すべては商品化がされるこの時代に/小林よしのり『パール真論』に頭が下がる

Posted at 08/06/30

今日で6月も終わり。ということは、2008年も今日で前半が終了ということになる。この半年間を振り返って見ると、大変なこともたくさんあったし、やろうとしていることは少なくとも表面上はあまり上手くいっていないのだが、自分の内面を深めるという点では少しは深まったかなという気がする。もちろん螺旋状で、かつ上がり下がりがあって、つまらないことに振り回されることも多かったし、ひどくダメージを受けたり考え方の方向転換を迫られることも多かったのだけど、それは今までの行き方を振り返り、それを見直し、自分の行き方を深めていく上では避けては通れないことだったのだと思う。昨日から今日にかけてもずいぶん考え込んだりはしているのだが。

昨日は本当に疲れが出ていて、結局あまり雨が降らなかったからもっと積極的に出かけてもよかったのだが、3時過ぎになってようやくでかけた。ここ数週間銀座に行っていなかったのでちょっと雰囲気を味わうつもりで出かける。今考えれば山野楽器で無伴奏バイオリンパルティータを買えばよかったなと思うが、山野楽器には寄らず教文館で少し本を見、4階のエインカレムをのぞき、6階の『ナルニア国』で童話や詩を少し立ち読みした。

展示ホールで「赤毛のアン」を翻訳した人の展示を見ていて、その当時の手紙やわら半紙の冊子などが立派な額縁に入れられて展示されているのを見て、ひどく生々しいものが小奇麗にパッケージされて展示されているなあと思った。大正期くらいになるともう想像の域外なのでそういう展示があってもそんなふうには思わないのだと思うけれども、戦後の物がそういうふうに展示されていたからだろう、自分でもひょっとしたら手にしたかもしれないものが展示されているという感じ。昔のものはすべてこうして小奇麗にパッケージされ、いわば商品化されて商店の呼び物になる。すべては商品化される。現代というのはそういう時代なんだなあと思った。

今までそんなことを考えたことはなかったのだけど、博物館や美術館というのも、すべては商品化された展示なのだ、ということは不可能ではない。もちろん学術的な意味、審美的な意味は別にあるにしても、求めてきた人に対価を支払わせて観覧させるのだから紛れもなく商品だし、書店内の無料展示スペースだって景品のようなものだ。そういうことをあまり考えてことがなかったのは、考えてみればおめでたいことだなとも思う。

考えて見ると、文字や音楽の人はどちらかというと自分の芸術を追求するタイプが、絵の人は自分を売り込むことに強い意志を持つ人が多い気がするが、もともと絵画というものは商品として発達した、職人的な伝統が強いからだと思う。文字や音楽はどちらかというと有産階級の趣味的な部分もあり、職業芸術としての自立は比較的遅かったといえるのかもしれない。今でも芸大生の親の収入を比較してみたら、音楽学部と美術学部は数倍の開きがあるのではないだろうか。

そうした中で職業音楽家としての自立を図ったのがモーツァルトやベートーベンであり、職業作家として自立を図ったのがヴォルテールからプーシキンにかけての時代の人々だった。革命前のパリは市民階級の啓蒙主義者のサロンがあり、「文芸の共和国」が成立していたといわれているが、逆に言えば作家の予備軍としてパリに出てきたものの成功せず、失意の中で困窮していった青年も多かった。革命家として知られるジロンド派のブリソーやモンターニュ派のサン=ジュストもそうした人々で、ブリソーなどはパリ警視庁が啓蒙主義者ニアリーイコール革命家の動向を探るためのスパイとして使われていたらしい。理想と現実の悲惨な齟齬というものは、今に始まった話ではない。

商品経済と芸術というのは常にそうした緊張関係にある。自らの商品化を全面的に受け入れてその中で生きていく、理想はそれとは別に追求するというのも一つの生きかただし、逆にそうした社会のあり方自体にアンチテーゼを唱えるために商品化されることを極力避けて活動を続けるというのもまた一つの生き方だろうと思う。

ゴーマニズム宣言SPECIALパール真論
小林 よしのり
小学館

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三越の地下で食品コーナーを回り、しかし銀座では結局何も買わないで地下鉄に乗って日本橋に戻った。丸善で本を見、小林よしのり『パール真論』(小学館、2008)を立ち読みする。小林は『SAPIO』誌上でずっと中島岳志の『パール判事』がパール判決書を読み違えている、という批判を続けていたのだが、西部邁や加藤陽子ら一線の学者たちが中島のパール論を真に受けて賞賛していることに危機感をいだき、この膨大な本を書くことになったようだ。私はずっと立ち読みではあるがSAPIOに連載されていた小林のパール論を読み続けていたので、小林の孤軍奮闘振りはずっと見てきた。はっきり言って時事的でもないこんな地味なテーマを商業誌上でしかもマンガで11回に渡って展開し、さらに7章分のマンガを書き下ろし膨大な文字の考証までつけた小林の熱意には正直言って頭が下がる。この本はたとえ読まなくても、あるいは読めなくても買うべきだと思った。

買って中身を読んでみたが、案の定難しい。また、小林は真摯に書いてはいるのだが、学者的な書き方より論争的な、あるいはエンターテイメント的な書き方を優先している部分があり、(彼は漫画家なんだから当然なんだが)狭い学者の世界の枠内の人から見れば「相手にしないほうがいい」ものとみえてしまう可能性が高いだろうなあと思った。松本清張も、真剣に歴史を論じても学界からは完全に黙殺されてしまっていたことを嘆いていたが、まだまだ学界は象牙の塔で、ギルド外で起こることは無視してもその地位は保証されるから面倒なことにはかかわらない、一言斜に構えて切っておけ、というような反応で十分だという認識からでてこないだろうなあと思う。私は今まで小林の書いたものを読んできて、この人のいうことは偏っている場合もあるが(つまり自分の意見ははっきりしているが)間違ったことは書いてない(自分を欺瞞に陥れるようなことは書かない、誠実に書いている)人だと確信しているので、理解できる範囲では小林は正しいことを書いていると思う。しかしそのことは逆に言えば戦後の政治的・外交的レジームを根本的に否定することと極めて近いので、そのラジカルさに誰もついてこれないというのが正直なところなんだろうと思う。

改めて考えてみて、「パール判決書」の「日本無罪論」はやはりパンドラの箱なのだ。戦後レジームに依拠しようとする人はだから、このパンドラの箱を違うように、言葉どおりではなく解釈しようとするのは半ば無意識の恐れによるようなものだろうと思う。しかしだからこそ小林はこれに徹底的にこだわったのだろう。改めて頭が下がる著作である。

ついでにもう一冊、『詩と思想』7月号(土曜美術社出版販売、2008)を買う。『ユリイカ』『現代詩手帖』も新しい号が出ていたが、昨日は買う気がしなかった。オクタビオ・パスの特集。メキシコのシュールレアリスム詩人。あまりよく知らないが。


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