「偉い人は偉い」と思っていたことに気がついて驚いた

Posted at 07/11/23

先ほど帰京。

考えてみたら、ネットに接続しているパソコンの電源を入れたのは、今日になってから始めてだ。今日は休日だったので郷里の仕事を早めに切り上げて7時の特急に乗った。新宿着が9時過ぎ。このくらいの時間だと全然楽だ。帰りに地元の駅前の書店でいくつか立ち読み。SAPIOで小林よしのりが書いているのを読んで、ちょっと思ったことがあった。

自分の中で、やはり政治家だと科学者だとか、そういうものに対する抜き難い信仰のようなものがあるということ。権威信仰というべきか。というかその辺のところ、私は実はものすごく素朴にそういう人は偉いと思っているところがあるのだ。個人としてみればこんな学者はダメだ、と思う人はいくらでもいるが、「名無しさん」としての学者というのはどうしても偉いものだと思ってしまっている。

小林のマンガを読んでいて、自分が一定評価している歴史学者を小林が論理的に攻撃しているのを読んで、これは小林の方が正しいなと思ったのだ。学者の世界には学者の世界の、「業界の事情」というものがある。小林は部外者だし表現者としてあえてそういう日本的な「世間」の外に立つというスタンスがあるから、快刀乱麻を断つことが出来る。それを読みながら、自分の中の権威を偉いと思う気持ちの存在に気がついたのだ。

自分の中で、これは変なんじゃないかと思いつつも、学者の言うスタンダードに自分の考えを適合させようとするところがやっぱりあって、どうもそこのところがわれながら気持ちが悪い。合わせようとか認められようとかいう気持ちがゼロでないから真実を求める気持ちとの間で葛藤が生じてしまうというところがある。

結局は、誰が何と言おうと、自分が自分の中の「真実の鏡」に照らして正しいと思ったことが真実であると判断するしかないんだなあと思う。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾往かん」とは孟子の言葉で、出身校の校訓だが、これはつまりある意味で権威を全否定する言葉だ。「随所に主たれば、立つところみな真なり」とは『臨済録』の言葉だが、それも同じようなことだろう。

問題は、自分の「真実の鏡」を磨くこと、曇りなく映すこと、歪みなく映すことなのであって、それに映し出された自然の姿によって自分のやるべきことを判断していくことが必要なんだろうと思う。

偉い人は偉いという素朴な枠組が自分の中で結構重要だったんだなあと思ったけれども、とりあえずはそういう枠組ははずしていったほうがちゃんと物が見えるようになるんだろうなあと思う。まあそういう枠組が自分の中にかなり堅牢にあったということ自体が結構驚きではあったんだけど、でも案外みんな持ってるんじゃないかという気もする。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday