『青猫』:のをあある とをあある やわあ

Posted at 08/05/19

昨日。日記をアップして一段落してから、『文芸時評』を砂町図書館に返却に行く。天気が良くて、下町の路地を自転車で走るのが気持ちよかった。返却した後、文芸書の棚が気になってしばし見る。このあたりの図書館で、一番文芸書をみていて惹かれるものがあるなあと思う。石田波郷の記念館と同居しているせいだろうか。村上春樹が訳した超短篇集にも引かれたが、造本がばらばらになりそうな文庫だったのでちょっと敬遠して、萩原朔太郎『青猫』(新潮社、1923:復刻・日本近代文学館、1981)と池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』(岩波文庫、1989)を借りる。

ウィーン世紀末文学選 (岩波文庫)
池内 紀
岩波書店

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帰ってきて少し休んだり昼食を食べたり『カラマーゾフ』5巻の「ドストエフスキーの生涯」を読んだりしたあと、3時頃から掃除にかかる。4時前に両親来。5時から近くの和風ファミレスで兄弟会。私は4人兄弟だが現在独身なのは私だけなので大人が9人、子どもが8人来た。久しぶりにその相方・子どもたちも含めて全員揃う。子どもたちも最初はぎこちなかったが、そのうち本領を発揮して仲良くやっていた。少し賑やか過ぎるかと思ったが、離れのようなテラス席だったからまあ良かったのだろう。

終宴後、私の住居に来てもらう。ここは兄弟たちも学生時代には住んでいたところなので、懐かしかっただろう。かといってそう広いわけではないので、17人もいたら大賑わいだ。30分ほどいたが子どもたちは『テレプシコーラ』にかじりついたりしてそれなりにみな楽しんでもらえたようだ。大人たちは部屋の中を懐かしがっていた。その頃の家具がまだずいぶん残っているので。

面白かったのは、私は高3のときに買ってもらったステレオをいまだに使っているのだが、ターンテーブルを見て「レコードだ!レコードだ!」と盛り上がっていたこと。「鳴るの?」というので「鳴るよ」といって一枚かけて見ることにしたのだが、ちょうど出せる位置にあったLPが中島みゆきだったので、それをかけたのだが何だか可笑しかった。針も盤もまあまあ調子がよかった。

***

青猫―詩集 (1980年)
萩原 朔太郎
日本近代文学館

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萩原朔太郎『青猫』。借りたときは何か考えて借りたわけでもないのだが、借りて見るといろいろなことを思い出してきた。もともと私が詩に興味を持ったきっかけは、少年時代のただいろいろな詩に無自覚的に触れていた頃をのぞくと、高校三年の現代国語の教科書に出てきた朔太郎の「遺伝」という詩だったのだ。その「遺伝」がこの『青猫』に所収されているということは知っていたが、以前文庫本で買ってはいるのだけど、なんとなく興が乗らないところもあって、全部読破していたりはしなかった。

しかし復刻版の『青猫』を見ると、これはすごいやられたなと思う。黄色のハードカバーに『青猫』と旧字体で横書きに表題が入り、その下に「西暦一九二三年版」とある。その下にはローマ字で「Sakutaro-Hagiwara」と入っている。上二行は右から左、ローマ字は左から右だ。今見てもモダンな、近未来的な、夢幻的な印象を受けるのだから、当時の人たちはあっと思っただろう。造本も面白い。詩のところは1ページが8行24字で、開いたページの両側と下が余白が広い。

私が高3のときに教科書で読んだ「遺伝」は、こんな配置になっている。(ちなみに朔太郎は昭和17年に亡くなっているので著作権は消滅している)


     遺伝(旧字体)

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

            169(左側:改ページ)
            170(右側)

さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。

              (改ページ)

お聴き! しづかにして
道路の向ふで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
  のをあある とをあある やわあ

「犬は病んでゐるの?お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」

              171(左側:改ページ)
              172(右側)

遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬は彼らの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ

               (改ページ)

夜陰の道路にながく吠える。
  のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの?お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」


              173(左側)


この詩を初めて読んだときの衝撃をまざまざと思い出した。まるで言葉の魔術のようだ。授業ではこの詩の「解釈」をしていたけど、その内容はすぐに忘れてしまった。それよりも、この詩の持っている全体的な雰囲気に、私はころっとやられてしまった。

同じクラスの生徒が先生に当てられて朗読したことを思い出す。ウケ狙いで変なアクセントで読んでいたので爆笑物だったが、そんなふうにも読めるのだ。この詩を朗読するのは大変だ。この詩の雰囲気を朗読によってさらに深化させることなどほとんど不可能だと思う。声に出して読む詩ではなく、黙読で読む詩ですらなく、「見る詩」なのだ。できるとしたら後は「歌う」ことだな。

私が詩を書いたり戯曲を書いたりはじめたのは大学に入ったくらいだと思う。誰かの真似をするとしたら、谷川俊太郎でなければ朔太郎だった。谷川も同じ詩の授業で『62のソネット』の60番を扱っていて、その感銘があった。しかし、谷川の詩の方はずっと観念的に受け取っていたので、当時の詩作も自分の観念が強く出たものになってしまったと思う。朔太郎的な美しさを、自分は作り出したいと思っていたのだけど、今に至るまでそれは達成できていないなあと思う。朔太郎の作品に正面から取り組んで見ることで、そのポエジーの秘密を探り出すことはプラスになるだろうと思う。

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