詩人と脱領域/ハードロックカフェ/着る物は安くても高くても消耗品

Posted at 08/04/28

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)
高山 宏
講談社

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一昨日の夜帰京。昨日はどうも疲れが出て、なんてことを毎週書いているが、まあ例によって。午後、友人から電話がかかってきて上野で会う約束。夕方、高山宏『近代文化史入門』(講談社学術文庫、2007)をポケットに入れてでかける。メールで遅れるとの連絡があり、東京駅で降りて丸善で種村季弘『ぺてん師列伝』(岩波現代文庫、2003)を買う。これは高山の本に出ていた物で、18世紀初頭のスコットランド人の財政家ジョン=ローについての話が出ているということで買った。

ぺてん師列伝―あるいは制服の研究 (岩波現代文庫)
種村 季弘
岩波書店

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ジョン=ローというのは「ローのシステム」という言葉で世界史的に有名な人物で、摂政時代(ルイ15世幼少期のオルレアン公摂政時代)のフランスでミシシッピ開発を担保に不換紙幣を発行して大規模なバブルを巻き起こし、フランス経済を破綻させた人物だ。経済学的にはいろいろな見方があるが、ある種のペテン師だといえなくもない。(経済人の中には一歩間違うと山師、二歩間違うとぺてん師がいなくもない)歴史学上はそういう存在も知ってはいるが、その実情を考察したことはなかったので、ちょっと興味が引かれた。そのほかにもたくさんのペテン師が集められているらしく、面白そうな本である。

高山の本もそうだが、今まで歴史学の枠組、フレームワークを勉強してきたけれど、その中身がどうも詰まっていない、自分の知りたいこと、考えたいことがどうも歴史学ではあまり探求できないと言う感があったが、こういう文化史的な側面からの仕事を読むと、こういうことが知りたかった、こういうことを調べたり考えたりしたかった、ということが多い。高山はこういう仕事を「脱領域の文化史」といっているけれども、まさにそういうことなんだと思う。

これは、私の性質の問題とも重なるのだが、リアリティに魅力を感じずポエジィを追求したいメンタリティにとっては、実学的な歴史学が解明できるのは枠組に過ぎなく、私にとっては欲求不満がたまることになる。ポエジィというのはかけ離れた物をぶつけ合うところに生じる、と西脇順三郎も言っているが、私もそういうものだと思うので、そういうものをぶつけつつ思考を展開するようなやりかたは専門化が進んだ現代の学問においては忌避されることになってしまう。今までわたしはそういう枠組にあわせて思考を縮こまらせていたのだけど、詩を業とすると開き直ってみれば大義名分を持って専門化に合わせる必要から解放されると言うことに気がついた。

詩人とは、その存在そのものの志向が脱領域なのだ。むしろ、領域に従属していたら詩人の魂は死んでしまうのだ。

と考えると実にすっきりするのだが、それは逆に言えばアカデミズムからは一生孤立すると言う覚悟と裏腹ということになる。しかし魂が死んでしまえば元も子もないから、自分なりの学問を探求しつつ、アカデミズムとは訣別するしかないと言うことなのだと思った。

寺田寅彦が東大を辞める際、「命には代えられないでしょう」といったというが、多分同じようなことを言いたかったのだと思う。寺田の仕事には、詩がある。それは彼が随筆家であり俳人であり夏目漱石の門下であったこととももちろん関わりがあるだろう。私も詩情を感じることを糧とし、詩情を探求し表出することを業としていくしかないのだと思う。

5時半頃にアメ横の入り口で友人と落ち合い、アメ横センターの地下へ。昨日のアメ横はGWということもあるのだろう大混雑で、でもなかなか楽しい場所だった。ほしい物が何でも安くて庶民の味方とはこのことだと思う。買い物に付き合った後、上野駅に戻りハードロックカフェに。特に深い考えもなく入ったのだが、店の雰囲気に和みまくった。昔はただうるさめのカフェ・バーという以上の感慨はなかったが、今となってはこれだけ濃厚に80年代の雰囲気を残しているところはなかなかない。同じ年代の友人というのはこういうところでツボがずれないのでありがたい。「ラブリーリタ」というカクテルの名前もいい。マルガリータっぽい味だったが。結局2時間以上雰囲気に浸ってどこにも出なかった。

ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)
亀山 郁夫,佐藤 優
文藝春秋

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カラヤン帝国興亡史―史上最高の指揮者の栄光と挫折 (幻冬舎新書 な 1-3)
中川 右介
幻冬舎

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帰りにまた丸善によって本を物色。亀山郁夫・佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書、2008)、中川右介『カラヤン帝国興亡史』(幻冬舎新書、2008)を買う。いずれも脱領域っぽい。というか、私の本棚は一口で言えば脱領域、という物ばっかりだということに気がついた。だからまとまりに欠けるのだが、まとめられないのが脱領域である以上まとまりを求めるのはパラドクシカルな欲求なんだよな。しかし、そういうまとまりを希求する部分もまた自分の中に、つまり理性という名でかなり強い物があって、脱領域の世界をまとめていく意志のようなものがたぶん自分自身を救済するものでもあるのだろうというようにも思った。まさに不可能への挑戦以外の何物でもないなあとも思うのだが。

***

一時金が尽きつつあった頃は、普段はなるべくくたびれた服を着るようにしようと思っていたのだけど、最近そうでもなくなって来た。どうせ着る物というのは安くても高くても消耗品なのだ、と思う。20万のジャケットなら100年着れる、というわけでもない。そういう意味では生ものなのだ。言葉を変えて言えばタンスやクローゼットは冷蔵庫のようなもの。大事に着ていても、いずれは着られなくなる。特に私が着ているようなクラスのものならば。

だから、着たいものは積極的に着ていくことが大事なのだと思う。新しい物はなるべく着ないようにしていたので、買ってから数年たってそういえばこういうのを持ってたな、というものが結構出てくる。そんなたくさん新しい物を買うわけでもないのにそうなってしまうのはどうも本末転倒だ。

だいたい人間の肉体だって消耗品ではないか。100年はなかなかもつわけでもないし、10年たったら否応なくコンディションも変わる。20代で似合った物を後生大事に持っていても40代でも着られるとは限らない。肉体が変化し、滅びてしまう前に着たいものを着たほうがいい。肉体に服を合わせるということは、消耗品に消耗品を、と言って悪ければ生ものに生ものを合わせる行為なんだから、と思った。

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by Luke Peterson

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