詩人とは言葉を新しくする者/シオニズムと反ユダヤ主義の共通性

Posted at 08/06/18 Comment(2)»

昨日帰郷。いろいろ迷いみたいなものを抱えながら家を出る。読むものとして持ってでたのは『現代詩手帖』の6月号だけ。何をどうするのか方針が立たないまま丸の内丸善へ。何を買おうか本当に迷ったのだが、最終的には養老猛・内田樹『逆立ち日本論』(新潮選書、2007)を買う。結果的にはこれが正解。特急の中で読んでいて、抱えていた迷いのようなものが吹っ切れた。

感じていたのはアイデンティティの不安のようなものだったのだが、自分がどういうものかというよりも自分がどういうものでないかととらえた方が自分自身のことはとらえやすい、ということに気がついた。というか思い出したのかもしれない。何者かであることと何者かであろうとすることは違う。意識の力によって目標に近づくことがやりやすい人もいれば、無意識の力で自然にそうなる方がやりやすい人もいる。「何々らしくする」ことと「何々である」ことも違う。

詩を書くことと詩を書こうとすることは違う。詩を書けば詩は書けるが、詩を書こうとしても詩が書けるとは限らない。詩人であることは出来るが詩人らしくすることはかなり難しい。まして詩人らしくしてみても全然詩人ではない。「形から入る」ということのやり方を間違えるとわけのわからないことになる。やりたいことはあってもなりたいものはない。やりたいことをやっているうちに自然にそれになっている、ということなのではないかと思う。

生まれたかったわけではないが、どういうわけかこの世に出てきてしまった。後は死ぬまで生きるしかない。教えるのは好きだが、先生になりたいわけではなかった。写真をとるのは好きだが、カメラマンになりたいわけではない。詩を書くのが好きだが、詩人になりたいわけでもなかった。でも気がついたら詩人だったりすることはあるのだろう。詩人であることはきらいではない。詩人て何が何だかわけがわからないから。わけがわからないものならなってもいいかもしれない。分るものにはなりたくない。便宜上、何かであると名乗りはするが。

詩人であるとは、言葉を新しくする者であることだ、と入沢康夫が言っている。言葉を新しくするとは、言葉についてその組み合わせとか使い方とかにおいて何か新しいことを見つけ出し、使ってみるということだろう。しかし新しい使い方ならなんでも詩になるとは思わない。詩にも洒落にもならない新しい言葉が溢れているからこそ、詩になる新しい言葉を見つけることは詩人の使命なんだろうと思う。

現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

思潮社

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現代詩手帖を読んでいて出てくる若い詩人たちも、言葉を新しくするという使命を持っている点で同じ位置に立っている。そう考えると、彼らもまた同志なのだ、と思う。彼らの関心事・問題意識を知ることは、私にとっても問題意識が刺激され、新しい詩の地平を開く上で刺激になるだろうと思う。その意味では、詩人は詩論を書くべきなのだろう。作品は、自分の中で限界ぎりぎりのものを示すことが多いから、人から見ると何をやろうとしているのか十分わからないことが多いし、多分書いている本人も後にならないと判らないことも多々あるのではないかと思う。詩論はそういう意味ではかなり作品より後衛の意識が反映されるので、より共有しやすいものになるような気がする。

詩は人によって、その問題意識のあり方がかなり違う。特に自分より年配の人の詩や詩論を読んでいると、その違いに驚かされる。もちろん、小説が千差万別であるのと同じくらいには詩も千差万別だし、日本に限らず、また現代詩に限らなければその幅はさらに広がる。その中から自分の問題意識、あるいは問題無意識に合致していたり、自分の感性が求めるものを拾い出してくるのは森の中で落とした指輪を探すようなものかもしれないが、指輪を探していても思いがけず美しい花を見つけたりすることもあるように、彷徨することもまた詩の楽しみということになるだろう。

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逆立ち日本論 (新潮選書)
養老 孟司; 内田 樹
新潮社

