ラジオ体操/ギターの調弦/盲目のヴァイオリニスト

Posted at 07/12/03

私の家の近くに志演尊空神社というのがある。時々朝の散歩でお参りに行く。今朝はいつもと少し違う時間だったのか、6時半過ぎに行くと、境内でラジオ体操をしていた。おじさんが賽銭箱の前に立ってジェスチャーたっぷりにお手本を見せ、子どもや大人が三々五々体操をしている。境内に入りきらなくて溢れている人もいたから結構集まっているのだろう。まさかその中を参拝に行くわけにも行かず、鳥居の外で一礼して手を合わせた。夏休みでもない平日にこれだけの人が神社に集まってラジオ体操をしているなんてなんだかいい。味わい深いなと思った。

思い出してみると、横十間川が仙台堀川と交差するところでいつもラジオ体操をしている人たちがいる。こちらは私の記憶では大人ばかりだが。江東区と言うのはラジオ体操が盛んな土地柄なんだろうか。

散歩の帰りに西友に寄って下着とトイレットペーパーを買った。西友が24時間営業になってしばらく経つが、私のように早朝に行動するものにとっては非常にありがたい。

ギターの弦を調弦するとき、音叉の音を聴いてそれに合う音を5弦で探す。考えてみたら当たり前のことなのだが、最近再びギターを弾くようになって、それから今まで弦の音を聴いてから音叉を鳴らしていた。どうも調弦しにくいなと思ったけど、考えてみたら当たり前だ。狂った5弦の音に音叉の音を合わせることは出来ないのだから、まず正確な音を聴いて合わせるべきなのだ。

しかし当たり前のことだけど、必ずしもそうしてないことはあるよなと思う。先に間違った意見を聞くと、後で正確な意見を聞いてもこっちがおかしい気がしてしまい、自分の感覚を治すのが大変だ。まずもっとも正確なもの、もっとも優れているものから見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりしなければならない。基準がなければ、何が正しいのか分からなくなる。個別の事例に当たる前に、自分の中で基準を確立しておくことが重要だ。

しかしこれはジャンルによっては必ずしも簡単なことではない。特にアートでは。さまざまな美の基準、さまざまな美の価値観が表現されているからこそ意味があるわけだから、絶対的な基準などありえない。かなり洗練された見巧者という人たちは、その場その場で自分の引き出しを総動員し、さまざまな評価を自分なりに下していく。そういう意味では、批評もまた一つの創造なのだ。

最近、川畠成道のヴァイオリンをまた繰り返し聞いている。盲目のソリスト。失明してからヴァイオリンを学び始めて大成するというのは大変なことだろう。聴覚と触覚のみによって組み立てられた音楽世界。耳と肌は、目よりも魂に近いのかもしれない。

愛の悲しみ
川畠成道,ピエナール(ダニエル・ベン),ガーシュウィン,クライスラー,サラサーテ,ドヴォルザーク,モンティ,バッハ,チャイコフスキー,パラディス
ビクターエンタテインメント

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