『カラマーゾフの兄弟』:うまく行かないけど素晴らしい/少年の日の聖域//意見と批評と文学の未来
Posted at 08/05/18 PermaLink» Tweet
カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)ドストエフスキー光文社このアイテムの詳細を見る |
ドストエフスキー・亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫、2006-2007)、第5巻エピローグまで読了。
初めて小説の本当の魅力に触れた気がする。小説を読むことで人生のさまざまな起こりえるけれども起こらなかったこと、起こってしまったけどうまく対処できなかったこと、さまざまな困難、さまざまな逸楽、悪魔的な所業から心洗われるような誓いまで、さまざまなことを心の中に想起することができるわけだが、普通はそれらは断片的で、この小説ならこの感動、この小説ならこの微苦笑、この小説ならこの幻滅、この小説ならこの解放感、といったものがひとつずつ付いてくる、というようなものだと思う。しかし、人生というのは感動や微苦笑や幻滅、それぞれ別々に存在する物ではなく全てが一緒くたになって襲ってくるというところにその特徴があるわけで、その人生の複雑な味わいというものを一つの小説で描ききったというものは今まで読んだことがなかったと思うのだ。文庫本で全5巻、それでもストーリーは未完の感が強い、人生をそのようにホリスティックに、全体的なものとして表現しようとしている。ロシア的、ということばを簡単に使えるほどロシアのことを知っているわけではないが、訳者の亀山の言などを読んでいるとそういうことなのかなと思う。
よく『カラマーゾフの兄弟』などは「青年の読書」というけれども、私にとっては若い頃には読めなかったなと思う。これだけのものを読みきる集中力は若い頃にはなかった。今にしたところで昨年の9月に読み始めて一度中断し、またこの5月になって改めて読み続けて読みきったのだから。若い頃は目移りするものが多い。まあそれは私の性格的な弱点なんだろうけど、今になってあまり焦らなくなったから読みきれたという面が強いなと思う。若い頃は時間があるが年をとると時間がなくなるからこういう長編を読むのは大変だ、ということがこういう作品を「青年の読書」の対象だと考えさせるのだと思うのだけど、実際のところ、若い頃に読んだのでは多分わからなかった部分もものすごくたくさんあり、できれば年配の人にも読んでもらいたい作品だなと思った。読んだことがある人でも読み直してみれば新たな味わいや感慨があるのではないかと思う。少なくとも、それが出来るくらいの時間を自分のために確保するということが、日本の大人に求められてもいいのではないかなという気もするのだ。
昨日から今日にかけて読んだ範囲。ミーチャの裁判で検事の論告、弁護人の口頭弁論がさまざまに語られて、判決が下る。そこで「お百姓たちが意地を通しました」ということになる。ここで4巻、第4部が終わり、5巻のエピローグへ。アリョーシャとカーチャ、アリョーシャとミーチャの話が語られ、ミーチャとカーチャの再会。ここがすごい。圧倒的な悲劇と偶然の喜劇。でも人生ってそんなものなんだよなと思う。最後にイリューシャの石の誓い。ここは本当にいい。主筋とは関係ない、途中で出てきた未来につながる脇筋で話を最後に締めくくるというやり方は他の小説でも読んだことがあるが、この小説ほどそれがうまく行っているものは読んだ覚えがない。あるいはみなこのドストエフスキーを真似たものなのかもしれないと思った。
葬儀の場面は本当にリリカルだ。リリカルなポエジーに溢れている。悲しいのに、こんなに希望に満ちている。アンビバレントな人生は、普通は「楽しいのにどこか虚しい」というようなアンビバレンスが普通なのに、それを「悲しいのに希望に満ちている」と逆転させるとこんなに素晴らしいものに感じられるのか、と思う。それなら人生、先のことをおそれることはないじゃないか、とさえ思わせる力がそこにある。何もかもうまく行っていないのに、深く明るい感動が残るのだ。それは、事件を通して登場人物たちの関係性がより深くなっていき、愛によるにせよ憎しみによるにせよそのきずながどんどん深まっていくところにあるのだろう。少なくともお互いのお互いに対する理解は根本的にどんどん深まっていく。人間が人間をお互いにこれだけ知ることができるのか、ということに関しては本当に感動的だ。そしてお互いがお互いを知ることによってお互いがまだ見ぬ段階に入って行き、自分でも気がつかないほど魂が深まっていく、「立派になっていく」のを感じることができるということが、その感動の本質なんだろうと思う。
