不満と不安/久谷雉さん/ニコニコ動画の「歓声や野次」と批評

Posted at 08/06/19

昨日。相変わらずアップダウンというか、緩急というか、どうしようもなく疲れたり緩んだりするときもあれば前向きに元気なときもある。その原因が、どうにもとらえようのない不安に時々襲われることにある、と自分では思っていたのだけど、その原因は不安というよりも不満のほうにあるのではないかということに今朝考えていて思い当たった。

何かに不満を持つ、ということは私にとって恥ずかしいことだった。だから不満を持っている自分、というのを自分自身の眼から遠ざけていたのだなと思う。そういう意味ではものすごく不満いっぱいの人間なんだが、それを上手に、特に自分自身には見せないようにしていたんだなと思う。

今朝、つらつらものを考えていて思ったのだが、体調が時に悪くなるのも不安が原因かと思っていたが、というよりは自分の無意識的な不満がうまく解決されていかないと自分自身が不安定になってきて、それで不安が生じ、その妄想的な不安が自己増殖していく、ということなのではないかと思った。

何かに不満をもつということが自分にとって恥ずかしいことだったのは、不満を持つということが子どもっぽいと思っていたからだろう。特に、不満を口にするのは、公に対する不満ならともかく、個人的な不満を口にするのはたしなみに外れるという意識が強かった。もちろんそれは今でもそういう基準はあるけれども、不満をもつことと不満を口にすることは違うことだし、不満を持つということは自分の生命エネルギーが充満し、その捌け口を見失っているということだから、むしろ現状を打破するためには必要なことで、またそういうエネルギーを自分が持っているということだからいいことなのだと、今朝考えていて思い当たったのだ。

不満のありかを確認し、解決できることなら解決し、また解決できない種類のものであったら我慢するか方向を変えるかするしかない。不満というのはもともと出口のないものだから、盲目的な状態で先に進まざるをえないこともあるのだけど、一歩引いてみてみれば別の出口が見えることもある。しかし、不満があるということ自体を認識できなければ、理由の分らない不満は理由の分らない不安に転化して精神によくない影響を与える。

不満をうまく使うことが自分の人生を豊かにするポイントなんではないかと思い当たったのだった。

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逆立ち日本論 (新潮選書)
養老 孟司; 内田 樹
新潮社

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養老猛・内田樹『逆立ち日本論』読了。印象に残ったこと続き。

p.133憲法9条と自衛隊の存在は矛盾しない。両方ともアメリカの都合で存在するものだからだ。ということは一見矛盾するように見える両者を両方ともアメリカに押し付けられているということは日本がアメリカの属国にされているということで、誰もその認識に絶えられないからその事実を見ようとしないのだ、という内田の主張。特に目新しい主張ではないけれども、一番スッキリと説明されているように感じた。

p.150事態を微調整しながら解決する、という老練な解決法を嫌がる人が増えている、という話。問題を開いたものにしておく、という解決法が苦手。これは自分も公務員時代に人からも感じたし、自分でもそういう思考法にすごく傾いていたときがあったから、よくわかる。今も問題をオープンエンドにしておくことには怖さを感じないわけではないけど、ある程度はその怖さも含めて引き受けていくしかないんだなと最近は少しは思えるようになってきた。

p.171自分の個性は自分で主張するものでなく、誰か周りが決めるもの。「あの人はああいう人」と周りがいうことで、「私はこういう人」ということではない、だから個性とは「見る目」の問題だ、という主張は面白い。昔は確かにそうだった。だから、「私はこういう人です」という表現を最初に聞いたときにはすごく違和感があったのだけど、いつのまにかそういうものだという考えに慣らされてしまったなあ、と思う。

p.178「世界の深さは、すべては世界を読む人自身の深さにかかっている。浅く読む人間の目に世界は浅く見え、深く読む人間の目に世界は深く見える。どこにも一般的真理など存在しないというのは、究極の反原理主義ですよね。」

この言葉がこの対談本のすべてを貫いている考えかただと思う。これは相対主義ではない。各人各人の人間の深さが世界の深さを決定するということで、もし現代の世間の深さが浅くなっているとしたら、その構成員であるわれわれ自身の世間を読む目の深さが浅くなっているということなのだ。深い世界に生きたければ、なるべく深い、射程の長いものの見方をしなければならない。そのことは全くそのとおりだと思う。

p.197「顔の悪い結婚詐欺し入るが声の悪い結婚詐欺師はいない。」声がいいということは、自分の言っていることを信じているということ。マンション販売の勧誘の電話などが感じが悪いのは、自分が信じてもいないことを仕事だからと猫なで声でやってるからなんだなと思う。

p.232メディアは虚構であり、そのためにフレームがついている。(劇場とか)。だから「メディアは嘘をつく」というのは「芝居は芝居だ」と言っているのは同じだ、という話。もちろんだからといって真実を報道しようという努力を否定したら話が成り立たないと思うけれども、どんなメディアでも「真実そのまま」を報道できるということはありえない。それは自明のことだ。だからメディアリテラシーというものが必要なわけで、それは陰謀的に敢えて虚構を垂れ流すのを見破れというレベルではなく、たとえ真摯な報道でも何がしかの虚構が混ざってしまうのは避けられないというから、それを自分で取捨選択して構成しなおす技術が必要なのだ、ということなのだと思う。

p.236文章を読むということは、患者の声を聞くということ。患者の言い分を聞くという読み方。なるほどそういう読み方もありかと思った。

p.245「考えて考えて考え抜くと、底が抜ける。どん底に落ちたと思ったら、掘れ。」よく分らないけど、この表現は面白い。「その底にこそ、自分にしか見つけられないことが埋まっているのではないか。」具体的にはよく分らないが、そういうおおらかな考え方は何だか和むなあと思う。

