チベット騒乱の実態と日本の現実

Posted at 08/03/17

チベット問題。

こちらのブログでは原則的に時事問題は取り上げないようにしている(mixiでは書きまくっているのだが)が、今回は容易ならざる事態であるし、しかしその割には一般の認識が低いので少し書いてみようと思う。

テレビの報道を見ていて感じるのは、日本の視聴者は歴史的に複雑な背景を持つニュースに弱いと言うことだ。外国のことならなおさらなのだが。パレスチナ問題もそうだが、チベット問題でも歴史的経緯を説明するのに簡単なフリップが出され、それをもとに説明がされていくのだけど、こういう経緯を一体どれだけの人が理解し記憶するのだろうかと思う。

産経新聞・中国総局の記者の福島香織さんのブログを読んでいるとラサの緊迫感がよく伝わってくる。

今、ラサの友人とチャットしています。14日、街は中国系商店などが焼き討ちにあいました。この日の午後7時ごろ、娘熱路と2環路の交差点あたりで、衆人環視の中で3人のチベット族が撲殺されたそうです。誰に殺されたの?「そんな怖いこと聞かないで!私はここで生きていかねばならいの!」。パソコンに浮き出る英語の文章を見て、自分の愚かさを恥じました。恐怖を抑えながら、チャット必死で現地の様子を私に伝えてくれる彼女を、神様仏様、どうかお守りください。。(3月15日の記事)
「誰が」やっているか、言えない。これはチベットに電話取材した対象がみなそう言っている。本当の『弾圧』というものがどういうものなのか、じかに伝わってくる。

しかし一方で、中国政府から出される映像はチベット族の若者や僧侶が暴れるものばかり。それを見て中国人だけでなく一般の日本人の多くも「中国もこんな凶暴なやつら抑えるには、多少の暴力もしかたなかったんじゃないか、と思いかねない。実際、日本の知人とさきほど、電話で話したら、そういう意見だった。」というから、唖然とする。中国の情報操作の巧みさは南京事件問題などでの中国人の若者の反日化などで明らかではあるが、日本人のメディアリテラシーの低さはちょっと想像を絶するレベルなのかもしれない。この程度の情報操作でチベットで起こっていることの本質を見誤ることがあろうとは想像もしなかった。本気でメディア教育を強化すべきだろう。

各国政府の対応も奥歯に物の詰まったような言い方が多く、中国政府を激しく非難する論調は聞こえてこないことは憂慮される。しかし、そうした現象面のことだけでなく、本質面のことも考えてみたい。チベット人はこの騒乱で何を求めているのか。

一つには経済的・文化的なことがあるという。これは福島記者の記述で知ったのだが、チベットには漢族だけでなく回族(イスラム化した漢族)の流入が進んでおり、一説にはチベット人人口の総数を上回る数の漢族・回族が政策的に移民させられようとしているのだという。そのための強力な手段となったのが青蔵鉄道なのだ。ただでさえ人口の少ないチベット人の若者の仕事は奪われ、チベット仏教の聖地であるラサには漢族文化が溢れている。回族を使ってチベット人を抑えようというのはベトナム人を使ってカンボジア人を抑えていたフランスのインドシナ支配と同じ手法であり、回族とチベット人との対立も深まっているのだという。特に漢族文化に対する文化的危機感は強く、それが今回の騒乱の底流にあるということは間違いないだろう。現に東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の主要都市ウルムチは人口の75%が漢族になっていると言う。中国共産党がラサをもそうしようとしているという疑いが起こっても不思議ではない。

二つ目はダライラマの非暴力主義に対する批判だ。ガンジーもそうだったが、結局は非暴力主義では事態を変えることはできないのではないかと言う行動派の主張が強まったということになろう。しかし、テロリズムに対する国際的な厳しい目の中で、実力行使をすることはダライラマが今日まで築き上げてきた、ハリウッドを中心とする共感によるチベット支援の広がりが絶たれる危険がある。しかし、アラファト後のパレスチナが混乱しているように、ダライラマの求心力は低下しつつあるのかもしれない。もちろん活仏としてのダライラマでなく、政治家としてのダライラマの。このあたりは局面的に注視すべきところだろう。

三つ目は、チベット人の望みそのものだ。それはつまり、「宗教の自由とダライラマの帰還」ということに尽きる。それについて福島記者は「その深い恨みと悲しみを本当に癒すのは、金でもなく、女でもなく、ダライ・ラマ14世の帰還と宗教の自由というあたり、チベット族のメンタリティは、中国人にも日本人にもなかなか理解できないのだが、(後略)」と書いている。なぜ理解できないのかが理解できない、と言ってしまっては身も蓋もないが、チベットにはダライラマが必要であり、チベット仏教の信仰が保障されれば彼らに不足はない、というのは十分理解可能なことだと思う。現世的なことによってしか「癒し」はない、というのはあまりに超越的なものの持つ力に不案内なのではないかと思う。ただ、これはおそらく福島記者に限ることではないのだろう、ということは十分理解できる。

私がこのブログを書いていて、たとえば靖国問題に対する反応とかを読んでいてもちょっと自分とのあまりのメンタリティの違いに唖然とさせられることはかなりあった。また、人の「死」をめぐり、その前では日ごろの対立を超えて死者を悼むべきではないかという私の考えもあまり一般的でないことが分かったときもかなり大きなショックを受けた。人を超えた大きなものに対する畏敬の念、というものは、我々より年長の世代には当たり前にあったように思うけど、われわれとそれより後の世代には失われてしまっていることが多いらしい、と思うと、この社会が殺伐としているのも無理もないことなのかなという気がしてくる。

だから私などは、そうしたチベット人の望みを読むとむしろホッとするのだが、多分現世的な中国人などにとってはそうした望みも軽蔑の対象でしかないのだろうと思うと心が痛む。私もこういう問題について書いたときに小馬鹿にされるような対応を取られてずいぶん心が痛んだことがあるが、そういうメンタリティのない人にとっては崇高とか至高とか神聖とかいうことの価値自体が分かってないのだからむしろかわいそうな人たちだと考えるしかないのだろうと思う。

こうした価値観のすれ違いから、中国は今後もチベットの支配を「反封建・反前近代」の立場から正当化し、強行するだろう。それはチベット人の望むものとは真っ向から対立するものである以上、中国共産党政権が倒れるまでチベット人に平穏の日が来ることはないということになる。しかし彼らの西部大開発も結局はグローバル資本主義の一環であるという面もあることを考えると、チベット人の受難は今後も続くのだろう。

三島由紀夫が日本の将来について、「個性のない豊かな国が東アジアに出現する」と言うようなことを言っていた(文言は正確ではない)が、それは現実化しつつある。

私は、日本は日本であり続けて欲しいと思うし、それと同じ意味でチベットはチベットであり続けて欲しいと思う。そしてそれは中国が中国であり続けることとは矛盾しないはずだ。グローバル化されたひとつの価値観で席巻される世界など、私は見たくない。

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