それを描くことができるのは、ドストエフスキーが澄んだリリカルなポエジーから最新の科学、悪魔的な思想からロシア的な深い信仰、万民救済の理想から徹底した利己主義という具合に、あらゆる両極端を描き出すことができる、つまりあらゆる両極端をペンによって生きることができる作家だからなのだと思う。作中その両極端の深淵を生きることを「カラマーゾフ的」とミーチャの性格分析を通じて語られているが、まさにドストエフスキーがそういう人間であったからこそこういうストーリーを描ききれたのだと思う。巨人、という言い方があるが、徹底した無慈悲さと深い慈愛の同居するスターリンのようなロシア的な人格の一つの原形とでもいえるのかもしれない。こういうものを愛するロシアの国民性というのは他国民にとっては謎だが、侮れない深いものがあるなと思う。そしてそれを世界中の人に読ませるドストエフスキーの筆力もまた素晴らしい。
うまく行かないものだけど、人生というものは素晴らしいものなのだ、ということを教えてくれる小説なんだなと思う。言い換えれば、人は苦しむために生きているのだけど、だけど人生は素晴らしいのだ、ということだ。こうしたことばを、私は若い頃は人生は苦行だ、という主張だと感じどちらかというと反発を覚えていたのだけど、そうではない。人は思うままに、信じるままに生き、それぞれ成功したり失敗したり、絶望したり希望に燃えたりする。そういうこと一つ一つが素晴らしく、心の震えるような感動を伴うものなのだ、ということなのだ。悲しみも苦しみもそれから逃げずごまかさず、それを精一杯深く生ききることで、感動を獲得できる、というふうに言ってもいい。感動するということは大変なことなのだ。
この小説は絵画的だなとも思う。宇宙的でもある。しかしその宇宙を描き出す絵画は曼荼羅などとは意味も雰囲気も違う。曼荼羅は知的に、また空間の広がりとして宇宙をとらえているように思うが(それだけではないかもしれないが)、この小説はもっと感覚的に、そして時間的・物語的に宇宙をとらえている。絵といっても、双六のようなものなのだ。キリストの絵物語とでもいえばいいか。時間的広がりを表現した絵。空間的には、不自由さを感じさせるわけではないがそうたいして広い範囲が舞台になっているわけではない。時間的にも物語自体がそう長い期間の話ではないけれども、それが想像させる範囲は過去にも未来にも大きく広がっている。
ゲルトェンシトゥーベ医師の語るミーチャの胡桃のエピソード、好きだなと思う。最初は何のことはない感じで読んでいたのだけど、それを繰り返し思い出させられていくうちに、深い感動に襲われる。「白いひだ飾りのある布に覆われた空色の棺」とか、「お墓に土をかけるときにはパン屑もまいてね。スズメが飛んでくるようにね。だってスズメが飛んでくるのが聞けたら、ぼくは一人じゃないんだってわかって嬉しくなるもの」とか、「イリューシャの石」とか、ドストエフスキーは本当に、そうした「少年の日の聖域」のような物を描き出すのが上手い。自分の中にもそうした聖域が少年の頃にはたくさんあったのだ、ということがまざまざと思い出させられる。それらは、失われてしまったからこそ永遠なのだ。
最後に重要な伏線が残されているのだが、ドストエフスキーはそれを解決しないまま死んでしまった。しかしそれがミロのヴィーナスの欠けた両腕のように、無限の想像力を生み出す源泉になっているのがすごいと思う。私も若い頃、「カラマーゾフの兄弟・第2部」がどうなっていくのか、ということを題材にした芝居(私が書いたわけではない)をやったことがある。野心のある作家なら、一度は挑戦したいテーマなんだろうな、と思う。
第5巻はエピローグの後に訳者の亀山が書いたドストエフスキーの生涯、年譜、解題と続くが、これはゆっくり読むようにしようと思う。
***
文芸時評―現状と本当は恐いその歴史吉岡 栄一彩流社このアイテムの詳細を見る |
吉岡栄一『文芸時評』読了。こんな大冊で批評について論じたものを読んだのは初めて。近代日本文学の批評の歴史について一通り理解する、という点では収穫があったが、いろいろな点で難点が目に付いたことは否めない。
