啓蟄/カポーティ・村上春樹訳『ティファニーで朝食を』

Posted at 08/03/05

今日は二十四節気の「啓蟄」。FMのミュージックプラザを聞いていたらそう言っていた。確かにここのところ暖かい。今日の午後は、部屋にいても暖房が要らないくらいの陽射しが窓から入ってきた。暖かくなるとほっとする。二月は寒かったしろくなことがなかったので、三月は暖かくていいことのある月になってほしいものだと思う。次の二十四節気はもう春分だ。

昨日帰郷。車中と着後の空いた時間、カポーティ作・村上春樹訳『ティファニーで朝食を』を読みつづける。これは表題作と短篇が三本掲載されているが、表題作を読了した。

ティファニーで朝食を
トルーマン・カポーティ
新潮社

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一般にはオードリー・ヘプバーン主演の映画が有名だろう。村上は、カポーティ―がオードリー主演に難色を示したことを書いているが、確かにこの小説の主人公とオードリーはかなり違う。幸いなことに私はこの映画を見ていないので、先入観はわりあい少ない状態で読めたのだが、それでもこの有名な写真のイメージはどうしても避けられない。性格描写はともかく、ビジュアル的にはオードリーの顔が浮かんでしまうことはどうしようもない。

ティファニーで朝食を

パラマウント ジャパン

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小説の感想に行こう。好きな小説だ。屈託を抱えた主人公の青年と奔放な女性主人公という黄金パターン。こういうパターンは村上の小説にもよくあるが、私が書くものも大体そうなってしまう。茂木健一郎がどこかでなぜ村上の小説の主人公はみんな女にもてるのか、と抗議の声をあげていたが、何というかそうじゃないと小説が書けないところがあるんじゃないかな。女性の描写をするのに女性の心の内側に語り手が入ることが出来なければ、なかなか難しいのではないかと。それを避けようとすればその他にいろいろ仕掛けが必要になるが、そんなところに仕掛けの工夫を使ってもあんまり意味がない気がするし。

もてない男が語り手の作品、というと松本零士『男おいどん』とかを思い出すが、あれは女性の内面の描写でなく語り手というより主人公の男そのものを描こうとしたものだ。もてない男が主人公では男が語り手で女が主人公、というパターンはなかなか書きづらいと思う。

話が脱線した。語り手と主人公が近づいていく経緯とか、主人公のさまざまな奇妙な行動とか、語り手と主人公の間に起こるさまざまな事件とか、主人公の仰天の出自とか謎めいた行動のとんでもないオチとか、実に鮮やかに書けていて小説作法という点ですごい作品だと思う。いつもは村上の訳の鮮やかさが印象に残るのだが、この作品は元の小説が相当すごいのだということが際立って感じられる。村上はカポーティを最も影響を受けた作家だといい、それを学生時代に読んだためにとても自分に小説が書けるとは思わなかったと書いているが、納得させられる。

エピソードは奇妙に直接的でないエロスを感じさせるものが多いのだが、主人公と語り手の間にはそうした関係はない、というか直接は書かれていないし、ないと考えた方が小説が面白く感じられる。しかし奇妙な親しさがあって、彼女の部屋で日焼け灯の下の折りたたみ寝台で彼女の背中にオイルを塗ったり、語り手のバスルームで馬から落ちた語り手を風呂に入れて打ち身用の薬を塗ったりしている。こう書いてみると二人の間にそういう関係がない方が不自然だと思ってしまうが、なんというかない方がそこはかとなくコミカルな感じが漂っていておかしい。カポーティというのは基本的にコメディの語り手なのだなと思う。そのあたりが映画会社がオードリーを起用した理由なのかもしれないが。

一番印象に残っている、というかうまいなと思ったのは、日焼け灯の下でオイルを塗っている場面。作家志望の語り手の書いた小説を彼女は「つまらない」と批判する。語り手は内心怒りを感じながらオイルを塗りつづけ、「どんなものがつまらなくないか」と聞く。彼女は間髪をいれず「嵐が丘」と答え、語り手の怒りが募るが、「『私の素敵な、向こう見ずなキャシー』。どれだけ泣かされたことですか。十回も見たわ。」というセリフに、「なるほど」ということばに「上ずった恥ずべき抑揚をつけて」「映画か」と続ける。

これはうまい。これに、

「彼女の筋肉がきっとこわばった。」という描写が続く。これもうまい。絶妙のエロティシズム。こういう描写が書いてみたいという描写。それに彼女のこういうセリフが続く。

「人は誰しも、誰かに対して優越感を抱かなくてはならないようにできている。でも偉そうにするには、それなりの資格ってものが必要じゃないかしら。」

このあたりは何度読み返してもシビれる。この後もいいのだが、このくらいにしておくというものだろう。

知らなかったのだが、この小説の舞台は第二次大戦中のニューヨーク。日本中が悲壮な気持ちで戦争をしていたころ、こんな小粋なストーリーが展開していたかと知ったら日本人はみんなちょっとやってられないという気になっただろうと思う。社交界の乱痴気騒ぎもフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の世界そのままだ。

村上の訳で読んでようやくアメリカの現代小説を多少は読むようになったのだけど、翻訳者としての村上の手腕はやはりすごいと改めて思う。

寒い感じがして外に出てみたら雪が降っていた。すぐあがったが、これでは顔を出した虫たちもすぐ引っ込んでしまうなあ。

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by Luke Peterson

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