『動く骨』/類と個/構造と身体(生命)

Posted at 08/02/14

今朝は寒い。体調はだいぶよくなったので、朝は久しぶりに短い距離だが散歩に行った。国道沿いのセブンイレブンが去年の暮に店を閉めてしまったのだが、同じ場所にファミリーマートが入ったので様子を見に行った。ファミポートがあるので、チケットが取れる。そういう意味では便利だ。

川からもうもうと湯気が上がっている。水温が気温よりそうとう高いということだろう。気温は多分、零下10度くらいではないか。いろいろなところが凍結している。気を使わなければならないところがいろいろとある。

栢野忠夫『動く骨(コツ)』を読みながらいろいろ試してみる。最初の方は大体出来るが、だんだん難しくなってくる。また、書いてあることも栢野氏の体幹内操法のすべてではないのだなということも分ってきた。朝起きたときに少々無理してしまったので右肩甲骨の左上隅のあたりの筋肉が痛いが、なんか肩甲骨というのも私が思っていたのと少し形が違うんだなと思ったりした。

動く骨(コツ)―動きが劇的に変わる体幹内操法
栢野 忠夫
スキージャーナル

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やりながら理屈とか考え方とかを自分でつかもうと自分なりにいろいろ結びつけたり想像したり。頭部の前に顎関節、後ろに頭蓋骨の乳様突起があり、胸部の前に胸鎖間接、後ろに肩甲骨棘窩があり、腰部の前に恥骨結節が、後ろに腸骨上後棘があり、それぞれがマジックハンドの突起のようなイメージ。顎―肩甲骨―恥骨という線を伸ばしたり、乳様突起―胸鎖関節―腸骨上後棘という線を伸ばしたりするのが体幹内屈伸操作のイメージ。そのときにただマジックハンドのように動くのではなく、頭と胸と腰にそれぞれ球をイメージする。まだちゃんとは出来ないが、この体のイメージの仕方で体を動かすと私はとても気持ちよいものを感じる。

***

『総特集モーリス・ベジャール』(新書館、2008)を読む。ベジャールの思い出をこもごも語る人の話が続く中、ベジャールという人そのものの本質に迫ろうという話も。蜷川幸雄が「強靭な精神力と、ヨーロッパ的な、日本人とは少し違う父性というものをベジャールからは感じた。若者を包み込むようにして新しい世界に連れて行くような、その父性に強い印象を受けたのだった。」と語っているのを読んで、ベジャールの死を心の底から嘆く多くのベジャールの教えを受けた人たちの言葉はこのあたりに発しているのだろうと思った。

総特集 モーリス・ベジャール 1927 ~ 2007 2008年 03月号 [雑誌]

新書館

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三浦雅士がベジャールをバランシンやフォーサイス、ピナ・バウシュと比較している話が面白かった。バランシンはスターを嫌ったそうだが、バウシュもスターを嫌うという。バウシュはただひたすら個として演じることを要求する。「個はスターではありえない」という三浦の表現が面白い。ベジャールのダンサーは個でなく、類を代表するものとしてある、というわけだ。ジョルジュ・ドン、ミシェル・ガスカール、ジュール・ロマンら多くのスターを送り出してきたベジャールの振り付けは、彼らが舞台の上で個としてでなく類の代表として踊っていたからだ、というのである。

この話は非常に興味深いし、なるほどと思う。これは芸術というものすべてにおいて、言えることではないか。個として描き出された存在はスターにはなりえない。しかし類として描き出された存在はスターになりえる。類を代表するものであるからこそ「キャラが立つ」ことが可能なのであり、個を語るのみであるのならキャラを立てる必要はないからだ。そして舞台芸術においてキャラが立つということは卓越した特権的肉体を持つということに他ならない。

