自転車を買った/コチニール/ガザとナチス/アートと精神性
Posted at 08/03/02 PermaLink» Comment(2)» Tweet
自転車を買った。
3年ほど前に鍵をなくしてしまい、動かせないまま廃車にしてしまったのだが、自分の足で歩けばいいやと思ってずっと買わないでいた。駅の自転車置き場も無料で置けるところがなくなったので、面倒だということもあり。しかし、地元のスーパーに買い物に行くときなど、やはり自転車があると時間の節約になる。地元の用事があるときに歩きだと少し遠いけれども、というところに億劫がらずに行けるよな、と思って何年か振りで自転車を買った。防犯登録までいれて8000円弱。乗ってみると、安いだけのことはある、と思う部分もある(ペダルを踏むときやや内側が高くなったり低くなったりする感がある、など)が、まあこれで8000円なら安いものだろうと思う。中学生のときから自分の自転車を持っていたけど、その中でも一番安い。日本の工業がちょっと心配になる。
久しぶりに自転車を漕いでみると、膝の内側が痛くなったり、忘れていた感覚を思い出した。自転車に乗れば乗った出必要のないところに出かけたりして本当に時間の節約になっているのかやや疑問なのだけど、自転車に乗るのは楽しいなと子供のころ感じた感覚を思い出した。
***
『美味しんぼ』「食の安全」の中で出てきた話。「ブドウ糖果糖液糖」というものがある。清涼飲料水などの成分表示によく出てくるが、あれは一体どんなものなのか想像もつかないでいた。これはアメリカ産トウモロコシのでんぷんを工業的に分解してブドウ糖と果糖を作るのだそうだ。この液体がぶどう糖果糖液糖というというものだそうだ。そしてこのトウモロコシは遺伝子組み換えをし大量の農薬を使用するのだという。これにカイガラムシから取る色素コチニールを加えクエン酸とアスコルピン酸(ビタミンC)で酸味をつけ香料を加えるとオレンジ味のジュースが出来る、らしい。
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工業的にそこまで操作したぶどう糖果糖液糖がもともと遺伝子組み換えトウモロコシであるということがどの程度の害をもたらすものなのかはよくわからないが、少なくとも知らなかった事実ではある。
やや疑問を感じたのがコチニールが虫の色素だからよくない、という書き方だ。コチニールのもっとも知られている使い方はソーダなどで割られる苦味酒、あの鮮やかなカンパリの着色だ。その着色を非難するならずっとお酒の着色にも使われてきたということを書くべきではないか。もちろんインチキオレンジ味ジュースであることはいうまでもないことだが。
***
イスラエルのガザ地区への攻撃が激しさを増し、パレスチナ暫定自治区のアッバス議長、つまりガザを支配するハマスとは対立しているファタハの側もイスラエルを強く非難するようになった。ハマスによる攻撃がやまないということもあるが、イスラエルのパレスチナ自治区攻撃は度を越していると感じざるを得ない。イスラエルはハマスの存在自体を認めないという思想があるのではないかという気がする。ハマスがイスラエルの存在を認めないからだ。
ハマスにとってはイスラエルはパレスチナ人の土地を奪った簒奪者であることは間違いない。もともとパレスチナに住んでいた人々がイスラエルの領域から追い出されたことがアラブ側にとってはパレスチナ問題の根本なのだから、イスラエルの領域内へのパレスチナ人の帰還が悲願になるのは当然だろう。しかし、人口の面で圧倒的に多数のイスラム教徒パレスチナ人がイスラエル国内に帰還したら、ユダヤ人国家としてのイスラエルはアイデンティティが崩壊してしまう。イスラエルは民主主義国家であるから、人口の多いイスラム教徒が帰還したら議会も内閣もイスラム教徒によって占められることにならざるを得ないからだ。もちろん土地の所有関係の争いも大変なものになるだろう。イスラエルにとってはパレスチナ人の帰還は絶対に開けてはならないパンドラの箱なのだ。
だからイスラエルは国際社会がなんといおうと、断固としてハマスと戦い続けるだろう。それがイスラエルの国家としての存在がかかった戦いだからだ。そして彼らの意思はナチスによるユダヤ人虐殺にまでさかのぼる。
佐藤優が書いていたが、ユダヤ人がナチスに迫害されているとき、手を差し伸べてくれる国家はなかった。だからユダヤ人は、国際社会が何といおうとユダヤ人国家を存続させなければらないという信念を持っている、という。つまりナチスの工業的な無意味な殺戮が、イスラエルの生き残ろうとする盲目的な意志に対応しているのだ。ナチスの殺戮が「ユダヤ人絶滅」という巨大な歪んだ観念によって引き起こされたものである以上、ユダヤ人は生存そのものを強烈な意志と化して、生存を脅かすすべてのものを排除し続けなければならないという構造になっているのだと思う。
イスラエルによるガザの攻撃はもはや虐殺の感がある。それは彼らの背後でナチスの亡霊が今もイスラエルを脅かし続けているからなのだと思う。救いのない話ではあるが。
