『悪女について』:もともと人間は謎なのだ

Posted at 08/03/14

昨夜。仕事は早上がり。夕食は少し食べ過ぎたかも。夜は早めに寝る。朝は6時20分起床。いろいろ試行錯誤。空いている時間は有吉佐和子『悪女について』を読む。午前中は活元会に出かける。雨は一時的に上がっている。久しぶりに相互運動をする。やりにくい相手とやりやすい相手というものがあるのだなあと認識する。そう思ったのは初めてかもしれない。今までやりやすい相手と組ませてもらっていたのだ。

帰りは雨と風が強かった。手袋をはめようとしていたら風で傘が飛ばされ、拾いに行ったら骨が一本曲がっていた。松本電鉄はほぼ待ち時間なしで乗れ、松本ではすぐ小淵沢行きに乗る。地元のデパートで調理パンと牛乳を買って帰宅。少なめにしたつもりだったが、ちょっと多かったようだ。

悪女について (1978年)
有吉 佐和子
新潮社

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有吉佐和子『悪女について』読了。うーんなるほど。『小説のメソッド』で推薦するのはわかる気がする。最後まで、種明かしがあるかあるかと思って読み進んだのだが、このラストは「種明かしはない」と言っていいだろう。つまり、この主人公の正体がすぱんと分る、というラストではないのだ。短篇小説のラストには二つの終わり方があって、すとん、とオチが付くタイプ(ラストでなるほど、と腑に落ちる)と、余韻を残して終わる、というタイプがあると『小説のメソッド』に書いてあったが、この小説は前者だと思わせておいて実は後者だ、という構成が巧みだと思った。

27人の登場人物が主人公を語る、という構成はなかなか腕力がいると思うし、読み進めている間は作者は一体何が言いたいんだろうと思いながら読んでたのだけど、ラストに来てなんとなく納得させられる技はすごいものだ。そしてちゃんと謎は残す。うーん。でもそれは主人公の謎というよりも、人間そのものが謎の存在なのだ、というような謎なのだ。『ルードヴィッヒ』のラストに「私は謎でありたい」というセリフがあるが、もともと人間は謎なのだ。スフィンクスごときに解けるような謎じゃないというべきだ。

具体的に書くと興趣を殺ぐのでどの誰とは言わないが、主人公に一番似ているのではないかと思われる登場人物が出てくる。その話を聞いていると、なるほど彼女はこういう人間だったのではないかなと思わせられるのだ。27人それぞれが勝手に自分の見た主人公像を語り、その主人公像はあちこちで矛盾するだけでなく、語り手たる登場人物たちそのものもほかの登場人物によってその実態が露わにされたりして、もしその中の一人に自分がなっていたらと思うと身震いするような感じである。当たっていると思う批判や事実の指摘もあればそれはないだろうなあと思う指摘もあるし、なにより「自分だけの彼女」を陶然と語る男がこれでもかこれでもかと出てくるのは「なんじゃろなこれは」と思うけれど、現実に恋愛をする男というものはそういうものかもしれない。もちろん男だけではないと思うけど。

さてこの主人公が魅力的かというと、なかなか難しい。恩恵が与えられるだけの立場にいる人間もあれば、酷い目に合う人間もいる。かと思えば、実は彼女の預かり知らないところで起こっていることも実際にはあったりするのではないかと思われるところもあるし、いやあなんというか現実の複雑さというか、決して捉えきることの出来ない現実というものをありのままに炙り出しているというところがあるように思う。いや間違いなく誉めてるなこの文章はこの小説を。

まあなんというか、いわゆる小説というものの魅力を非常に一般的に表現しているそういう意味では名作と言っていいんだろうなと思う。もっと知られている作品でもこれよりつまらないものはいくらでもある。やはり面白い作品を読むべきだろう。知られている作品より面白い作品を推薦しろといわれたら、この作品はそれに値するものだと思う。あれすごい最後はこういう誉め方になってしまった。

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