『テレプシコーラ』/今より少し女の子たちにやさしくなれる気がする/「でも医者は医者の味方よ」

Posted at 08/02/03

山岸涼子『舞姫 ― テレプシコーラ』全10巻読了。

舞姫(テレプシコーラ) 5 (5) (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)
山岸 凉子
メディアファクトリー

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というか実は、全巻二度読み返してしまった。買ったばかりのマンガのこんな長大な作品を、買った次の日にはすべてもう一度読み返してしまうなんてはじめての経験。

読みながら何度も感情が抑えられなくなる。感動の波が何度も押し寄せてきて、自分が押し流されてしまいそうになる。というよりも、自分の中に感動の六尺玉のようなものがあって、それが花火工場の火事のようにいくつも次々と爆発していくような、そんな感動の仕方。自分の中に、そんなに感動出来るものがあるとは今まで気が付かなかった。いや、今まで心の中で凍り付いていたものがついに爆発した、と言えばいいか。自分自身がこれだけ感動しているそのこと自体にじーんと来るくらいに感動している。今までいかに心が凍りつき、麻痺していたのかということが実感される。

感動の元はいくつもあるのだけど、最大なのは、現代でもこれだけ正統派の作品がつくり得るのだということ。斜に構えた作品、ウケ狙いの作品、見た目だけ派手な作品、ウンチクをだらだら書き連ねた作品、そんなのばかりが溢れかえる中で、これだけ正統的なストーリー構築のされた作品が作られたこと自体が最大の感動なのかもしれない。ファンタジーでなく、いろいろな社会的な視点まで見据えた射程の長い現代劇。これが描けたのは商業的なマンガ雑誌でなく、いわば文芸誌の『ダヴィンチ』の連載だったからかもしれないという気もする。

一度目の読みではとにかくこの世界にどっぷりつかって深く感動し、二回目の読みでは理性が働いて内容を真剣に理解していった感じ。一度目はとにかくストーリー展開にぐいぐい引き込まれてしまい、二度目は細かいところまで分からないところはネットで調べながら読んでしまった。バレエのことは正直言ってぜんぜん分からなかったのだけど、ほんの少しだけでも理解できたような気がする。いまやとにかく実際のバレエを見たくてたまらない。

中身はネタばれになるから書けないけれども、本当にいくつも思ったことはある。バレエを志した女の子たちが直面する多くの試練、苦しみ、哀しみ。読んでいて自分が変化していくのがわかる。女の子全般というものについて、今よりもう少し優しくなれる、と思った。それだけ自分の中が凍り付いてたんだなあとも思うけれども、人の悲しみの深さ、苦しみの深さ、そして喜びの大きさ、絶望と希望、そういうものについて人に本当に知らしめるのは、大きな感動と人を揺り動かす大きな力を持った作品でなければなし得ないことなんだなあと思った。

苦しみと死と浄化。生と死のあわい。悪という地獄。家族の絆。果てしない芸術の力。

いろいろな意味でものすごく大きな作品。多分、作者自身があまりの大きさに、第一部のラストではかなり迷い苦しんだのではないかという気がする。主人公がどん底の哀しみの中から表現者としての自己を発見するというストーリーは、作者自身がぎりぎりのところまで追い込まれないと描き得ないものではないかと思った。そしてそれが表現者でない一般の読者にどこまで分かってもらえるものか。商業誌でそれをやることの困難さを、作者は強く感じたのではないかと思う。

そしてこれはネタばれになるので読もうと思った方は飛ばしたほうがいいのだが、書きたいので書くけれども。主人公が最後に振付師(コレオグラファー)として目覚める、というところで第一部が終わるのだが、このこと自体にしたってどういう意味があるのかピンと来ない人も多いだろう。私も最初このラストはよくわからなかったが、よく考えてみればこれは主人公がモーリス・ベジャールやピナ・バウシュのようになる、という意味なのだ。これはものすごいことだ、ベジャールやバウシュの舞台芸術の世界での存在感を知っていれば。誰にでもわかる存在だ、とはいえないところがものすごく隔靴掻痒の感があってじれったいのだが。日本にはそれに匹敵する存在がないのだ、芝居の蜷川幸雄とか音楽の小沢征爾とか、比喩で言えばそういう存在だが、でもベジャールはベジャールだしバウシュはバウシュなのだ。