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なんとなくテレビを見ていたらMXで磁性流体を使ったメディアアートを取り上げた番組をやっていた。磁性流体とは液体の磁石で、NASAで開発された素材なのだという。メディアアートとは今まで使われていないメディアによってアートを制作するという分野だが、今まではコンピュータを使ってモニタ上で展開するという物が中心だったらしい。先日原美術館で見て大変好きだったピピロッティ・リストなどもその範疇に入るようだが、リストも確かに映像作品が多かった。
しかし児玉幸子という人の作品はそうした範疇を逸脱し、磁性流体という素材の持つ不可思議な性質を使って不思議な作品を作り出している。彼女はメディアアートの分野ではかなり注目を浴びているようだ。
なんというか、私はメディアアートという分野があるということを今まであまり認識していなかったし、おそらくはそのジャンルに属すると思われる作品群もあまりいいと思っていなかったのだけど、それでいいのかな、あるいはそれではいけないかもしれない、という何か不安な気持ちを持ってしまった。
というのは、もう一つのことにも関連する。これはNHKの新日曜美術館でやっていたのだが、アウトサイダーアートについてだ。アウトサイダーアートというよりフランス語でアール・ブリュットと呼ぶほうが感じがいい感じもするが。
二つのジャンルに共通するのは、いわゆる普通の意味での「精神性」というものの、アートにしめる意味が伝統的な観念とは全く違うものになってきている、ということだろう。これはアートにおいてのみではなく、文学においてもそうなのだろうと思う。
磁性流体のアートは、何というかつまりは見て面白い、というもので、作者の児玉幸子がいみじくも言っていたが、「幼いころには物理もアートも未分化だった」という面白さなのだと思う。つまりそこには文化的、精神的背景は捨象されている。ように私は思う。
簡単に言えば、これらのジャンルは「『精神性の呪縛』からの解放」を実現していると言えるのだと思う。つまり、アーティストは精神的に高度な存在で、彼の持つ精神性がアートに現れている、というような考えだといえばいいか。
考えてみたらこれは19世紀的な神話なのかなとも思う。モーツァルトの音楽はモーツァルトの人間性とかけ離れたものだとは昔からよく言われたことだし。しかしそこにモーツァルトの精神性を見ようという試みも昔からずっとあったわけで、一筋縄では行かないのだが。
何というかぜんぜんまとまらない。実際のところ、アーティストの中でもそうしたものとかけ離れた方向に進みつつあるアートを十分に刺激的であると感じているひともあれば、そうした方向に行かないように踏みとどまろうとしている人もあるように感じる。
それともあまりこだわる必要もないのかな。伝統を踏まえた上でつくられる作品もあれば、新しいメディアが開発されてそれによって今まで生み出されてこなかった新しいイメージ、新しい作品がつくられても行く、というだけのことなのだろうか。何を選び、何を鑑賞し、何をつくろうとするのかは個人の自由ということに過ぎないのだろうか。
だいたい私自身、自分がそんなに『精神性』というものを重んじているとは思ってもみなかったのでこういう思考になってびっくりしている、というか混乱しているのだ。ここは誰私はどこ?的な世界にちょっとはまってしまっている。落ち着くまでにはもう少しかかりそうだ。
***
昨日は出かけて村上春樹『ティファニーで朝食を』と宮本福助『拝み屋横丁顛末記』1、2巻を買った。『ティファニー』はまだ読んでいないが、『拝み屋』は二冊とも読了。普通に面白い。ネットで調べたら深夜枠で全4回ではあるがテレビドラマ化もされたということを知った。確かに普通に面白いのだ。
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"自転車を買った/コチニール/ガザとナチス/アートと精神性"へのコメント
CommentData » Posted by 通りすがり at 08/03/02
はじめまして。「ガザとナチス」というタイトルにひかれて読ませていただきました。
パレスチナの問題で皮肉なのは、今や「イスラエル=ナチス」という図式がなりたつということではないでしょうか? 虐殺された者が次は虐殺者として存在する。自分より強いものにいたぶられたから、今度は自分がやられたことをまねて自分より弱いものをいたぶる。そういう精神のありようを感じます。ユダヤ人のシオニズムというのは、現代によみがえったナチスの亡霊でしょう。イスラエルを世界地図から抹殺しない限り、パレスチナの地に平和はよみがえらないような気がします。
CommentData » Posted by kous37 at 08/03/03
イスラエルが虐殺者の役回りになっているということは歴史の皮肉だと思います。しかし、世界地図から抹殺しなければ・・・というのはどうなのでしょうね。
やはり何とかして、パレスチナの地で平和共存できるようなお互いの譲歩を形成しあうしかないのではないでしょうか。かなり難しいことはもちろん承知の上ですが。