帰り道を見失う恐怖/論理偏重による人間的自然の破壊

Posted at 07/11/29

今日は朝歩けなかったので、朝の仕事を一通り終えた9時半過ぎになって普段の散歩とは違う方角、北東の坂の上の方に歩いた。10分くらいのところに山ノ神というお社があって、そこを目標に歩く。10分といってもかなりの急坂なので、結構きつい。川が流れていて、そのせせらぎを聞きながら歩く。山ノ神についてお参りし、ちょっと小さく貼ってある説明を見たら、どうも修験道の系統の神様だということがわかった。大正9年の銘のある鳥居もあった。山ノ神という名前を考えても、それは納得が行く。

これはとても小さなお社なのだが、ちょうど5つの道の辻にあるのでバス停の名前にもなってるし、知名度は(もちろん地元の人にとってはだが)高い。山ノ神というシンプルかつストレートなネーミングなのもいいんだろう。私は子どものころ、何か怖い神様が住んでいると思っていた。大きな木が植わっていて、鬱蒼としていた。山姥とか、ナマハゲみたいな神様がいるイメージ。今行ってもちょっとそういう感じはある。山の神様ってそういう印象じゃないかな。私だけだろうか。でも周りに家も出来てしまって、ちょっとそこだけ空白な感じになり、それがある意味凄愴な感じもして、そういう雰囲気を漂わせている。大きな木と、その下の苔むした土。いのちと、いのちを越える何かがそこにある感じがする。

川の反対側にも集落があるのにそこに行く道が見つからないので県道沿いにしばらく下りて、入れそうなところを入ってみると、そこに今まで知らなかったその地区の公民館と共同浴場があって驚いた。しばらく道が細くなったり太くなったりして続いていて、いくつも家が続いていて、全く知らない道がこんな近くにあったということにとても驚いてしまった。川の向こう側とこっち側はまるでパラレルワールドみたいだ。

そういえば子どものころ、よくそういうことを感じたことを思い出した。いつも通っている道の近くに、全然知らない道があって、そこにも人が住んでいて人の生活がある、ということにものすごく驚きを感じたことを。そこは自分の知らない世界で、そこに迷い込んでしまうと元の世界に帰ってこられないのではないか、という恐怖を感じたことを。だんだんその道の存在にも慣れ、知っている道になるに従ってそういう気持ちは緩和され、雲散霧消していくのだけど、でもいつかまた全然自分の知らない道を発見する。そしてまた恐怖を感じ…の繰り返し。

でも、恐いものみたさで、そういう知らない道を歩いてみたくて仕方がない。今でもよく町をほっつき歩いて彷徨ってみたりするのは、そういう子どものころの恐いもの見たさの習性が残っているからかもしれない。そういえば、人生の道も似たようなもので、ほっつき歩いているうちに帰り道がわからなくなってしまったことも何度もあるような気がする。一体今、どこを歩いているのやら。そして帰り道というのは本当にあるんだろうか。

なんてことを考え出した、ということはだいぶ帰り道が見えてきたからかもしれないな。

今朝いろいろなことを考えていて思ったのは、自分は実は論理的思考能力が弱いんじゃないか、ということだった。論理的思考能力の優れた人たちが集まる学校に通っていたので自分もそうじゃないかと思っていたのだけど、それはどうも違うんじゃないかと。英語が苦手だったのも、実は論理的思考能力の不足によるものではないかという気がしてきた。数学が比較的得意だったのは、実は発想力と計算能力だけで高校までならかなり何とかなるからなんだと。つまり、論理的思考能力の不足を発想力と知識と記憶力とどうにもならないくらいの好奇心で補ってきたんじゃないかということに気がついた。まあこれは学問がものになるタイプじゃないな。

で、論理的思考能力の不足ということと、自分の人間的な弱さというものはどこかで関係しているんじゃないかということも思った。つまり考えてない、ということが弱点なんだと。多分考えているように自分でも思ってるし回りからも見えるんだけど、考えてるというよりは思ってるだけなんだと思った。だいたいこの日記に書いてることも感覚的なことばかりで全然論理的じゃないしなあ。論理的なものって、実は苦手で、大雑把に捉えて感覚的に処理することばかりやってきたような気がするな。

ま、現状を把握したらそれを克服するためのヒントはもうそこにあるということらしいので、そのヒントが浮かんでくるのを待とうと思っている。

しかし自分の中をよく探ってみると(考えてみると、とよく書いたけど実は考えるというよりは探ってるのだ)論理的思考をしてしまうとそれに囚われてしまったり、そこから離れられなくなってしまったりするので敢えて論理的思考をしないようにしているという面もあるんだな、ということに気がついた。論理的思考というものは、自分にとってはどうも「必要悪」という程度のものらしい。でもそれだと文章に説得力を持たせたりするのは難しくなってくるよなあ。

