りんごデニッシュ/ブレイク、ボードレール、マラルメ

Posted at 08/04/09

昨日、東京の自宅を出たときは嵐だった。雨はそれほどではないが風はかなり強く、特にときどき突風が襲うのには閉口した。荷物が多く、普段の鞄以外に旅行用のバッグを背負い、傘を差しながら歩くのはかなりたいへんだった。何もなければ家の前からタクシーに乗るのだが、団地の中のパン屋さんでりんごデニッシュを買いたかったので、ちょっと無理したのだ。最近このりんごデニッシュが好きで好きでたまらない。麻薬入り?(笑)

地下鉄で大手町から東京駅に出、新宿に出る。いつも止まる中央線が今日は動いていて、東海道線が止まっている。多少の遅延は覚悟していたのだが、特急は定刻に発車した。

いつもは東京駅でお弁当を買うのだが、昨日は前の日の残りの蟹炒飯と法蓮草のソテーをいためなおしてパックに詰め、お弁当にした。それだけでは少ないのでりんごデニッシュを追加したわけだが。かなりうきうきランチ。しかし特急の車中では爆睡した。眼が覚めてから、西脇順三郎『詩学』の「象徴」の項を少し読んだ。

郷里につくと晴れていた。雲は西から東に流れるので、西は天気がよくなっているだろうとは思ったが、かなり違う。仕事の本を職場に置いて家に帰り出直す。懸案事項は片付いた。仕事も順調。しかし帰りに落とし穴が。

実家に戻って夕食を食べ、疲れが出てそのまま寝そうになる。頑張って起きて入浴して部屋に戻ろうと思ったら鍵がない。慌てて探したが出てこない。職場まで戻って探したが分らない。そのまま探しつづけ、2時にいったん寝る。

起きたら7時40分。寝過ごした。そのまままた探し、見つからないので駅前交番に行って遺失物届を出す。帰ってきてまた探し、自分の部屋に戻ってまた探す。そしたら何と、何十回も探したはずの鞄の中から鍵が出てきた。何だよもう。でもよかった。

そのあと緊張感が解けてろくに仕事にならず現在にいたる。馬鹿だね全く。

***

詩学 (1969年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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『詩学』。象徴の記述が面白いのは、要するに象徴主義者の象徴は神とか無限の存在を有限な言葉で表すことに尽きると言うことのようだ。有限の中に無限を探すという行為が象徴主義なのだということになる。ボードレールが地獄を賛美するのも有限によって無限を求めている、ということになる。ブレイクもまた人間界を書くことで無限を求めている。
「人間の頭は崇高であり、心は哀愁であり、生殖器は美であり、手足は均衡である」
「過剰な悲しみは笑い、過剰な喜びは泣く」
「監獄は法律の石で造られているが、女郎屋は宗教の煉瓦で造られている」

ブレイクのこれらの詩句が一体何を言いたいのか今までよく分らなかったが、これらの詩句は単なるポエジーの追求というよりは、神、あるいは無限のものの姿を現実の世界に見ようとする努力、あるいは営みなのだと解釈すると、確かに見えてくるものがある。面白いと思う。

ボードレールが詩を「イロニイ」といい、マラルメが詩を「不在」というのも、それは彼らの理論、彼らの詩作がどういう企図によっておこなわれているかによるのだ、ということに遅ればせながら気がついた。マラルメは自然を「イデー」に映し出す。しかしそこに何も写らないことがある。それが「不在」であり、一部分しか写らないものもある。それが「欠如」である。マラルメは錯覚こそ鏡の性質であると考え、それがデフォルマシオンであると言う。それらもまた、目に見えない絶対的なものがあればこそ、ポエジーとして生まれ得るものがあると言うことになるのだなと思った。

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