「おかげさまで」という理由/不思議な音階/落語の顔

Posted at 07/11/24

暇な時間に朝日新聞社から出ている週刊『仏教新発見』をぱらぱらと見ていたのだが、華厳宗の解説が面白かった。今まで小耳に挟んだ程度で、いや少しは調べたことはあると思うのだけど、全く頭に残ってなかった。つまりエッセンスが私の知識体系にインプットされたことがなかったということだ。

華厳宗は東大寺を総本山とし、華厳経を所依の経典としている。(まず所依の経典という言い方を始めて知った。日蓮宗なら法華経ということか)華厳経は5世紀はじめにシルクロードのオアシス国家、ホータンでまとめられたものだという。華厳経の教主は(主要な仏ということ?これも始めて知った)毘盧遮那仏(サンスクリット語でヴァイローチャナ、太陽の光があまねく輝き渡る=一切衆生をすくいとる仏の光明が無辺である意味)だそうだ。東大寺の大仏が毘盧遮那仏であることは昔から知っていたが。

華厳経の入法界本で語られているのは善財童子という青年僧が55人の善智識を訪ねて教えを受け、最後に仏の世界に入るという話で、55人は船乗りや大金持ち、女性や僧侶など多士済々、「われ以外すべてわが師」、ということを象徴しているのだという。個性の違った多くの人から一番いいところを吸収することで悟りを得るというのがポイントだそうだ。

禅とかチベット仏教だと、一人の師について修行を続けなければいけないイメージがあって、それがうざったいと思っていたが、いろいろな人からいいとこ取りをしていくべきという思想はすごく単純に共感できる。いやもちろんそんな安直なものじゃないだろうけど、体質的にいろいろな人と関わる方が楽しいんじゃないかと思うからだろう。

華厳の教えの本質は『縁起』ということにあり、あらゆる現象はそのものだけで存在することは出来ず、助け合い影響しあって存在している、ということだそうで、つまりすべては「おかげさま」である、ということだそうだ。あんまり関係ないことでも挨拶の枕に「おかげさまで合格できました」などというのはここに起源があるのだなあと思う。

縁起に対する考え方には4段階の深さがあるという。第一段階は、我々の「行為」があらゆるものに影響する、という考え方で、まあ言えば因果律的な考え方ということになり、極めてノーマルというか常識的な考え方といえよう。それをさらに掘り下げると、第二段階では縁起の主因は「心」ということになり、つまりは「心」の持ちようで現象は良い方にも転び、悪い方にも転ぶ、ということだ。これは前向きだとうまく行き、後ろ向きだとうまく行かない、みたいな考え方で、よくある「ポジティブシンキング教」みたいなものだろう。もちろんこれにも一面の真実はあるけれども、それだけではちょっとイヤな感じが漂うのはみんな知ってるよね。(誰に言ってる)

第三段階になると、縁起の主因は「本性」ということになる。つまりそのものがもともと持っている本性=本質=絶対のものが主因となって現象が起こるという考え方。これはいわゆる本質論的な理解ということになるだろうか。ただこれも、間違って理解されると危険なことになりがちだ。「アメリカ人は残虐だ」とか「イスラム教はテロの温床だ」のような「本質論的な理解」というのはよくなされることで、その理解から結論が導き出されると非常に危険なことになる。

第四段階になるとちょっと難しいのだけれど、「現象として現れる以前に本性の体は既に動いている」ということだそうで、現象は「本性」そのもの、そしてその「本性」とは「仏性」に他ならず、すべては生かされているという仏の光明に包まれたものである、ということなのだそうだ。やあまあここまでくると「抹香臭くなく」説明することなど私には無理なのだが、まあ分からないこともない。

思ったのは、この考え方というのは日本の新興宗教や日本起源の身体観に非常に影響を及ぼしているのではないかということ。野口整体でも身体に起こる現象(病気とか)を解釈するわけだけど、西洋医学的な理解よりは心の面を重視するし、からだの本質的なあり方も「体癖」という思想を用いて個々人の体の違いを説明し、そのタイプごとに体の歪みの直し方などを究明する。しかしその根底には生き物は生きる力によって生きている、という第4段階的な考え方がある。「生命力の思想」というか。生長の家の経典の『生命の実相』などでもベルクソンの生命論の思想などについて触れられているが、その根底にはこの華厳的な思想があるように思われる。

まあそういうようなものについてある程度の知識があるからこそ、華厳思想というものが面白く感じられるのだろうとは思う。暇があったらもう少し突っ込んでみてもいいかなという気がする。

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小方厚『音律と音階の科学』(ブルーバックス、2007)読了。この本は面白かった。今まで日記に書いてない部分で言えば、12音平均律以外の平均律の試みなどで、ガムランなどがある意味そういう試みを先取りしているらしく、なるほどあの不思議な響きはそういうことだったのかと思ったりした。

音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか (ブルーバックス 1567)
小方 厚
講談社

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立川談志・田島謹之助『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房、2007)読了。写真もすごいし、談志の語りも癖があって面白いのだが、まず第一に昭和の落語界と言うものについて全然知識がなかった私には、それについての最適なガイドブックになったという感じだ。

円生、文楽、可楽、三平、正蔵、志ん生、小さんと知っている人知らない人、取り混ぜて扱われている。古典落語の五人衆、というのが円生、三木助、文楽、志ん生、小さんだったそうで、これらが本格、可楽や正蔵、柳枝などもそれに続くもの、という感じだったのだそうだ。このあたりは、歌舞伎でも歌右衛門や松緑、梅幸などの大幹部と、権十郎や雀右衛門などではちょっと差があった感じと、ちょっと似ているのかもしれない。古典芸能というものは「格」というものがかなり重くのしかかるなあと思う。現代になってだいぶ薄れては来たが、それが芸にとって必ずしもいいことかどうか分からないのが難しいが。
写真は実にいい。昔の日本人と言うのは、こういう顔をした人たちがいっぱいいたよなあと思う。古い写真を見るとそう思うことが多いけど、歌舞伎や落語など舞台芸術の人の顔の写真は、なおのこと面白い。

談志絶倒 昭和落語家伝
立川談志
大和書房

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朝散歩に出かけて帰りにビックコミックの新しい号を買った。今号で面白かったのはいがらしみきお『かむろば村へ』とかわぐちかいじ『太陽の黙示録』。

かむろば村へ 1 (1) (ビッグコミックススペシャル)
いがらし みきお
小学館

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太陽の黙示録 vol.16 (16) (ビッグコミックス)
かわぐち かいじ
小学館

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『かむろば村へ』は最初、ありきたりな設定だと油断していたのがどんどんすごくなっていき、類型的なキャラだと思ったのがどんどん濃くなっていくのがすごくて、話の展開もとても予想できず、まさに鬼才の作品という感じ。『太陽の黙示録』も、よくありげな近未来もの、くらいにしか思ってなかったのだが、全体的にも細部においてもリアリティのある設定、納得のいく描写などが非常によく出来ていることに最近気がついて来た。『かむろば村へ』などのいわば文学的なエネルギーとは違うのだけど、ある種の圧倒的なエネルギーが注ぎ込まれていることが分かってくると、別の面白さが見えてくる。それは今まであまり感じてなかった、というよりも感じててもあえてスルーしていたような種類のものなのだが、そういうのもようやく視野に入ってきた感じがする。

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