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養老猛・内田樹『逆立ち日本論』(新潮選書、2007)の感想に戻る。印象に残ったところなど。現在132/255ページ。p.61脳活動と意識の間には時間的なずれがある、という話は面白い。これはでも、実際結構感じること。言葉にはならないけど分っている、ということがよくわるわけで、意識というのは結構不便な、あるいは不自由な道具だということなのだと思う。

p.65カバラーの創世神話。天地創造のとき神が自己収縮して世界のための場所を空けたために人間がそこに存在できるようになった、のだという。自分の存在は、今ここにいない誰か(この場合は神)が贈与してくれたもの。この話はすごく面白い。存在とは何か、を、ここにいない誰かから与えられたもの、と認識するというのはすごく豊かな考え方だと思う。主体性は受動性である。「なにごとのおはしますをばしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」自分を与えてくれた何者か。

p.70視覚と聴覚のずれ。視覚は空間は把握できるが時間は把握できない。聴覚は時間は把握出来るが空間は把握できない。シャガールは珍しいユダヤ人の画家だというが、モディリアーニもスーティンもユダヤ人だと思うけれども、そのへんはよく分らない。p.78『夜と霧』のフランクルはなぜアウシュヴィッツを生き延びられたか。彼を生き延びさせようという意志の存在。おそらくはナチス側も含めた。シオニズムと反ユダヤ主義の共通性。どちらもヨーロッパからユダヤ人が退去することを求めている。

p.98ルカーチ「文明は辺境から起こる」p.104小泉純一郎は地元(横須賀や川崎)の都合から考える当たり前の政治家。神奈川県の国税還元率は29パーセント。島根は400パーセント以上。神奈川は薩長、戦後政治の幕藩体制に対する維新への動きが構造改革。

世界を考え直すヒントになるような話がたくさん示されている。刺激的な本。

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午後から夜にかけて仕事をし、プロフェッショナルでお茶師のお茶の作り方を見ながら夕食。入浴、就寝。かなりよく寝たが5時起床。朝散歩に出かけた。もうすぐ夏至。6時前なのにもう日差しがかなりある。この6時を7時にしてしまおうというのがサマータイムだが、その気持ちはわからなくはない。でもこれが6時だからのんびり散歩できるのだから、個人的にはあまりサマータイムは望まない。

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今日の日中はずっと現代詩手帖の最近の詩論や詩を読んでいたのだけど、うーん、はっきり言って読みにくい。若い詩人はサブカルチャー方面の話題ばかりだし、年長の詩人は戦争や戦後詩のことばかり。われわれの年代の人たちはフランスとかの変な学問方面に走った人が多かったなあ。そういうものに関心がなく、詩というものそのものにもっと集中して読んでいきたい私のような立場の、間のような年代の人間の関心というのは掬い取られていない感じがする。詩が生命を得るのはいつの時代も言葉の「新しさ」そのものだと思うのだけど、私のほしい言葉の新しさがどうもなかなか見つからない。時代性に拘束されない、もっと普遍的な葛藤や生への不安のようなものを取り上げることは本来の詩の使命ではないかと思うのだが、その使命を果たせなかったら詩は活力を失っていかざるを得ないのではないか。

今のところなかなかこれという言葉にめぐり合えてはいないけれども、詩の可能性と未来は信じたいと思う。

"詩人とは言葉を新しくする者/シオニズムと反ユダヤ主義の共通性"へのコメント

CommentData » Posted by shakti at 08/06/18

>詩人たちも、言葉を新しくするという使命を持っている点で同じ位置に立っている。

>作品は、自分の中で限界ぎりぎりのものを示すことが多いから、

評論家の清水義典が純文学とは純文章なのだ、と言う純文学の定義をしていまた。ややトートロジーに近い言葉遣いではありますが、言いたいことは伝わってきますね。

CommentData » Posted by kous37 at 08/06/19

コメントありがとうございます。

純文学というのはある意味すべて実験ということかもしれません。そういう意味では現代詩も同じ地点に立っているといえますね。

いまだ書かれたことのない、あるいはいまだ書かれたことのない形での、文章表現こそが真に新しい文章であり詩句であると思います。少なくともそれを目指していなければならない。その結果がどうなるかは別なのですが。

言葉の可能性、表現性を広げていくことが人間がより言葉というものを使いこなしていくことにつながり、またそれが人間というもののありようを深めていくものになったらいい、ですね。

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