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現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

思潮社

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『現代詩手帖』5月号と6月号を読み返してみる。読んでいるうちに、一番面白いなあと思ったのは久谷雉という人の文章。5月号p.207の詩誌月評から。

ちょっと前に流行った映画のせりふではないけれど、詩というものはふたつに分けることができる。自分の抱えている愛情への自身から出発した詩と、愛情の「欠陥」の自覚から始まった詩である。このふたつのあいだには、大きなへだたりがある。特に後者には簡単には動かしがたい、噛み砕き難い石ころのようなものがその巧拙に拘わらずに包みこまれている。それゆえにぼくは「欠陥」のほうを信じてみたい。「言葉」であるゆえに書き手自身からはぐれてしまうことはわかりきっているのに「詩」が書けてしまう。そんな「詩人」の宿命的な鈍感さと「言葉」を通した愛の行為のあいだに生まれる矛盾に立ち止まったことのない人間の書いたものなど読みたくもないのが正直なところだ。」

これはなんというかある種の読み下し難さがないわけではないのだが、基本的にはよく分る。読み下し難いのは、私自身が詩というものを「愛」という基準で考えてはいないからで、でも多分そういうことをいうことは可能なんだろうとは思う。言葉が書き手からはぐれてしまうのは、愛とは関係なく詩人の詩を書く戦略の巧拙が原因ではないかという気もしないではないが、いずれ人間というものは100年後には自分がなんだったかわけがわからなくなってしまう存在なので、大きく言えばはぐれてしまうのは間違いない。はぐれてもまた出会うこともある、というぐらいに私は思っているが。「鈍感さと愛の行為の矛盾に立ち止まったことのない人間の書いたものなど読みたくない」、という宣言はなんと言うか若さが言わせてるのかなあと微笑ましさを感じないわけではないが、まあそのぐらいのことは宣言した方がいいのかもしれないなと思わないでもない。まあつまり、目の付け所とそれに対する振る舞いにおっと思い、好感のようなものを持ったということなんだろうと思う。

2チャンネルやニコニコ動画で表現されているテロップのたたすまいにすがすがしさを感じる、というのも、自分が感じていたことをうまく表現してくれた、という感じだ。

「鹿男(あをによし、引用者注)」の動画にはいくつかバリエーションがあるので、それらの歌詞字幕を参考に、聴き書きをしてみた。このような類のものに歓声や野次(たとえば「ニコニコ動画」の場合は映像上に直接書き込まれるテロップがそれに当たる)が飛ぶことはあってもすまし顔の批評がつけいる余地はほとんどない。また批評が育つ前に、万人が発信者になることが可能になったゆえの情報の洪水が批評の対象を忘却のかなたに押し流してしまう例は、枚挙にいとまがないだろう。この不毛さの前に、あえてしばらく立ち止まってみたくなる。

たしかにこういうものの中には本当に面白いと思うものがときどきある。それが病みつきになる人も多いだろう。しかしそういうのを見ても「ネ申」とかキターとか一言で表現するのが常で、批評性がゼロではないけれども確かに歓声や野次のレベルを超えていないだろう。歓声や野次も批評性が高いものがないとはいえないけれど。「この不毛さの前に立ち止まってみたくなる」という逆説的な言明は才筆だと思うが、このドライブ感の中で批評を成立させるのはそれはそれで面白いと思う。音楽評論家がこぼしていたが、みなデータは知りたがるが批評など読みたくない、という人が増えているのだという。それは、社会的な存在として音楽なり映像なりを見ようという視点が弱くなっているということで、自分がこの作品は好き(あるいは嫌い)だが他の人はどう思っているのだろう、ということを考えることで自分の見方をより深めたい、という欲望が減退しているということを意味しているのだと思う。しかしそれで横の連帯を不必要と思っているかというとそういうわけではなく、やはり「歓声や野次」のレベルで自分の思いや他人の思いを共有したいという欲望はないわけではないのだ。言い換えれば、「歓声や野次」というのはある種本能的な批評なのだ、といえなくはない。それを意識的な批評に育てるには、現代人は忙しすぎる、情報が溢れすぎている、ということなのかもしれない。

しかしどうなのかな、こういう状態というのはいつまでも続くものではない、という気もするんだけど。食糧危機が現実のものっぽくなりつつあるのと同様、音楽危機とか映像危機とかいうものも起こりえないことではないのではないかという気がする。終戦直後のような食糧危機が来るとはたとえば私などはあまり思ってはいないのだが、終戦直後というのは食糧だけでなく、文化資本も非常に払底していて、岩波文庫が復刊することになったとき、本屋に長蛇の列ができたという話を思い出す。もしそういうことが起こるとしたら、音楽や映像の現物で十分な欲求を満たすことが難しくなり、また友達同士の批評し合いや批評家の言を読んで腹を満たす、という時代がまた来ないとは限らない、という気もしないではない。

批評はよりよいものを選ぶために情報過多の時代に必要なのだ、と思われがちだけれども、そうではなく、むしろ情報不足の時代に情報を求める渇望感、飢餓感を満たすためにより必要とされるものなのではないかという気が私などはする。情報過多の時代に必要なのはデータだけなのだ。音楽評価のための「価格コム」があればいい。しかし情報不足の時代には、何がどれだけ「いい」のか、これは読むに値するのか、しないのかというある種怪しげな情報を深く読み込むことによってその音楽自体を聴く耳を深めることが絶対的に現象する。そういう意味で、これから批評が活発化する可能性もないわけではないな、という気がする。

まあ後半は思ったことを並べ立てたが、久谷雉という人は面白いと思った。東京に戻ったときにその詩作品も読んでみたいと思う。


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