ポストモダンとアイデンティティ論、など

Posted at 08/05/09

昨日。朝からいろいろなことが思いつき、取り組もうとしていたことがたくさんあったのだが、いきなり20年ほどあっていない友達から電話がかかって来て近くに来ているので会いたいということになり、職場に出かけていって会った。さる格闘家の関係者の車に便乗して小淵沢に行くついでに、信州まで足を伸ばしてきたということらしい。たまたま2人とも熊本県の出身で、長野県と熊本県の県民性の違いというような話をしたり。途中で両親が加わったので(昨年両親が九州を旅行した際、彼には相当世話になった)、あまりこちらの話はできなかったのだが、地元の新聞に連載を持ったり、いろいろ活躍しているらしい。どちらも時間がなかったので慌しかったが、旧交を温めることはできた。

急いで電車に乗って岡谷に出かける。岡谷という町をあまりちゃんと把握してないので目的地に行くのに方向を確かめるだけでかなり時間がかかった。東京で私が住んでいる江東区は、道案内とかが充実していて知らないところでも自分の位置や目的地の方向がかなりつかみ易いのだが、このあたりは本当に何にもなく、それに腹を立てたり。地域起こしといっても、結局外部の人たちにどれだけきてもらうかが勝負だと思うのだが、知らない人には全然不親切な町のつくりなのだ。そういう意味で、景気が悪い悪いといっていても結局は太平の眠りを貪っているということなんだなと思ったりする。シルクの岡谷の過去の栄光。まあそういうのは岡谷だけでなく、長野県の多くの町で感じることなのだが。

文芸時評―現状と本当は恐いその歴史
吉岡 栄一
彩流社

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午後は自室で『文芸時評』を読む。私はまさに学生時代、ポストモダンの時代に居合わせたわけだが、雰囲気は呼吸していても理論的には全然吸収しようとはしていなかった。だから話を聞いてもいっていることややりたいことはわりあい理解できるのだが、ポストモダン関係がその後どういう展開を見せ、それが文学やひいては社会をどのように変えたのかということについてはっきりした問題意識を持っていなかった。

ポストモダンの文芸理論というと、結局はテクスト論ということになりそうだ。テクスト論の面白さは二つあって、すべての表現をテクストと見るという見方。これは解釈という人間の行為を無限に拡大する可能性を持ったもので、ある意味宗教的な可能性をも内包しているように思う。「自然とは神によって書かれた本」であり、その本を解読することによって世界を知る、という宗教理論ないし汎神論的な方向の、現代思想版ということもできるかもしれない。もちろん、自然そのものを対象にしたらちょっと超越的になりすぎるが、人間が造ったものは庭でもポスターでも音楽でもすべてを解釈の対象にするという考え方は面白いと思う。

もう一つの面白さは、というかこれが根本であり問題でもあるのだが、文章を「作品」としてではなく「テクスト」として読むというスタンス。つまり、背景を持った作者が素晴らしい力を振るって作り上げたありがたい「作品」を読むのではなく、文章そのものを価値中立的に「テクスト」として読もう、というスタンスである。作者の意図とか書かれた背景を全く捨象して、文章そのものを精緻に読み取り、それを組み立てて精巧な解釈を組み立てていってそこに書かれているものを読み取っていこうという考え方である。これは、作者の意図とか背景とかに「寄りかからない」で文章そのものを読み取ろうということで、より文章を深く読み取り、また見落としていた解釈の可能性を拾い上げていくという意味で、面白い部分がたくさんある。

しかし、作品を完全に作者と切り離されたものと見るのは、一つの見方であろう。つまりイデオロギーである。そしてそれが「作者」の特権性を剥奪するというもう一つの(敢えて言うなら)似非平等主義的なイデオロギーと結びつくという結果をもたらした。それが「作者の死」という概念である。

その結果、この種のポストモダン批評は温かみを書いたものになってしまっているように私には思われる。テクストだけを読み込み作者を抹殺するということはすなわち、作者のアイデンティティを抹殺するということに等しい。何のためにこの文章を書いたのかという目的は考えなくていいということになるからである。これはどう考えても行き過ぎではないかと私は思う。

ポストモダン思想というのは現在では過去のものになりつつある。というのはそうした相対化の理論では現代の世界状況をうまく説明できないし、それを改善し、乗り越えていく力も持ち得ないからである。ポストモダンの批評家たちの世界理解は、結局は自分たちの理論とは無関係のところで別の思想に依拠して自分の主張を展開しているに過ぎないということに多くの場合なっているように思われる。

しかし、文芸評論の世界では、まだまだテクスト論の影響は猛威を振るっていると思う。文芸評論は基本的には狭い世界だし、文学を読むことが自分の生きかたに直結していると圧倒的多数の国民に思わせるようなそうした切実な必要性がないから、ある意味前時代の遺物のようなポストモダンが生き残りえる環境になっているのではないかと思う。

ポストモダンはいつ死んだのか。日本の政治状況がポストモダン的になったのは文化面よりは送れて、1990年代だと思う。非自民非共産の細川連立政権はまだそうした枠組みがあったが、自社さの村山政権はもう完全に何でもありで、まさにポストモダン的な状況になったと思う。しかし、その村山政権を阪神大震災と地下鉄サリン事件が直撃した。村山ポストモダン政権はそれになすすべなく敗れ去り、社会党の決定的退潮を招くことになったと思う。自民党はまだ生き残ってはいるが。

そして相対化の時代を決定的に終わらせたのが911の同時多発テロであった。このあたり、『ロシア 闇と魂の国家』でも佐藤と亀山の見解が一致している。ポストモダン的な歴史理解は911で終わったと。私も基本的にはその方向でいいのだと思うが、現実にはその移行はもっと段階的で、文芸評論のように切実性が少ない分野ではいまだにその尻尾が引きずられているのだと思う。

ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)
亀山 郁夫,佐藤 優
文藝春秋

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では911後、主要な問題理解の理論は何に移って行ったのか。小林よしのりはそれを「アイデンティティ・ウォーズ」と表現している。実際、各国のナショナリズムの高まり、反グローバル主義、また一方ではグローバリズム、ファンダメンタリズム、等々各自がそれぞれアイデンティティを主張し、それを仲裁する思想が存在しないと言う状態に現在はなっていると思う。光市事件の裁判でも弁護団の奇怪な主張は死刑廃止論という一つのアイデンティティのグロテスクな発現であるし、それに対抗する被害者遺族の主張もまた今まで表に出てこなかったアイデンティティの強力な主張であり、この二つを仲裁する思想は存在しないのである。現在はある意味、アイデンティティ主張の無法状態とでも言うべき状態であり、それを仲裁できる可能性があるのかないのかといったことが、現在の理論的な大きな課題になっているのだと思う。

というようなことを考えた。まだまだ展開できそうな気がするが、とりあえずメモ程度に。

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
光文社

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その後『カラマーゾフの兄弟』を読む。ドミートリー逮捕に向かう動きは小説的で、非常に展開が早く、速いスピードで読める。案外この巻はすぐに読めるかもしれないと思った。

仕事は後半が忙しく、12時過ぎに就寝し、今朝の起床は7時過ぎ。疲れているとは言っても少し寝すぎかもしれないと思った。

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