***

甲野善紀『武術の新・人間学』(PHP文庫、2002)読書中。現在112ページ。

武術の新・人間学―温故知新の身体論 (PHP文庫)
甲野 善紀
PHP研究所

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一番印象に残っている言葉は、『願立剣術物語』からの引用の、「迷いたる目を頼み、敵の打つを見て、それに合わんとはかるは、雲に印の如くなり」というもので、甲野はそれを「相手がこう打ってくるから、それに合わせて、こうやろうとする、というような行為はまるで漂う雲を印とするほど虚しいことだ」と解釈している。つまり、シミュレーションというものの全否定だと言っていい。先日爆笑問題が視覚と知覚の専門家と話している番組を少し見たのだけど、それと少し話が重なっていて、人間は物語を作ってそれに合わせて動いている、という話だ。それを超えなければ結局は雲を目印にして何かをしようとするような取り止めのないことになってしまう、と甲野は考え、また多分大田光もそういうことを言いたいのだと思ったが、専門家としてはその雲を目印にするメカニズムというか、そういうものを把握しようとするところに力点をおいている感じがして、その辺のところは話が行き違っている感じがした。

人間というものは確かにそういうところがある。極端に言えば机上のプランで行動しようとするけれども結局それではだめで、結局は現場でのフットワークというかそういうものが大事だ、ということと少し通じるところがある。ただ、これはいろいろなケースがあって、能力や感知力が低い場合は机上のプランに従ってそのとおりやっていた方がまし、という場合もある。いわゆるマニュアル人間ということだが、マニュアルがないと何もできないという人間も確かに存在する以上、それは絶対的に否定するべきことでもない。

だからといって中途半端な現場主義で何もかも対処できるかというとそんなことはもちろんありえない。最終的にはその分野の仕事における卓越した「技」を持っていなければ、動けば済む、というレベルから脱却することは出来ない。だからここにすべてを突き抜ける可能性を持ったものとしての「技」の存在がクローズアップされてくるわけなんだな、と思った。そしてその技というのは常に磨く必要があり、また新しい技を常に開発していく必要がある。甲野はそういう意味での求道の途上にあるということなんだと思ったが、大田もわりと似たものなんだろうなと思った。

***

人間関係というのは、ある意味実は過程と演繹に基づく論理的思考の積み重ねで出来ている。私はどうもそういう論理的思考の積み重ねを現状認識の直観的把握からの逃げのように感じてしまうところがあって、そういう意味で現代的な人間関係を少し苦手としているところがあるんだろうなと思った。一見感覚的な人に限って実は絶対譲れない論理を持ってて、そうじゃない見方もあるだろ、と指摘しても絶対に譲らないから、面倒くさくなってしまう。そういう論理だって自分を成り立たせている要素の一つに過ぎないだろ、と思うのだけど、それを譲ったら自分が自分でなくなってしまうくらいに思っていることが多くて、なんだかあんまり突っ込む気もなくなってしまうんだよなあと思う。

自分の弱さ、というものがあるとしたら、つまりそういう相手の論理に合わせて、相手の土俵で相撲を取ろうとしてしまうところにあるのかもしれないな、とも思う。なんかちょっとそれがめんどくさくなってきている今日この頃。ただ、世の中というのはそういう論理論理ロンリー論理で出来ているので、それからドロップアウトするのはまあちょっと無謀ではある。まあ無謀なくらいでないとそれを突き抜ける技を身につけることは出来ないんだろうなと思うけど。

西欧近代の強さというのは、要するにそういう論理によって堅固に組み立てられたシステムにあるのだな、と実感する。だから日本人でも近代人はそういう論理を拠り所にして、自分なりの論理を組み立てて、それで毎日の生活を送っているのだ。私はその論理自体を疑ったりあまり信じてなかったりするから結構ヤなやつなんだろうと思う。

でもやっぱり思うのは、そういう論理によって巨大なものを構築していくという考え方は、ある意味「人間的自然」の破壊だということだ。人間の持ってるさまざまな力に足枷をはめて、論理的思考だけを信じるように仕向けるシステムは、ある意味人間破壊だと思う。

だからやっぱり、今必要なのは論理によってスポイルされてしまっている人間的自然の復興ということにあるんじゃないかなと思う。

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