銀座を歩く/子供を虐待する人に対する冷たい怒り/「神の復活は迷惑だ」というモチーフ

Posted at 07/09/17

昨日。頭の中がごちゃごちゃして、体調がおかしくなった。私にはよくあること。いろいろ考えていて昨日はどうも気分転換する気にもならなかったが、今日はだいぶ前向きになってきた。というか、前向きにならないと本気で体調がまずいことになりそうな感じなので、ごちゃごちゃいっていられない感じ。

夜、地元の書店に出かけ、結局何も買わなかったが、『Voice』の10月号(PHP研究所、2007)をぱらぱらと読んだ。気になる内容がいくつかあった。

Voice (ボイス) 2007年 10月号 [雑誌]

PHP研究所

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その後別のブログのエントリをいくつか書く。夜は『カラマーゾフの兄弟』を少し読み進めて寝る。「大審問官」の話しに入った。

朝は6時に起床。洗濯物をたたんだり洗濯をしたり洗物をしたりなど、家事を少しする。一段落してから『カラマーゾフの兄弟』を読み始めたのだが、どうもなかなか読み進められない。文庫を持って銀座に出かけることにする。

懐かしいところ、昔よく行ったところに行こうと思い、教文館でVOICEの10月号を買った後、西五番街のカフェ・ド・ルトンに行ってみたらしまっていた。11時過ぎだったのでまだ早かったかと旭屋書店に行ったらここもしまっていた。11時半からだった。

さてどうしようと途方にくれたが、そういえば『マロニエゲート』がオープンしてからまだまもなくだなと思って行ってみた。まだ入り口のところを規制したりしていて、最近の新しい都心の再開発ビルはどこでも新装開店のときは大もてだなと思いつつ、中に入る。フロアガイドをもらっていくつか見て回った。

二階に『ROSE BUD(ばらのつぼみ)』という店があって個人的にウケた。『市民ケーン』か?レディス・メンズ・服飾雑貨とあったが、メンズのシャツの感じがわりあい私好みで、今度買ってもいいなと思った。五階から九階までは東急ハンズ。六階のステーショナリーのコーナーはわりあい使えそう。伊東屋もライバル出現だな。十階から十二階はレストラン街だが、例によって大混雑なので様子だけ見て帰る。

時間も経ったので再びルトンに行ってみるが、まだ開いていない。仕方ないのでもう一度旭屋に行く。フロムエーの表紙がアンジェラ・アキで仕事に関するインタビューというのが載っていて興味深かった。もし今バイトをするなら何を、というところで「イベント関係」のバイトをしたい、人との関係は横のつながりで広がっていくので、というところでなるほどと思った。なんか男だったら肉体労働で大変そうだが、場合によっては面白いかもしれない。でも大学時代とかは全然そういう発想はなかったなあ。今考えるとそういうのもよかったかなと思う。

12時を過ぎて三度目の正直でもう一度ルトンに行ったら開店していた。ラッキー。この店は西五番街の中で一度移転しているが、もう20年位前だけど、舞台美術をやってる人に連れて行ってもらってから、愛用していた。最近はちょっとご無沙汰だったけど、やっぱりいいな。シャンティとバナナクレープを注文。堪能。

帰りに郵便局でお金をおろそうと思ってはたと当惑。そういえば、銀座の郵便局ってどこにあったっけ。築地に本局(京橋局)があるのは知っているが、ちょっと遠い。交通会館の中にもあった気がする(ある)が、面倒だ。(実はマロニエゲートの向かいなんだが)今マピオンで見たら三越のすぐ横に銀座4丁目局というのを見つけたが、そのときは気がつかなかった。結局松坂屋の裏の銀座6丁目局に行ったのだけど、他にも6丁目の朝日ビルやプランタンの裏にもあることが分かった。あ、メルサと英国屋のあいだにもある。

『カラマーゾフの兄弟』現在第2巻376ページ。第5編「プロとコントラ」を読み終わって第6編「ロシアの修道僧」の中の「ゾシマ長老の生涯における聖書の意味について」を読んでいる。「プロとコントラ」とはどういう意味か、説明があるかと思っていたのだが結局最後までなく、今ネットで調べてみると「肯定と否定」という意味らしい。イワンの長広舌と彼の「大審問官」の物語詩を通して、神を肯定するのか否定するのか、という問いかけということなのだろうか。

