高踏と啓蒙/良心の呵責

Posted at 08/05/16

昨日。午後から夜にかけて仕事。いつものように後半は忙しく。帰ってきてテレビを見る。最近ダルビッシュに勝ちがつかないなあ。今年は20勝はしてほしいのだが。夜はそんなに遅くなく就寝。でも朝の起床は6時半を過ぎていた。

今日は午前中職場の掃除を少ししたあと、ずっと本を読みつづける。少し詩も書いたが。このところ連続して『文芸時評』、『カラマーゾフの兄弟』、『情報は一つのノートにまとめなさい』、『恥部』を並行して読んでいる。昼食をはさんで、さらに読みつづける。

文芸時評―現状と本当は恐いその歴史
吉岡 栄一
彩流社

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『文芸時評』。現在336/446ページ。今日は80ページ近く進んだ。付箋を8箇所につけている。秋山駿、奥野健男、川村二郎、篠田一士、菅野昭正、石川淳、丸谷才一と7人の時評のメタ批評。

秋山は「私を探求すること」をそのテーマに挙げている。時評の文章を読んだ限りでは、一番納得できる批評であるように思った。奥野は笙野頼子を酷評し、そのためかどうか笙野は群像新人賞を取ったあとふたたび脚光を浴びるまで十年のブランクがあるというのもすざまじい。川村、篠田、菅野については外国文学者の時評で、いわば文壇のアウトサイダーによるもの。これは良し悪しだなと思った。篠田は私小説よりロマネスク小説を評価。このあたりは私の感じと似ているところもある。ただ、私の場合は最近私小説的なものも悪くないんじゃないかと思い始めてるところもあるのだけど。

石川、丸谷といった人たちは朝日新聞の時評。文芸時評で一番オーソドックスな権威があるのは毎日のものだそうで、それははじめて知った。石川は朝日新聞の時評で単行本中心に舵を切り、また一般向けの読書案内になり、内容も高踏的なものになって、本来啓蒙的な性格を持っていた文芸時評がその性格を失ってしまった、という。これはつまり、どう言うものがよく、どう言うものが悪い、という価値観自体を文芸時評が啓蒙していたということなのだろう。私は子どもの頃から大人になるまで(今は読んでいないが)朝日新聞を読んで育ってきたので文芸時評というのは高踏的なものだと思ってきたのだが、伝統からいえば特異なものであったのだと言うことは初めて知った。

ということであと110ページ。日曜日が返却期限だが、何とかそれまでに読みきることができるかどうか。

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
亀山 郁夫,ドストエフスキー
光文社

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『カラマーゾフの兄弟』。現在430/700ページ。こちらも70ページ読んだ。「悪魔」とイワンの会話が中心。このあたりかなり読み応えがある。イワンが幻覚を見ている、という設定なのだとは思うが、幻覚にしてはやたらと論理的な悪魔だ。つまりは結局スメルジャコフを結果的にそそのかして父親殺しに走らせたことへの良心の呵責、ということなのだろうか。しかし幻覚らしく少し喋っては次々に話題が飛んでいくので読むのが大変といえば大変。私が書いた小説でもそういうのがあったな。やはり読み手としてはこういうのは読みにくいんだなと思う。最後の『地質学的変動』にはそのへんの核心が書かれていて、推理小説的な興味も高まる部分がある。第12編に入り、いよいよ裁判が始まった。さてどのような結末に向かうのか、興味が高まっていく。

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