「職業」というものについても考えさせられた。作中、手術の失敗が疑われる場面で、「でも医者は医者の味方よ」という言葉が出てくる。医者は医者の失敗を、特に身内の失敗は庇い、隠す、という意味で、これは正直、自分の経験からそうだろうなと思う人は多いのではないかと思う。

しかし、私は自分が高校教師をやっていたから思うのだけど、教師も教師の味方なのだ。教師のミスは庇い、隠すし、問題を他に転嫁する。そういうのは情けないと思いながら、ほかの教師がそういっているのを見るとそれはそうだよなあと思うことも多かった。もちろん職業倫理に悖るような行為を許す気にはならなかったけど、職業特有の甘えのようなものは知らない間に忍び寄ってくるのだ。

いろいろな意味で、サラリーマンはサラリーマンの味方だし、主婦は主婦の味方だ。広告屋は広告屋の味方だし、政治家は政治家の味方だし、大学教員は大学教員の味方だと思い知らされることは実に多い。極端な話、誰のブログを読んでいても、その職業の同業者に対しては、ものすごく甘い。そう思うのは私だけではないだろう。そして自分の職業が攻撃されることについてはみな異常に敏感だ。むかし芸能レポーターの行き過ぎが攻撃されたとき、梨本勝がものすごく攻撃的に反撃していたのを見て辟易したことがあったが、あれは誰もが人のことをいえない部分はある。一方で、映画の話だが、『ディープインパクト』の中で秘密を探りに来た新聞記者に政府の元高官が「君も新聞記者になる前は人間だったのだろう」とものすごいことをいう場面があるが、他業種に対してそういうことをいいたい気持ちも誰もが持っているのだ。

職業間の異常な緊張関係。しかしそれは職業間だけではなく、自分の属する世間の内側と外側に対する極端な態度の違いのようなものがあるのだと思う。そしてそれが反映されたのが、子どもの間の「いじめ」なのではないかという気がする。私自身も子供のころイヤな思いをしたことはあったが、今の「いじめ」の話などを聞くとそんなものなんでもなかった部類だなと思うくらいだ。しかし多分、私のこどものころはそんな世間の内外の緊張感のようなものは今ほどはなかったのだと思う。

本当は誰もが医者であり、教育者であり、生産者であり、表現者であるはずなのだ、人間は多面的な存在なのだから。しかし、分業というものの成立によって、人間の能力の、ある一部分だけが発達し、他の部分が未発達になる。大人として完成する一方で個別の能力も伸ばせるならいいのだけど、個別の能力を伸ばすことで大人として不完全な人間が増えているのが今の社会なのではないかという気がする。

医者も教師も昔は人間的に信頼できる人、というのが絶対的な条件だったはずだ。しかし、今医者や教師にそういう感覚をいだいている人がどれくらいいるだろう?いやそれ以前に、この人が人間的に信頼できるという人が具体的に身の回りにどれくらいいるだろうか。分業の進展というものはまだまだ進まざるを得ない点も多いとは思うけれども、どこかで総合的な人間性の回復に一歩踏み出さないといつかは人間性の完全なる破壊に行き着くのではないかと気もする。

ちょっと作品から話は脱線したが、そんなふうにいろいろなことを考えさせる力がこの作品にはあると思う。

最後に一つだけ。主人公の姉の名は千花(ちか)、主人公の名は六花(ゆき)という。千花はともかく、六花はなぜゆきと読ませるのか、最初はぜんぜん分からなかったのだが、読んでいる途中ではっと思い当たった。

雪の結晶は六角形なのだ。そしてあの雪印のマークのような結晶を、六花結晶という。そんなこと普通は知らない、いや私も思い当たってからネットで調べて知ったのだが、ならば、と思って作者のプロフィールを調べた。

山岸涼子は北海道出身なのだ。雪や氷は身近なものだろう。そして、雪の結晶を研究した中谷宇吉郎は北大教授だ。我々の時代よりもさらに前、中谷の研究は今よりずっと知られていたに違いない。

つけたし。六花のバレエの舞台の場面はどれもひどく感動させられる。たとえば5巻の126ページ。そのほか、表現上の工夫でなるほどなあと思わされることは山のようにあるのだが、きりがない。最後に主人公の友人の「坂口」の味わいがいかにこのシリアスな作品の救いになっているか、ということだけは書いておこうと思う。

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by Luke Peterson

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