三浦はベジャールとバウシュの比較を、音楽におけるチャイコフスキーとシェーンブルクらの比較で語る。吉田英和がチャイコフスキーを貶すのは、まさにチャイコフスキーが甘ったるく、口当たりがいいからで、ベジャールにもそういう要素があると三浦は指摘する。(私見では、吉田がチャイコフスキーを貶す理由は私はそれだけではないと思う。チャイコフスキーは甘ったるいというよりも、何というか、どことなく品がないのだ。吉田はプーシキンは絶賛するのにチャイコフスキーを貶すのは、「甘さ」というだけではすまないように思う。プーシキンだって見ようによってはそうとう甘いだろう。しかしプーシキンはまぎれもなく天才で、天才にしかない孤独感がある種の品となって品のなさから救われているように私は思う。)

しかし三浦は、チャイコフスキーは「民謡たるべき旋律を本能的に知っていた」といい、その「本能」をベジャールも持っている、と指摘するわけである。確かにチャイコフスキーの音楽にはふと口をついてでてくるメロディーが満載で、その点ではすごいと思う。しかしそれがなんと言うかあんまり生々しくそのまま(本当はそのままじゃないだろうけど)どさっとでてくる感じがあって、その身も蓋もない感じが気恥ずかしさにつながり、品、という言葉を思いださせてしまうのだろう。この辺の評価が妥当なのかどうかは今ひとつよく私には分らないところがあるのだが。

しかしまあ、ベジャールが類という存在を描こうとしている、という指摘はよく分る。逆にバランシンやバウシュが個という存在を描こうとしているという指摘も納得できる。アートとして取りえる二つの方向という原則的な問題がそこにはあるからだ。

私はもともと類という存在を描くことのほうに興味を持っていたし、類か個か、と言われると今でも類を取るだろうと思う。しかし最近個というものに対するこだわりが強くなってきていたのも事実で、それが自分の中で不可解なバランスの崩壊につながっていたような気もしなくはない。もう一度類に目を向けることが、私にとっての突破口になるのではないかと読んでいて思った。

蜷川幸雄の指摘でもう一つ面白いと思ったのは、晩年のベジャールの舞台がだんだん文学的になってきた、という指摘だ。そしてそれは、ジョルジュ・ドンを失ったからだ、と蜷川はいう。「ドンの肉体が、ベジャールのある種の文学的な観念というものを、生理的、動物的なものにどんどん置き換えていく。文学性を築かせない。」黒沢明の映画において黒澤の図式が三船敏郎の動物的な演技によって解体させられていくのと同じだというわけである。「演出家あるいは振付家には自分のイメージをつねに乗り越えてくれる身体が必要なのだ。改めてそう思った。」

蜷川の指摘は、私が演劇をやっていたころに考えていたことと全く同じで、そういう意味で大変懐かしかった。舞台というものは、そこに用意されたあらゆる構造、あらゆる図式から越境し、突出し、爆発する演技者の身体があって初めてその構造、その図式も生かされてくる、と私も思う。そうでなければ別にそこに乗っているのが役者の身体である必要はなく、マンガでもいいことになる。そうした意味でベジャールとジョルジュ・ドンの幸福な関係を指摘する論者は多いのだなと納得した。

しかしそれもまた、80年代的なことのような気もする。この「演者の枠へのおさまらなさ」の面白さというものが、アートの本質的な魅力というものであり続けることができるのだろうか。私はいろいろなものを見ても結局魅力を感じるものというのはそういうものでしかありえない。いうまでもないが、枠への収まらなさというのは未熟であるがゆえに、生硬であるがゆえに収まらないというのとは違う。すべてをこなした上で、それでも収まりきれない、そこから噴出さずに入られない何か、ということだ。伊藤若冲なんかにはそういうものを感じるのだけど、日本のアートというのは枠に収まることを目指してしまうところがあるために、なかなかそういうものにお目にかかれない。

まあ現代思想的なタームを使えばディオニソス性とかアポロン性というようなもの、役者の生命というものの横溢ということになるんだろう。

21世紀の今日でもそういうものは評価され、また今後も評価されつづけていくのか。今現在のアートというものの役割、アートの置かれたフェーズというのはどういうものなのか。そしてその中で自分はどのように生き、どのように振舞っていくべきなのか。そんなことをまた考えさせられた。

また体調を少し崩す。いろいろ対処を試みるが、最終的には自分の生命力を信じることにする。生命も、信じたときに一番力を発揮するよなあ、と思う。

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