が変わり、からだが変わってしまった現在、それを求めるのが困難になってしまうのは必然だろう。

だから問題は、現代人の生活の中から芸能は生まれ得るか、ということにならざるを得ない。演劇や舞踏や、芸術なら特殊な訓練を施せば出来ないことはないからそれはありえる。しかし生活と一体であるべき芸能を志すとすると、生活そのものを変えるのか、生活そのものとはある程度一線を画して身体訓練を施すのか、という問題がでてこざるを得ないのではないか。

まあたとえばだけど、稽古の一巻としてみなで草むしりをするとか、稲刈りをするとか、そんなことでもやって見ると違うのではないかという気がする。みんなで泥鰌掬いを踊るだけでも違うだろう。よけいなお世話だが、そんなことを考えた。

***

帰りは再び東武動物公園駅まで歩き、駅構内のパン屋で腹ごしらえをし、再び急行中央林間行きで帰る。何だかそのまま家に帰るのが物足りなかったので三越前まで行って日本橋に出、丸善の地下で原稿用紙を買った。本を物色するが、結局買わず。立ち読みした本のフレーズが印象に残る。

「考えたように生きてみよ。さもないと、生きたように考えなければならなくなる。」フランスの作家ブールジュの言葉。

これはあまりにその通りで笑ってしまった。やはり人生、上手く行かなかったことをあれこれ考えてしまう。生きたように考えてしまうということだ。考えたように生きること、つまり、人間は自我が大切だということだ。

夜は疲れが出てしまって早く寝た。

朝は5時前に起床し、久しぶりに荒川河畔まで散歩に出かける。どうも今日の夜に江東区の花火大会があるらしく、場所取りのブルーシートがそこらじゅうに敷いてあった。それにしても朝の散歩は得る物が多い。頭がすっきりするし、いろいろな物が新鮮に見える。

散歩しながら感情という問題について考える。「感情は、強い力を持つが、一時的なものだ。うまく使わないと危険だが、それに頼るともっと危険である。」一時の感情の勢いでやってしまって後悔することはよくあるが、一時の感情の勢いを使わないと上手く出来ないこともまたある。なんてことを。

午前中に友達から電話がかかってきてだいぶ長く話す。河合隼雄の考えと自分の考えが混同されていたことが多かったことなど。いろいろ話していて思ったが、私は自我の殻が不完全なんだなと改めて認識した。何だか自我がないほうがいいような認識を若い頃に持ってしまった時期があって、それが今までどうも尾を引いていて片付かない部分がある。河合隼雄と谷川俊太郎の対談を読みながら自分の考えと河合の考えを整理しながら読んでいるのだが、自分が納得して無理なく取り入れてしまった河合の思考が私が思っていたのと違うバックボーンを持ったところから出てきているものだったりして、そういうのを認識すると自我の中で股裂き感が出てきたりしてなかなか大変だ。しかし自分の文章や詩に生命力を取りもどすためには通らなければならないひとつの関門なんだろうと思う。面倒だがやらなければならないことが多い。

こうして昨日の感想を書き直して見ると、改めて私は身体性という問題に強い関心を持っているのだということを改めて感じる。日常生活の中でもそういうことをもう少し意識してみてもいいのかもしれない。意識しすぎて自我が崩れたところもないではない気もするので、気をつけなければならない部分もあるとは思うのだけど。

2時頃から書き始めたのにもう4時半になった。荒川の方から花火の試し打ちの音が聞こえる。

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