一つはテーマが拡散してしまっていること。文芸時評において、吉岡は村上春樹の『海辺のカフカ』を例に上げ、手放しの絶賛から口を極めた酷評まで専門家の見解が分かれることは問題ではないのか、ということを序章で問題提起しているのだが、本文は文芸時評の歴史を追うことに追われ、その問題はどこかに拡散してしまっている。そしてとってつけたように終章でまたこの問題を提起しているのだが、どうも焦点がぼやけてしまっている。それは、文芸時評の役割についてそれぞれの意見を紹介するにとどまり、吉岡自身の意見がよく見えないからだろう。
批評とは何だろう。評価とは何だろう。評価が分かれることが、そんなに問題だろうか。どういう視点から見れば、評価の分裂が問題になるのだろうか。また、どういう視点から見れば問題にならないのだろうか。
確かに少年時代、私は何でも信じる、あるいは信じようとする少年だったので、調べれば調べるほど一つのことについて人の意見が異なることには非常に困惑していた記憶がある。そして正しいとされることについても本当にそれが正しいのか、いつも調べたい、確かめたいと思っていた。直観的に正しいと思うことはほとんど疑わないのだが、頭で考え出されたものについては信じられなくて困った覚えがある。最大の物は民主主義という制度であったけれども。
私は無邪気に、人は徹底的に話し合えば一つのコンセンサスに達し得る、と少年の頃は思っていた。だからいろいろなことについて意見が分裂するのは、まだそれが徹底していないからだと思っていたのだ。しかしさまざまな苦い経験を経て、人の考えというのは本当にそれぞれで、そう簡単に一致し得ないものだということが身を持って分かり、また逆に言えば人間は人の意見に縛られず自分なりの意見を持ってもいいのだということも理解するようになった。
しかしもちろん、人間は行動に移すとき、たとえ仮にでも意見を集約して集団の意志を示さなければならないことは往々にしてある。そのときに話し合って一致点に達することもあれば、折り合いをつけて妥協することもある。だからそれを意見とか評価の視点から見れば、異見とか評価というものは常に「衆目の一致」から「人ぞれぞれ」の間で動いているものだということになるわけだ。
たとえば村上の作品の評価に関して酷評と絶賛に分かれるのは、私はいわば当然のことだと思う。村上の作品はそういうものだと思うからだ。可能性を感じさせるところとタブーを冒しているところの双方を含んだ幅広い作品なのだ。こういう作品はそう簡単に衆目が一致することは考えにくい。時代が移り、文学観もまた変化していくにつれ、自然にその位置が決まっていく、村上の作品はそういうところがあるのだと思う。
吉岡は、意見が一致するべきだとは思わないがばらばらでいいとも思わない、しかしある程度の一致点が見えなければ読者は混乱するのではないか、ということを問題視しているわけだ。しかしそれはたとえば、イスラム教と仏教はどちらが優れた宗教か、という問題と似ていて、そんなことは根本的には言いようのないことなのだ。一般の小説作法にしたがって書かれた作品なら、そのものさしによっていいとか悪いとかいえるけれども、村上はそうしたものさし自体をあまり考慮に入れていないし、普通に言う小説というものとは別の物をつくっているように思う。ということは、批評はまだ十分には村上の作品に追いついていないということなのだろう。それを追いかける価値があるか、それともそんな物はないと思うのか、という時点で評価は分裂しているように思われる。だから彼の作品に関して言えば、分裂していること自体を憂えるのではなく、そうした作品として評価する、という視点を持てばいいように思う。
新奇に見える作品でも、続く作品によって作者の評価が確立して行く作品もあれば、逆に一発変なものを書いて終わってしまった、という作者もある。だからこういう作品の評価が難しいことは否めない。村上がすごいのは、これだけのキャリアを持ち、これだけの部数を売っているのに評価が両極端に分かれていることなのだ。少なくとも彼が死ぬ、あるいは筆を折るまでは、評価がある形で定まることはないと思う。そういう意味での巨人であるとは言える。
