どろどろとした鋭さ/海軍カレーを食べる/トラウマをかわいがることはよくない

Posted at 07/10/15

今朝は5時前にもう目が冴えていて困った。昨日少し早く寝すぎたか。5時半過ぎに起床して朝日を見に行った。川に近づいてきても曇っていて日が出そうにないので、清砂大橋を途中まで渡ってみることにする。すたすた歩道を歩いて橋の真ん中あたりまで来ると、並行して走っている地下鉄東西線の鉄橋の上側の辺と同じくらいの高さのところを歩いていることになる。これはマンション7階くらいの高さだ。そしてこのあたりは海抜ゼロメートル地帯(つまり地面が水面下。大体マイナス2メートルくらい)なので、水からの高さも大体マンション7階くらいということになる。結構高い。

一番高くなったところから引き返し、堤防の上に降りて、川べりに出る。まだ日が出ない。これはもう雲のせいだなと思い、引き返すことにする。今日は下町の中を歩いて帰ることにする。元八幡にお参りした後、後の富士塚を見て、(江戸時代の御富士講の跡だ。なんかホント遺跡っていう感じ)元八幡通りに出る。でたところにバス停があって、結構な人が待っていた。この路線は東陽町駅行きだから、みな東陽町で降りるんだろうな。結構乗るんだなあと思う。家に帰るまでずっと曇っていたのだけど、家に帰り着いて10階に上がったら、急に日が差し込んできた。やられたと思った。

しかし今日は調子が出ず、横になったり考えごとをしたりしながら半日が過ぎる。

岩明均『ヘウレーカ』を読了。主にローマ軍対アルキメデス、という話だといっていいだろう。なんというか、どろどろした鋭さ、とでもいうべきものを感じた。感情を知的な自我で統御しようとして怪物化しているというか、残虐な知性、魔性の優しさ、みたいな感情と知性が複雑骨折し、奇形化したまま引っ付いてしまったとでも言うような。また統御できない魔としての科学、ということも感じた。いろいろな意味で、90年代以降の特徴を多く持った作家ということなんだろうなと思った。私があまり読んできていない、エヴァンゲリオンとか寄生獣とかバカボンドとか、そういうものの延長上にあるものを感じる。

アルキメデスの造形については、ボケかけのアルキメデスというのもまあありだなとは思ったが、最後までしゃんとしているアルキメデス、というのも読んでみたい気がした。時代考証に関しては、ローマ時代だからテーブルではなく、寝椅子で寝そべってでの夕食になるのではないかという気がする。あとは主人公ダミッポスがスパルタ人である必然性があまり感じられない。スパルタ人であるという設定でよけいな意味が生じているのに、その処理に関してちょっと無頓着なんじゃないかと思う。シラクサ軍の軍議が大テーブルで行われているのも変。ドイツ参謀本部じゃあるまいし。アルキメデス家の庭の低木(ツツジ?)がベルサイユ庭園風に幾何学的に刈り込まれてるのも奇妙な感じ。ヘレニズム時代にこんな作庭法があったのだろうか。積極的に描こうとしているものはまずまず正確に描かれていると思われるので、無意識に描いたものを誰かにチェックしてもらえば防げるミスだったと思うのだけど。


ヘウレーカ (ジェッツコミックス)
岩明 均
白泉社

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昼前にどうにかしようと外に出て、電車に乗ってから、そうだ靖国神社に行こうと思いつく。久しぶりだ。8月15日以来だ。九段下で降りて神社の方に行くと、今日はなぜか観光バスがたくさん止まっている。今日は秋の例大祭だったかなあと思って大村益次郎像の隣を通る。今日はなぜか外国人観光客が多い。手と口を清め、十月の予定を見ると、例大祭は明後日かららしい。あの観光バスは何なのだろう。

拝殿で参拝。二礼二拍手一礼。願おうと思っていたことがあったのだが結局無念無想。参拝はやはり無念無想で行くべきだ。遊就館を少しのぞき、昼食に海軍カレーを食べる。量的にやや少なく、また味的にも一本たりない感じがする。いろいろ考えたが、多分唐辛子が足りないのだと思う。甘いものは砂糖の甘さが、辛い物は唐辛子の辛さが昔懐かしの味、というものを食べたときに足りなさを感じることが多い。それらのものが昔は足りなかった、ということもあるだろうけど、今の我々が味覚の上でもいかに刺激に満ちた生活をしているかということなんだろうなあと思う。こういうものを食べて頑張っていた軍人さん、兵隊さんを思うと粛然とする。

神社を出て九段の坂を下り、神保町に出る。何軒か本屋を回ったが、高瀬理恵『公家侍秘録』(小学館、2007)の第6巻が出ていたのでほくほくして買った。第5巻が出たのは確か2年以上前だ。一体いつ次の巻が出るのか一日千秋の思いで待っていたが、年に数度しか発行されないビックコミック増刊での掲載なので、6話(単行本1冊)分たまるのに2年近くかかってしまったということなのだろう。この人、他にどんな仕事をしてるのだろう。有職故実はかなりきちんとしている。一点だけ、青侍が御姫様と並んで歩くのはどう考えてもおかしいと前から思ってはいるのだが。

公家侍秘録 6 (6) (ビッグコミックス)
高瀬 理恵
小学館

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東陽町で降りて帰宅途中、深川三中の生徒が下校するためのバスが5、6台連なって団地を出て行くのは壮観だった。廃校になった南砂西小学校を、近辺の小中学校が改修・改築の際に臨時に校舎として使っているのだ。だから送り迎えはスクールバス?ということになる。廃校になってもう何年にもなるのに、この校地が空になることは未だにあまりない。
夜もなんとなく気合が入らないままにしていたら、友人から電話がかかってきて話す。最近の(といってもここ10年以上ずっと続いているのだが)不調のことで話していて、ちょっと分かったことがあった。私は十年間のイヤな記憶(私は私自身、「失われた10年1990-1999」と呼んでいる)を、嫌だ嫌だと思いながら、実は「かわいがり」過ぎていたのだ、と思ったのだ。この今でもひどく「トラウマ」になって残っている10年間の記憶を、今の自分の「原点」だと勘違いして来たのだ。

よく考えてみたら当たり前なのだが、トラウマが創作の原点になったり、帰るべき原風景になったりすることはありえない。トラウマを負うことによって何知らなかったものが自我の中に目覚めるということはあるかもしれない。しかし重要なのはその目覚めたものの方であって、トラウマそれ自体ではない。(これは『ディア・ハンター』の中でロシアン・ルーレットに取り付かれ、狂ったように勝ち続けるニックの姿が思い浮かんでしまう)

ディア・ハンター

ジェネオン エンタテインメント

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トラウマを自分の中で弄んでも、自分の無力感が増大するだけで、何にもエネルギーは出てこない。原点というものはそんなものであるはずがないではないか。なぜそんなことに気がつかなかったんだろうと思う。

というようなことを電話を切ったあと西友に夕食の買い物をしに行く間に考えたのだった。

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