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー,亀山 郁夫
光文社

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個人的には、子どもが虐待されたり虐殺されたりするくだり(p.236あたり)で、虐待者に対する冷たい怒りのようなものを感じた。自分の中での怒りというのは基本的にホットなものなので、自分の中に冷たい怒りの存在があるということに気がついたことがちょっと驚きだったといってもいいのかもしれない。この怒りをどう解決すればいいのか、いまのところよくわからない。

「おれに必要なのは、復讐なんだよ。それが出来なきゃ、おれは自滅する。その復讐だって、どこか、いつか、無限の彼方じゃなくって、この地上で実現してほしい。」というイヴァンの言葉(p.243)はよくわかる。こういうふうに感じるから、光市の事件などでの弁護団の対応に強い憤りを覚えるんだろうと思う。

大審問官の話は正直よくわからない。人間はひざまずく(パンをくれる)相手を必要とする、良心を預ける(善悪を判断してくれる)相手を必要とする、世界を統合してくれる存在を必要とする、という大審問官の問いかけとイエスの無言の口づけ。聖書を読むと、食と権力と安全、という人間の本質に関わる欲求を、すべて神に任せて疑うな、という問題なのかなあと思うが、このへんクリスチャンでないためか、何がどう問題なのかよくわからない。

ただ、「教会制度にとって神の復活は迷惑だ」、というモチーフは分からなくはないし、これは人間世界の常にあることだとは思った。っていうか、教会とか教団ていうのはそういうものだろう、と最初から思っているからそれに関して全然意外に感じなかったというのは、ある意味ニヒリズムが行きすぎなのかもしれない。「神の復活」ではないにしても「原初の信仰に帰れ」という原理主義が常に制度を脅かす、というのはイスラム教においてもキリスト教においても同じことだ。二代目・三代目が後継者となった日本の新興宗教団体などで、古い信者が後継者から離れて分派を作ったり個人で信仰を守ったりするようになるのも同じ問題を孕んでいる。

信仰の制度化は自由意志にとっては問題だが、自由よりも確信、救済の安心を得たいという要求にとっては、制度化こそが望ましいという側面もある。それが偽善だ、という主張は当然あるが、偽善であっても人が幸福になるならそれでいいではないか、という主張もありえる。本質より形式が重要、というか、形式に本質はついて来る、という考え方といえばいいか。このあたり、実際に既成教団に属して真剣な信仰を持っている人が自由意志と信仰の問題について悩むという問題なのだろう。私はそういう立場ではないので、ちょっと分からないことも多い。

***

今日は銀座を歩きながら、そういえば昔はもっと優しい気持ちで人に接していたな、と思った。ただ道を歩くだけでも、なんというか、同じこの世に生きている同類、というような気持ちで歩けていた気がする。いつの頃からか、というか仕事や結婚の問題、自分の生き方の問題で悩んですべてが行き詰った頃から、そういう気持ちをなくしてしまっていたな、と思う。以前友人と話していても思ったが、昔は基本的に誰に対してもフレンドリーに接していたし、基本的に「敵」というものが存在すると思っていなかった。あんまり「敵」というものが存在するとか思わないほうが人生は楽に生きられることはたしかなんだけど、それを意識するようになったのはそういう時期と、南京「虐殺」問題、「慰安婦」問題などがかまびすしくなったり、拉致事件が表面化したりしたことが重なった頃からだ。中国とか朝鮮とか、基本的には好意を持ってたんだけどな、昔は。別に何の偏見もなかったし。やや負の思いがあったのはむしろアメリカに対してだった。それは今でもあるが。

でも別に、そういう半ば巨大な大状況の中においてではなく、通常の生活の中で、そんなに敵を意識して暮らすのはやはりちょっとどこか神経症的だ、少なくとも私にとっては。そういうことが出来る人もいるんだろうけど。もうちょっと平らかな気持ちで毎日を過ごせるようにならないと、多分体調もよくはならないなあと思う。

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