しかし、この本を読んでいて感想としてでてくるのは、本当に文学って必要なのかなとか、文学って何だろうとか、そういう多少うんざりしたようなものが多い。それはこういう立場からの書き方が宿命的に持つものかもしれない。つまり、批評というものは結局はそれが批評している作品を読まなければ完結しないものであるということだ。そしてまた、吉岡のような文芸時評を批評するという立場にたてば、江藤や平野の文芸時評を読まなければ完結しないことになるし、そうなるとさらに江藤や平野が批評している元の作品を読まなければならないということになる。私はもともと文学プロパーではないから、批評家についても作家についても作品についても知っているものより知らないものの方がずっと多く、しかしかといって小林秀雄のように批評そのものが作品として成立しているというわけではないので、なんだかずっと目次か索引を延々と読まされているような気がしてきた。
しかしこういうものはこういうものとして、野心的な試みだとは思う。問題は、批評における評価の分裂という問題を論じることと、近代批評史のような概観的なテーマをキメラ的に接合してしまったことにあるのだと思う。これをきちんと分けてくれてあれば、もう少し印象は違ったものになったのではないか。それぞれのテーマはテーマとして、関心の持てるものだと思うからだ。
まあそういう不満は残るのだが、批評の歴史を知る上では多くの発見があり、勉強させてもらったことには感謝したいと思う。
最終的には、「文学は大丈夫か、滅びるのか、このままジリ貧で行くのか、復興しえるのか」というようなことに関心は集中していくのだろう。それは商業主義の問題もあるし、作家のセレブリティ志向の問題もある。また読者の方から言えば、人生いかに生くべきかといった問題が、古典的な文学や哲学への関心からマンガや占い、ポジティブシンキングなどの流行の「考え方」、ハウツーもの、心理学、ネットに溢れるさまざまな言説、成功願望を刺激するさまざまな指南書から、果ては怪しげなカルトまで、文学や哲学に代替するさまざまな解決方法が示される中で、文学が存在感を失っているということがあるのだろうと思う。
しかし「人生いかに生くべきか」という問題が消滅することはなく、お手軽な解決方法では解決しない問題はあまりに多く、またじっくり考えたいタイプの人も決していなくなることはないと思うから、文学というものが完全に消滅することはないと思う。それが市場を失い、文芸誌が消滅し、小説が売れなくなり、ということがあったとしても、たとえば細々とネットに小説を掲載し、ひそやかにそれが読まれていくということが消滅するということはないと思うのだ。昔だったらガリ版の同人誌と言いたいところだが、現代はネットによって地球規模に広がり得る可能性を持っているところが昔とはまた違う。少なくとも「飯を食っていく」ことを度外視すれば、文学自体がなくなることはない。それが今とは全く異なる形態になっていることはあるとしても。
まあそれは極論かもしれないが、極論においても文学がなくなることはないのならそんなに恐れることはないんじゃないかなという気が私はするわけだ。もちろん、そういって危機感を煽り立てることで関心を呼ぼうという戦略であるならそれはそれでありだとは思うけれども、その戦略ももう100年くらい続いているのでもう少し違う戦略を出してもいいとは思う。そういう考え方自体がある種の伝統芸能ではある。
内容的な発見では、柄谷行人の指摘になるほどと思った。私小説は「肉親というもっとも直接的・自然的なものの神話を非神話化しようとしている」。そういう視点からは見たことがなかった。そういう解体が必要なことかどうかは別にして。というか、日本の近代はそういう方向に進んでいったということなのだろうな、私小説を先兵として。そういう意味では私小説は日本の近代というものの苦衷のもっとも端的な現われだということができるのかもしれない。
***
昨日。午後から夕方にかけて仕事をし、6時59分の特急で帰京。車中、『カラマーゾフの兄弟』4巻と『文芸時評』を読み終わる。車窓には少し雨が伝っていたが、地元の地下鉄の駅で降りたときには雨の気配はなかった。昨日は寄り道することなく帰宅、正確に言えばセブンイレブンに寄ったけど。夜は『カラマーゾフの兄弟』5巻にかかったが最後までは読めなかった。朝、6時前に起きてから一気に読了。昨日今日でカラマーゾフは200ページ以上、文芸時評は70ページ以上読んだ。結局、読みきれないと安心できないというプレッシャーで最後の方は読んでしまった。あまりそういう読み方はよくないとは思うのだが。『文芸時評』は何とか図書館の返却期限に間に合った。
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